ラッキーストライク
『三日後一時。いつもの場所で』
そう言ったっきり電話を切った。
私の一番新しい記憶。
気づくと私は古ぼけたバスに乗っていた。他に乗客はおらず私ひとりの貸切状態。窓の外から見える風景は飛び飛びの電灯に薄く照らされた田舎道で、周りを走る車はほとんどいなかった。
身体を揺られながら思い出す。何故私はここにいるんだろうか。そもそもここはどこだろうか。バスに乗るまでの記憶がない。最後の記憶は誰かに電話をかけたこと。『三日後零時。いつもの場所で』。どこでかけたかも誰にかけたかも全く覚えていなかったけれど、私はなんとなく、どこに行ったらいいのかも、誰に会ったらいいのかも分かっていた。
少しずつ思い出してくる。この田舎道は学生時代、街に出るときに使った道で、このバスは町から帰ってくるときに使ったバスで。
窓にうつる公道と畑は、あのころと変わらなかった。
思い出した。私はこの風景を見るのが嫌でこの村を飛び出したのだった。
止まったまま、ただ滅びていくだけの村を見ていくのが嫌だった。なにも変わらず、ただ日々を過ごしていくのが嫌だった。変化を求めてここと決別し、そして都会に向かい、相手を見つけ、結婚した。子供も……。
……そうだ。私、妊娠したんだ。
そして逃げたんだ。自身が変わるのが、途方もなく怖くて。
そうなって最初に思い出したのは、彼のことだった。村にいた時、都会に出るまでのほんの少しの間付き合った、彼のことを。
別れるその時まで変わらなかった、彼のことを。
そうして、約束の時間より少し早く、約束の場所へとたどり着いた。
バス停から降りて少し歩いたところにある、村と街のちょうど間あたりにあるボウリング場跡。村にいたころですらそこはボウリング場“跡”で、けれどその風化具合を妙に気に入ったのを覚えている。彼との秘密の密会はいつもここで、私たちしか来ないこの場所に落書きをして回ったのも昨日のことのように思い出せる。記憶からどこに落書きしたかを思い出し、彼が来るまでの間に散策を試みる。落書きのあった壁は風化によって剥がれ欠けていて、その光景に少しだけ安堵した。ここは、前と変わらない。
ふと、静かな夜の廃墟にタイヤが公道を蹴る音が聞こえてきた。時刻は、午前一時前。
なにかたしかな証拠があるわけではなかった。でも、きっと彼だろう、と、思った。十年前にここで聞いた、彼を待っていた時に聞いたあの音と、同じだろうと思えたから。
笑顔を張り付け、昔と同じようにふるまえるように心を整える。きっと彼も、変わっていないだろうと思ったから。
「よっ。元気、してた?」
暗闇から室内に入ってきた彼に、そう声をかけた。
彼はあの頃となにも変わらず、ボチボチだよ、と返してきた。
「もう無理だよ。俺もお前も。もう」
私の意図に気づいた彼がそう言い切るか切らないかのところで、とっさに唇を重ねる。強引に舌を押し込み、身体を寄せた。彼の手が半ば反射のように私の背中に回る。言い切らせてはならないと感じた。それを言ってしまえばきっと、彼との関係はもう永遠に断絶してしまうと思えたから。
彼が結婚したことは知っていた。それでも、彼なら変わらないでいてくれていると信じていた。お互いに相手がいるとしても、再び身体を重ね合えば、きっと熱は戻ってきてくれるだろうと。活力にあ溢れたあの日々の記憶。舌を返され、自然と絡める。彼の手が、私の身体を。
“ゆっくりと、労うようにさすってきた”。
瞬間。身体が跳ねた。不安が頭を埋め尽くす。記憶の中にある彼の腕はもっと獣のように荒々しく、私の身体を貪っていた。そして私も、それが心地よかった。
けれど、それらは知らぬ間に失われていた。重ね合わせた彼の身体はとても冷たく、ただただ私の熱だけが宙を空回りしているようだった。
気づかれないように、彼にふざけて聞いてみる。
「……上手くなった?」
「多少は。経験積んだしな。そっちはご無沙汰か?」
「……いわなーい」
これ以上、失うことが怖かった。だから今度は私から、乱暴に腕を絡めにいった。彼は私を優しく抱きとめ、壁際へと押しやった。
こんなから回ったやり取りですら、心地よいのが悔しかった。
一段落したところで私の方から小休止を申し込んだ。経験を積んだ、というのは冗談ではなかったようで、私の方は何度も果てさせられてしまった。あの頃は、まったく逆だったのに。
ソファに腰かけ、お互いにタバコを取り出したその時、彼が取り出したタバコが目についた。
私が取り出そうとしたのとは別のタバコ。私たちの、私の、彼にあこがれて吸い始めたタバコではない、別のタバコ。
「タバコ、変えたんだ」
出来るだけ平静を装ってそう呟く。彼は、そうなんだよ、妻が嫌いらしくってさ、と話した。眩暈で倒れそうになる身体を必死に支える。嗅いだことのない、甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐる。ラッキーストライクとは別の、私が好きな匂い。
私が苦手なラッキーストライクとは、別の匂い。
「あのさ、私、その匂い嫌いだな」
「へえ、そうなんだ」
彼は何気なしに、変わらずそう返した。
「そうなんだ、じゃなくてさ」
「なくて?」
「……火、ちょうだい」
……結局、そこから動くことは出来ず、渋々自分のタバコを取り出す。せめてもの抵抗として、昔からのお約束だったシガーキスを提案する。子供っぽくて、けれど特別だったあの儀式を。“変化”の証明だったあの儀式を、今度は変わらないことの証明として。
私のラッキーストライクの煙と混ざった彼の煙は、やっぱり私好みの、苦みの少ない煙で。
「……やっぱり、嫌い」
嫌いな味の煙と共に、口からそんな言葉を吐き出した。
いつの間にか外は白んできていた。割れた窓からは反射した陽の光が差し込み、天井の一点を眩しく照らしていた。
「そろそろ、帰らなきゃな」
彼はポツリとそう呟いた。思わず、どうして、と問うてしまう。
離れたくなかった。ここで離れてしまえば、もう二度と。
「どうしてもなにも、そろそろ妻が起きるからだよ。勝手に出てきたから、起きるまでには帰らないと」
「……いいじゃん、帰らなくても」
拗ねたように私が返すと、彼はしばらく押し黙ってしまった。嫌な予感がした。彼ががこうやって考え込むときは、いつだって核心の話をするときだったから。
「上手く、いってないのか。そっちは」
私は小さくふるふると首を振る。
「そんなことない。でも」
「ならいいだろ。別に今生の別れじゃあるまいし」
「――――っけど! ……けど」
分かっていた。分からなくもない。私自身、ここに来るまでは、そう思いたくなかった。
けれど、実際ここに来て、再び身体を、心を重ね合わせ、そして、気づき、納得してしまった。
「……嫌い、だった?」
せめてもの抵抗として、彼に意地悪な質問をする。
「いいや」
「嫌いになった?」
繰り返す。
「いいや」
「これっきり?」
繰り返す。
「いいや」
「もう二度と、ない?」
繰り、返す。
「いいや。望まれるなら」
「じゃあさ、望むから、それ以外は望まないから、だから、だから」
繰り返さない。希望にすがる。変わらないでいてくださいと、変わらなくあっていてくださいと、そんな願いを追いすがる。
「でも、それだけはダメだ」
「どうして!」
胸が張り裂けそうな声で、ぐしゃぐしゃに歪んだ顔で、すべての仮面は外れてしまった姿で、私はそう泣き叫ぶ。
分かっていた。これは昔、私が彼にした仕打ちだ。
それが、分かっていようとも。たとえそれが、世界で二番目に愛する人に対する裏切りだったとしても。世界で一番に愛する人への冒涜だったとしても。
それでも、自分の心をないがしろにすることは、できなかった。
我儘を。私だけが幸福でありたいと、そう願ってしまったのだ。
……もっとも、その願いが叶わないことは、私自身が一番よく分かっていたのだけれど。
「これからも、どうしてもっていうならシてもいい。けど、それだけはダメだ」
「……どうして」
「お互い、一番になるタイミングが噛み合わなかった。ただそれだけの話だろ」
本当に、巡り合わせとしか言いようがなかった。彼が私を一番好きになったのは十年前で、そして彼が私の一番になったのは今このタイミングで。
ただそれだけの、ありふれた幸福で、不幸の話。
私は、心底でそれを分かっていた。彼と身体を重ね合わせた時から。
一度は心を通わせ、愛し合い、そして互いが互いの一番になったこともあった。人生において決して長い時間ではなかったけれど、それでも、身体を重ね、心を重ねた。そんな相手のことだからこそ、会ったその時から、この結末は見えていた。彼は間違いなく変わっていて、なにより私の中で彼が一番になったことが、変化していくことのなによりの証だった。
「分かる、だろ」
「……ぅう……」
「俺も、そうだったんだ。だから」
「……」
「辛くても、耐えてほしい。勝手な願いだとは、分かっているけど」
それでも、世界で二番目に大事な人だから。
それ聞いた私の心は、それ以上言葉を返せなかった。
それ以上に悲しくて、そして嬉しい言葉は、ここにはもう存在しなかったから。
……しばらくして。私は笑顔の仮面を取り戻していた。
もちろんそれがはったりであるということは彼も分かっていたと思う。
けれど、それでも。そうしなければならないのだ。気づかれていないふりを、気づいていないふりをして、お互いに平気を演じなければ。
そうしなければ、超えられない壁もあるのだから。
最後に軽くキスを交わし、互いに別れの挨拶を告げる。
「後で後悔しても遅いんだからね」
「それ、別れたときに俺が同じようなこと言ったの忘れたのか」
「それはつまり後悔してくれる、ってこと?」
「……っせーな」
お互いに、悲しみを隠して笑いあう。心の底から。
「バイバイ、きっともう会わないと思うから」
私は楽しげに、来た時と同じ調子でこちらへと手を振る。
「バイバイ、きっとまた会えるだろうさ」
彼は苦笑いを浮かべながら、来た時と同じ調子で手を振り返す。
建物の暗闇の中、一人たたずむ彼の姿を、反射した陽光がぼんやりと照らし出す。
その姿は、まるで亡霊のようだった。
ハッピーストライク/ラッキーストライク 大村あたる @oomuraataru
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