兄の生きた場所

ひびき

男と老人は机を挟みしばらく黙っていた。男が老人に聞かされたのは、自分がこの山小屋の管理人である、ということだけである。日はとっくに暮れ、窓の外は静寂と闇が、部屋の中は微かな電球の明かりと薪ストーブの心地よい音が支配していた。

「今回は本当に残念でしたね。」ふと老人が男に話しかける。耳の奥の鼓膜をなでるような優しい声。男は返事をする代わりに静かにうつむいた。

「どこまで知っているのです?」老人は尚も優しい声で男に話しかける。

「ほとんどのことは父から聞きました。」男はそう言うと少し顔を上げて、ぽつぽつと話し始めた。

「兄が死んだそうですね。先週、遭難者を探している最中に。」

老人は小さくうなずいた。男は続ける。

「アウトドアが好きな父の影響で兄は小さいころから自然が大好きでした。小さいころから暇さえあれば父と二人で虫取りや川遊びに行っていましたね。」男は昔の記憶を自分のメモリーの奥から一つずつ濃縮して絞り出して言った。自分は自然にそこまで魅力を感じることができずに母と留守番をしていたことが実は少し寂しかったことや、父と兄が帰ってきた時に毎回見せてくれる戦利品をそこそこ楽しみにしていたことなどあふれんばかりの男の古くさび付いた思い出がよみがえってくる。

「そして兄は大学を出てすぐにこの山小屋で働き始めました。」兄が大学を卒業した直後の話になったときに男の顔色がわずかばかりに曇ったのが老人にはわかった。

「両親は反対していました。そこそこいい大学でしたのでもう少し選択の余地はあったからです。しかし兄は大学卒業直後に黙ってこの山小屋に勤め始めました。」

老人は三年前にどこか後ろめたさを感じさせながら面接に来た男の兄の顔を思い出す。その顔が今の男の顔と被った気がした。

「私たち家族は兄をたくさん探しました。親戚の家や友達の家など兄の行きそうなところは全て探したと思います。しばらくして兄から手紙が届いたのは兄が山小屋で働き始めて三か月がたった時でした。僕が大学生になり、そして母が亡くなったちょうどその頃でした。」

男はそこでプツンと言葉を切った。少し肌寒い室内とは反対に男の体温は内側から少しずつ上昇していくのが分かった。額を生ぬるい汗が通過する。それが怒りなのか悲しみなのかは男にもわからなかった。


「お兄さんを恨んでいるのですか?」ふと今まで黙っていた老人が口を開いた。

「それが自分でもわからないのです。母が死んだ時は正直なぜあいつじゃないんだ、と思ったことはありましたけどね。」

「ではなぜ今日ここに来たのです?」

「兄が生きた場所を見れば何かが変わると思ったからです。兄が家族よりも大切にした居場所を自分の目で見ようと。」

「そうですか。」老人はそういうと何かを考えリュックからカラフルな大学ノートを何冊か取り出し机の上に置いた。

「この山小屋の荷物を整理していた時に出てきたものでね。あなたのお父さんにあなたがここに来たら渡してやってほしいと頼まれたので。」そういうと老人は上着を取り「まだ誰も読んでいないはずです。読んであげてください。」そう言い残すと上着を羽織り玄関から外に出て行った。






一人残された男はノートとにらみ合っていた。表紙の真ん中には「星空日記」と大きく書かれその横に何冊目かを示す数字が書かれていた。男は手に取るのが怖かった。額だけではなく体全体から冷たい汗が出ているのを感じる。そのノートたちは兄の思いを一身に背負い重しのように机にへばりついている。混沌とした頭ではそれ以上考えることはできず気づけば一冊目と記されたノートを手に取っていた。しかし、しばらくの間手に重圧を感じるそのノートを男はなかなか開くことができない。兄を知るのが怖い、もし何も書いてなかったらそこで終わってしまう、男はその不安を何度も頭の中で唱えながら意を決しページをめくった。


表紙をめくると現れた、流れるように走り書きされた兄の字を男は何度か見たことがあった。

―大切な家族へ。許してください。

その言葉で始まった最初のページは隅から隅まで隙間なく家族のことについて記されていた。日付は兄が家を出た次の日だった。男は丁寧に一文字ずつ目に入れていく。話は父への文から始まった。昔から自然の楽しさを教えてくれたことへの感謝や大学を出てすぐここに来たことへの申し訳ない気持ち、でも自分は悔いのない選択をしたので大丈夫だということ。それらが、私はこの山に憑りつかれてしまったのです、という言葉によって書かれていた。母への文も大きくは同じ構成だった。感謝から謝罪そして安心の言葉が書かれていた。そこまでで半分。残りは弟、つまり男へのメッセージだった。男は少し緊張して読み始めた。最初の方は小さい頃の思い出がつらつらと書かれていた。自分が虫を取って帰ってきた時の弟のうれしそうな顔を見たくて頑張ったことや土日になると雨でも父に外に行かしてくれと頼んだことなど男にも印象的な思い出はいくつもあった。しかしその思い出の一つ一つにお前が一緒だったらなと毎回付け足されていた。呼吸が苦しくなる、男は兄がそんな風に思っていることなど全く知らなかったのだ。いつも二人で出かけているのを見ていつかは一緒に行きたい、とは思っていたことはあったが結局行くことはなかった。もしあの時に戻れたら自分はどうしたか、男には難しいた問いだった。メッセージの続きには自分は当分戻ることはない、親のことを頼むと書かれていた。ノートを持つ手が震えてくる。そんな文面だけで頼らないでほしかった。もっとあなたは家族のことを思うべきだった。男は捨て犬のようなさみしげな眼でノートを睨んだ。自分が思っていることを伝える相手さえもうどこにもいない悲しさと悔しさが心を支配した。しかしそこから男の感情を揺らすような文章はしばらく現れなかった。次のページからは日記になっていた。ここでの暮らしや今日の星空、作った献立などが詳しく記されていてほぼすべてのページが隙間なくびっしりと埋められている。昔は非日常だからこそ楽しかったのだろうと思っていたがそれが日常になっても楽しく生きていた兄の姿は文面から容易に想像することができた。しかしある日を境に文面から明るさが消える。母が死んだ日だ。自分は連絡を取ったつもりでいた、言い訳はそれのみであとは謝罪と後悔で埋めつくされている。ところどころノートには薄いしみがついていた。男は責める言葉も優しい言葉も出てこなかった。三年前この山小屋で泣きながらこのノートを書いている兄の姿が切なく脳の中で再生され、ただ胸が締め付けられる。兄がこれを書いている時、男は兄を恨んでいたと思う。お前のせいでお母さんは死んだ。何度も心の中で叫んだのを思い出す。恨んでも恨んでもむなしい声だけが心の中に泥のように積もっていった。いつか兄を一発殴ってやろうかとも思いながら結局会うことはなかった。白い紙に今にも水分が戻りそうな涙の跡がついたノートでの兄との再会。心の中の泥が少しずつろ過され、きれいな水滴だけが垂れてくる。兄との生き方は昔から違った。好きなこともやりたいことも全く。それでも嫌いだったことはなかった。それが失ってみて気づいたのかはわからないがもし今、兄に会えたなら積もる話はたくさんある。男はノートを一気に読み進めた。八冊目、真ん中あたり。来週は新月だから星を目が痛くなるほど見られるといいな、ここで兄の命は終わっていた。


男はノートを閉じて周りを見渡した。相変わらず外は闇と静寂が室内は薪ストーブが消え静かな明かりのみが支配していた。手についていた溢れんばかりの大量の汗をズボンの裾にこすりつける。体が少しだけ軽くなった気がした。男は上着を着て外に出た。


「やっと来たかね。」

ずっと待っていたのだろうか。外のベンチに老人が座っていた。

「あの。」男は気まずそうに声をかける。

「今は何も言わんでええ。それより今日は新月です。星がよく見えますよ。」

老人はそういうと空を指さした。

きれいだった。真っ黒なキャンパスに無数に散らばった光の結晶は自分が宇宙の中にいることを強く感じることができた。ふと光に埋め尽くされた夜空に薄く一筋の流れ星が流れた。その流れ星を男は一秒たりとも目をそらすことはなかった。男は景色が霞んで見え額に何か水滴が落ちてくるのを感じた。

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