ハッピーストライク/ラッキーストライク
大村あたる
ハッピーストライク
『三日後、午前一時。いつもの場所で』
久しぶりにかかってきた電話口で、あいつはそれだけ告げていった。あとからかけなおそうとしても、どうやってもその番号には繋がらなくて、俺はそれを頭の片隅に置きながら、いつもと変わらない三日間を過ごした。
昔は通いなれていた畑沿いの、今は荒れ果ててしまった車道に古い自転車を走らせる。この歳にもなれば普段は車で移動するのが常だが、今日は妻にばれないように動きたかったので仕方なく、この長年の愛機に跨った。久しぶりに動かした彼は年老いた身体をぎぃぎぃと唸らせながら、出ない馬力で俺を運んでいた。いや、実際の動力は全部俺なんだけど。
冬のまだ冷たい風を受けながら、学生時代に思いを馳せる。昔はこの村から出たくて、みんなでよく郊外へと遊びに行った。貧乏学生だったのでバスを使うなんてことはほとんどなく、いつもこの自転車をこいで向かっていた。バスに乗る友人らに笑われながら、全力で脚を回してバスに食らいついていた。
そうやって笑っていたあいつも、あいつも、そして、今日会うあいつも。今はもう、この村にはいない。あの時都会にあこがれていた連中はとっくの昔に村から離れて、あのグループの中で俺一人だけが、この村に取り残されている。学生時代は話したことのなかった、見合いをするまで名前も知らなかった女性と結婚し、家庭を持ち、再来月には子供も産まれる予定だ。
この生活に不満があるわけじゃない。妻は思っていたよりも自分と気が合ったし、田舎ならではのそこそこ大きな一軒家は近くに遊べる場所がないことを除けば暮らしやすくて快適だ。最近では通販技術も発達しているから、よほどのことがないかぎり買い物にも困らない。近所づきあいも無理のない範囲で良好で、昔感じていたような閉塞感は今はほとんど気にならない。子供を持つ、ということに対しての実感はいまだに沸かないけれど、不思議となんとかなるだろうと思えてしまう。そういう、安定の二文字が似合う生活。
けれど、後悔がない、と言えば、それもまたウソになる。
向こうに行ってしまった彼らと俺とで、いったい何が違ったのだろうかと、物思いにふける夜がある。不安定だらけだったけれど、その分毎日がパンパンに充実していた日々を思い返すこともある。
だからかもしれない。その後悔を背負ったままだったからこそ、俺は今こうやって、あの頃と同じように、深夜に自転車を走らせているのかもしれない。
今はともう遠くに行ってしまった、会えない彼女に会うために。
そうして俺は、変わらぬ約束の場所に辿り着く。街と村のちょうど中間といえば聞こえはいいが、実際は何もないところに建てられたボウリング場跡。月明かりに照らされたその姿は十年前と同じように寂れていて、なんだか不思議な気持ちにさせられた。いろんなものが変わったのに、ここだけは変わっていない。変わらず、朽ちたまま。
「よっ。元気、してた?」
中に入ると先に来ていたであろう彼女が俺を出迎えた。声の調子も、おどけた表情も、何一つ昔と変わっていない。俺と別れた時の彼女と、何も変わらない。
このとき、この空間だけが、あの学生時代に戻ったような、そんな錯覚を受けた。
ぼちぼちだよ、と俺は返す。なんだよ元気ないじゃん、と背中を叩かれる。
「久しぶりの元カノとの再会だってのに随分とシケてんじゃない」
「大変なんだよ。こっちも色々と」
「だーからそんなに老けたんだ」
彼女のケタケタという笑い声がだだっぴろいボウリング場にこだまする。思わずつられて苦笑してしまう。自覚はないがたしかに老け込んだのかもしれない。
「お前は変わらないよな。羨ましいよ」
俺の言葉に、彼女はヘラリと笑ってみせた。短かったけれど、濃い付き合いだった。だから、彼女がどういうときにそういう顔をするのかは、おのずと理解できた。
だからこそ。
「もう無理だよ。俺もお前も。もう」
そう紡ごうとした口を、下から塞がれる。外気よりもはるかに熱い舌が無理やり口内に入り込んでくる。記憶が、腹からせりあがってくる。反射的に腕を彼女の背中に回してしまう。
腕の中の彼女が、悪戯っぽそうにくすりと笑った。
「なんだ、やっぱり正直じゃん」
いやなもんだなとぼやきながら、噛みしめるように、彼女を強く抱き寄せる。嬉しそうな熱を感じる。あの頃は、気にする暇もなかった体温に、少しだけ驚く。貪りあうような、活力にあ溢れたあの日々の記憶。舌を返し、絡める。ゆっくりとさするように、身体に腕を這わせる。彼女の身体が、びくり、と震えた。不安そうな瞳がこちらを覗き込んでくる。
「……上手くなった?」
「多少は。経験積んだしな。そっちはご無沙汰か?」
「……いわなーい」
そう言うと彼女も同じように、乱暴に身体を擦ってくる。受け止めるように抱え上げ、その背中を近くの壁に押し付ける。
重ねた体は、焼けそうなくらいに熱かった。
「タバコ、変えたんだ」
ひとしきり身体を交わした後。彼女に「少し休も?」と提案され、俺たちはスプリングの死んだソファに腰かけていた。俺が尻ポッケから出した煙草を見て、彼女はぽつりとそう呟いた。
「ああうん。アイツがな、その匂い嫌いだってうるさくてな」
「アイツって、奥さん」
「ん。まあやめろって言われてないだけマシだよ」
軽く自嘲気味に笑う俺を見て、彼女は少し考えこんでいるようだった。もの思いに耽る彼女を尻目に、俺はライターで煙草に火を点け、煙を軽く吸い込んだ。言われてみればたしかに昔と違う味だけれど、もはやそこまで気にはならない。せめてもの抵抗を試みようと、若い頃のように煙で輪を作りふっとふき出した。
彼女はその煙の端を吸い込み、悲しそうに眉尻を落とした。
「あのさ、私、その匂い嫌いだな」
「へえ、そうなんだ」
何気なしにそう返す。
「そうなんだ、じゃなくてさ」
「なくて?」
「……火、ちょうだい」
しまおうとしたライターを差し出すと、彼女は首をぶんぶんと横に振った。
「そうじゃなくて! ……そうじゃ、なくてさ。昔、みたいに」
彼女は胸ポケットから煙草を取り出す。昔俺が吸っていたのと同じ銘柄。その一本を口にくわえ、こちらに向かって先を差し出す。
俺は煙草をくわえたまま、その先の火を、彼女の先へと移す。煙と煙が絡み合い、彼女の煙草の、懐かしい匂いがこちらにまで漂ってくる。
「……やっぱり、嫌い」
煙草を大きく吸い込んだ彼女はたくさんの煙と共に、そんな言葉を吐き出した。
いつの間にか外は白んできていた。割れた窓からは反射した陽の光が差し込み、天井の一点を眩しく照らしていた。
そろそろ帰らなきゃな。そう俺が気だるげにそう吐くと、彼女は作ったような笑顔で「どうして」と、こちらにそう問うてきた。
「どうしてもなにも、そろそろ妻が起きるからだよ。勝手に出てきたから、起きるまでには帰らないと」
「……いいじゃん、帰らなくても」
……しばらく、押し黙る。
「上手く、いってないのか。そっちは」
彼女は小さくふるふると首を振る。
「そんなことない。でも」
「ならいいだろ。別に今生の別れじゃあるまいし」
「――――っけど! ……けど」
分かっていた。分からなくもない。俺自身も、ここに来るまでは、少しだけ不安だった。
けれど、実際に、再び身体を、心を重ね合わせ、そして、気づき、納得した。
「……嫌い、だった?」
「いいや」
「嫌いになった?」
「いいや」
「これっきり?」
「いいや」
「もう二度と、ない?」
「いいや。望まれるなら」
「じゃあさ、望むから、それ以外は望まないから、だから、だから」
「でも、それだけはダメだ」
「どうして!」
胸が張り裂けそうな声で、ぐしゃぐしゃに歪んだ顔で、まるで夜中の笑顔などなかったかのように、彼女がそう叫ぶ。分かるさ、俺だって、別れた時はそうだった。辛くて、死にたくて、まるで世界の終わり来たようだった。
それが、分かっていようとも。たとえそれを、世界で二番目に愛する人が受けることになったとしても。
それでも、自分の心をないがしろにすることは、できなかった。
……正直、後ろ髪は魅かれるけれど。
「これからも、どうしてもっていうならシてもいい。けど、それだけはダメだ」
「……どうして」
「お互い、一番になるタイミングが噛み合わなかった。ただそれだけの話だろ」
本当に、巡り合わせとしか言いようがない。俺が彼女を一番好きになったのは十年前で、そして俺が彼女の一番になったのは今このタイミングで。
ただそれだけの、ありふれた不幸で、幸福の話。
彼女も、心底それは分かっているだろうと俺は思っていた。一度は心を通わせ、愛し合い、そして互いが互いの一番になったこともあった。人生において決して長い時間ではなかったけれど、それでも、身体を重ね、心を重ねた。そんな相手のことだからこそ、分かってもらえるだろうという、半ば勝手な確信があった。
「分かる、だろ」
「……ぅう……」
「俺も、そうだったんだ。だから」
「……」
「辛くても、耐えてほしい。勝手な願いだとは、分かっているけど」
それでも、世界で二番目に大事な人だから。
そう伝えると、彼女は悲しそうに笑った。
きっと、心からの笑顔だった。
……しばらくして顔を上げた彼女はもういつもの笑顔に戻っていて、もうなにもかもを振り切ったようだった。
もちろんそれがはったりであるということは俺も彼女も分かっていたし、互いに知っているということもまた理解していた。
けれど、それでも。そうしなければならないのだ。気づかれていないふりを、気づいていないふりをして、お互いに平気を演じなければ。
そうしなければ、超えられない壁もあるのだから。
最後に軽くキスを交わし、互いに別れの挨拶を告げる。
「後で後悔しても遅いんだからね」
「それ、別れたときに俺が同じようなこと言ったの忘れたのか」
「それはつまり後悔してくれる、ってこと?」
「……っせーな」
お互いに、悲しみを隠して笑いあう。心の底から。
「バイバイ、きっともう会わないと思うから」
彼女は楽しげに、来た時と同じ調子でこちらへと手を振る。
「バイバイ、きっとまた会えるだろうさ」
俺は苦笑いを浮かべながら、来た時と同じ調子で手を振り返す。
朝焼けの中に消えていく彼女の姿は、まるで亡霊のようだった。
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