第13話 閑話 コイジの行方

 その部屋に入った途端、嗅ぎ慣れてしまった匂いと、薬の匂いが鼻を突いた。

 廊下の蛍光灯の光が、僅かに照らす畳部屋にのべられた寝床に、仰向けに横になる知り人に気付き、蓮の後ろから続いた葵が小さく息を呑む。

 立ち尽くす若者の横を通り、すがるようにその枕元に座り込んだ大男は、その人物が僅かに胸を上下しているのに気づき、安堵で肩を落とした。

 元々白い肌が生気を失い、額から目元を覆う包帯に滲む色が、この若者の今の症状を物語っていた。

「何で、こんな事になってんだよ……」

 力なく尋ねる声に、答えは返らない。

 肩を落として呟く大男の後ろで、蓮は立ち尽くしたまま拳を握った。

 最後に声を聞いたのは、この日の夕方だった。

 蓮はその前の丸一日、過去の過ちに思いを持って行かれてしまい、何も手につかなくなっていた。

 一度、携帯電話が着信を告げたのは分かっていたが、ゆるゆると動けるようになった時に、その相手を知った。

 動けるようになったのは、自分の事に見切りをつけたせいで、気分を前向きに出来たからではなかった。

 その相手に折り返しの電話をしようと思ったのも、最後に声を聞きたいと考えた為で、何の見返りも求めていなかった。

 仕事が終わったところだと言ったその電話の相手の、力ない声を気遣うその声につられて、蓮はついつい自分の気持ちを吐露していた。

 自分らしくもなく強い口調で言いつのった後、我に返って小さく笑う。

「……本当に、情けねえよな。ただの思い込みで、呪いが解けきれなかった挙句、大切な兄弟死なせちまってた。これじゃあ、親殺し免れても、同じだよな」

 電話の向こうの若者は無言のままだったが、聞いてくれていると感じていた。

 その場にいないからこそ、弱音を吐けた相手だ。

 だが、慰めて貰おうとは考えていない蓮は、相手が何かを言う前に声を発していた。

「すまねえな、柄にもなく、変な話をしちまった。まあ、寝言を言っているとでも、思っててくれ。お前には、色々、苦労かけちまっていたから……それが、本来は無駄な行為だったってのが、申し訳なくてな」

 我ながら上ずった笑いだと思いながら、若者はそう言って相手の反応を待つが、相手は返答しない。

 沈黙が、おかしかった。

「……おい? どう……」

 言いかけた蓮の耳に、軽い衝撃が響いた。

 床に、携帯電話を取り落とした後だと気づいた時、ようやく相手が声をかけた。

「御免。眠くて、意識が飛びそうになってた」

 かすれた、いつもの声とは全く違う若者の声だ。

「おい? 何か、あったのか?」

「いや。仕事は、さっき無事に終わった。後は、寝床に戻って、眠るだけだ。心配ない」

 いつもより、途切れ途切れの言葉が、尋常でない状態だと、蓮に伝えて来る。

「今、どこにいる?」

「一言では、言えない場所だ。でも、心配しないでも大丈夫だ。ちょっと、気が楽になったから」

 声に力が戻った蓮とは反対に、相手の声は力なく笑った。

「良かった。あんたには、呪いの類は、かけたくなかったんだ。ずっと、それで嫌な目に合っていたのに、かかったままのものを解くためとはいえ、別な呪いをかけるなんて、私はしたくなかったんだ」

「おい、喋らなくてもいいから、場所を……」

「蓮」

 嫌な予感が胸をよぎり、何とか場所を聞き出そうとする蓮を、若者は強く呼んだ。

「あんたは、血縁殺しなんか、してない。あんたの母上の時は、全く信ぴょう性がなかったけど、これは、はっきりと言える」

 あんたの、弟は、生きている。

 そうはっきりと言われ、蓮は言葉を失くした。

「……」

「嘘だと思うのなら、聞いて見ればいい。今、あんたの所に居候している奴があんたの弟と会った。どこにいるのかもすぐに分かる。だから……」

 まくし立てるように言ってから、電話の相手は言葉を途切れさせた。

 息を殺して呼吸を整えているのが耳元から伝わり、つい携帯電話を握りしめる。

「そんな、弱った声を、出さないでくれよ。そんな声を聞いたら、心配になるじゃないか。このまま眠れなかったら、どう責任を取ってくれるんだ?」

「馬鹿っ、眠る前に、場所を吐けって言ってんだろうがっ」

 心配している相手に、乱暴な言い分だとは思う。

 だが、そんな気遣いをする暇がないほど、切羽詰まった声音に聞こえた。

「……」

 緊迫した蓮の声に、若者は力なく笑った。

「そう、その声が、いつものあんただよ。うじうじするのは、親父さんに任せておけよ。あんたには、全然似合わない。あんたがこの先どう動こうと、納得した上なのなら、それでいい。……余計な事、しちゃったんだな」

 ぽつりと付け加えられた言葉が何を意味するのか分かったのは、これよりかなり後だ。

「……じゃあ、そろそろ切るよ。流石に、もう、我慢できない」

「せ……」

 呼びかけようとした耳に、通話が途切れた音が響いた。

「……あんにゃろ……」

 言いようのない不安と、何故か無性に湧き出る怒りで、いつもよりも乱暴な言葉が口から洩れた。

 どこにいるのかは知らないが、すぐに探し出してやるっ。

 そんな気持ちで体ごと振り返った蓮は、目の前にあった知った顔の不機嫌顔に、ぎょっとして立ちすくんだ。

 我に返る前に蹴りを鳩尾に食らい、体勢が崩れた所を押されて、背中から崖に突き落とされた。

 滝つぼに真っ逆さまに落ちた蓮は、流れの急な池の中で顔を水面から出したが、その頭を飛び降りて来た若者に抑えつけられ、再び水の中に沈み込む。

 水を大量に飲み込んでしまいながらも何とかもがき、若者の手から逃れた蓮は、水面に顔を出して相手を睨んだ。

「突然来て、何しやがるんだっ。オレを、殺す気かっ?」

「やかましいっ。殺しても死なんくせに。文句をつけるなら、もう少ししゃれたものにしろっ」

 こんな状況で、そんな文句は探せるはずがない。

 流石に息が上がり、黙って睨む蓮を見下ろすのは、自分より少し長身の若者だ。

 見えないはずの薄い色素の瞳が、今は怒りの色で染まっている。

「何をうじうじとして、相手の空気を読み違えたかは知らんが、先走ろうとする気概が戻ったのなら、まずは、その気味の悪い狐の匂いを、全て洗い落としてからにしろっ」

 吐き捨てる声にまで、鳥肌が立っているかのような鏡月の言葉で、蓮は思い出した。

「……風呂、入ってねえ」

「……洗い落とせんようなら、皮膚を削ぎ落してやっても、いいぞ?」

「やめろ。流石に、そこまで染み付いてねえ筈だ」

 仕込み杖の柄に手をかける不穏な若者を諭しながらも、蓮は少しだけ不安になる。

 糧とやらに指名されてしまった後では、それこそ皮膚を削ぐ勢いでなければ、匂いが消せないかも知れない。

「電話の相手は、セイだったな?」

 気がせいている頭を冷やす意味で水を被り、体を洗う蓮に、鏡月が静かに尋ねる。

「ああ」

「護衛の仕事が、入っていたはずだ」

「……終わったと、聞いた」

「そう簡単に終わる仕事には、聞こえなかったんだがな」

 鼻を鳴らして言う若者を見上げると、鏡月は空を睨んでいた。

「昨夜、電話があった。正しくは、オレが頼んだことが出来なくなったと言う、断りの電話だったが」

 その時、軽く仕事の話が出た。

 セイには難しい類の仕事が、舞い込んで来た。

「失敗はしないつもりだが、終わった後しばらくは使い物にならないかも知れず、それだと届け物が遅れてしまうから、頼まれて欲しいと、逆に頼まれごとをしてしまった」

 まどろっこしいが、蓮の今の状況を話した後の事情だ、仕方ないと鏡月は苦い思いで了解したらしい。

「まさか、薬物を扱った攻撃の護衛、か?」

「そう言う事だろう。ただ眠るだけの薬なら、対処のしようもあるだろうが、最近では質の悪いのが出回っているからな」

 あっさりと頷かれ、蓮は舌打ちした。

 つまり、仕事は無事終わったが、セイ本人は全然無事ではない、という事だ。

「途中までは話してたから、即効性のある毒でもなかったんだろうが。自力で何とかできると、思ってんのか?」

 種類によっては、体から抜けにくい物もあるし、抜ける前に毒に侵されて命を取られる事もある。

 そう考えると、ますます焦ってしまい、すぐに探しに行こうと立ち上がる蓮に、鏡月は不機嫌を残したままいつもの口調を取り戻し、言った。

「まずは、飯を腹に入れろ。探すにせよ、保護するにせよ、体力がなければ、どうにもならん」

 小屋に帰ると、エンがすでに食事の支度を整えていた。

 軽く礼と詫びを言って、蓮は鏡月と葵を交えて久し振りにまともな物を口に入れる。

 頭が冷え、栄養も行き届くと、先程までの焦りが別な感覚に変わった。

 その感覚にのまれないように、蓮は冷静に考えていたのだが、その思考を携帯電話の着信音が途切れさせた。

 相手は雇い主の狐で、何故か大物の政治家をしている奴だ。

 仕事の方が先決と判断し、狐の元に向かったのだがそれでよかった。

 そこで結局、今ここで、セイが休んでいる事が分かったのだ。

 約束の件は、蓮が果たす前にすることがあると申し入れた後で、蘇芳本人からキャンセルされた。

 仕事の方も、既に解決してしまったから、無効となったと告げられ、何となく力が抜けたのだが、蓮の前に蘇芳が差し出した物を見て、背後の空気が冷たくなった。

 小さく息を呑む雅の兄弟たちの前で、鏡月がのんびりとした口調のまま、呼びかけた。

「おい、性悪狐。何でそれを、お前が持っている?」

 のんびりとしているが、空気に気分が駄々洩れだ。

「何でって、オレが、忘れちまっただけだろ」

 浅葱と萌葱と名付けられている狐たちが、身を寄せて震えているのを見て、蓮が苦笑しつつ答えると、若者はその空気のままやんわりと笑った。

「ほう、お前、ここに、忘れていたのか?」

「あ、ああ」

 どう忘れていたのかは、詳しく話さない。

 いや、鏡月も聞きたくはないだろう。

 曖昧に頷いた蓮に、盲目の若者は笑顔のまま言った。

「その石は、これからセイが、上野家あてに届けて来るはずの物なんだが、何でここで、出て来るんだ?」

 今度は葵が息を呑んだ。

 蓮が目を見開いて振り返る先の蘇芳は、小さく笑い声をあげる。

「それが出来そうにないからか、私に頼んで来た。その上野家に、郵送してくれとな」

 考えるよりも前に、蓮の体は動いていた。

 椅子に座ったままの狐に飛びつき、首を攫み上げる。

「お前、あいつを呼んだのかっ」

 一瞬、頭の中が真っ赤に染まり、我に返ると、驚いた顔の狐の顔が間近にあった。

 不味いと思ったが、見返す目には力が感じられない。

「……?」

 戸惑う若者を見返したまま、蘇芳は微笑んだ。

「心配するな。私にはもう、お前をどうこう出来る力は、ない」

 だからこそ、約束を放棄したのだと、狐は言った。

 ゆっくりと事情を話した蘇芳を放し、蓮は後退しながら睨みつけた。

「その後、どこに行ったのかは? 真っすぐ家に戻ると言っていたか?」

「そこまで、私に話す謂れはないだろう。兎に角、あの者が仕事を無事解決できたからこそ、私は命まで取られずにすみ、ここにいる。力がなくなってしまったのは、私の驕りが原因だ。薬が充満する中、窓を開けて換気するまでに、随分虚勢を張ってしまっていたからな」

 知恵の回る獣は、ついつい弱者を下に見過ぎてしまう傾向がある。

 蘇芳はついつい、弱い甥っ子たちを窓の方へ追いやってしまった。

「力だけでなく、視力も失いそうな威力の薬だったが、あの者が奪って来た薬が上手く中和してくれたのだ。仕事の報酬の件も、少なすぎるから、交渉し直したいが、生憎、どこに行ったのかまでは、分からん」

「……」

 力なく答えた狐を見つめたまま、蓮は肩を落とした。

「そうか。知らねえなら、仕方ない。これは、確かに返してもらった。今回は役に立たなかったが、こっちの分野で要りようになったら、また利用してくれ」

 型通りの仕事の挨拶をして、藤原家を後にすると、殆ど話さなかった葵が、低い声を出した。

「あいつ、どっかに、倒れてんじゃあ……」

「ただ、倒れてるだけじゃねえな。あの薬も、もう一つの薬も、取り過ぎりゃあ、どこからか大量に出血する類の物だ」

 蓮の冷静な返しに、葵は低く悲鳴を上げた。

「ど、どこに転がってんだあっっ」

「落ち着けっっ」

 叫んでどこかに走り出す大男を、二人の若者が寸前で止めた。

「闇雲に探し回って、見つかるはずがないだろうがっっ。もう少し、考えて動けっっ」

「このまま、お前まで迷っても、探しには行かねえぞっっ」

 怒鳴る二人に、葵は泣きそうになりながら反論する。

「じゃあ、どうやって探すんだよっっ。早く探してやらねえと、あのめんこい顔が血まみれに……」

「顔とは限らねえよっ。脳に近い穴から、大体は……」

 言いかけた蓮は、ふと考えこみ溜息を吐いた。

「そうだな、蘇芳は視力も危うかったと言っていた」

「やっぱり、顔じゃねえかっっ」

「黙れっ。顔に怪我を負ってのものではないんだ、取り乱すなっっ」

「大体、もう血まみれは確定してんだ。腹くくれ」

 低く言った蓮は、大男の目を見据えた。

「これから、心当たりを、一つ一つ当たっていく。それしか、手はねえだろう」

 見返した葵も、真顔で頷いた。

 それを見て、鏡月がいつもの口調に戻って話しかける。

「そこまでまどろっこしい事を、する必要はない。オレに、場所の心当たりがある」

 そう言って盲目の若者に連れて行かれた先が、この小さな一戸建てだった。

 和風な拵えの建物と内装の、奥の部屋に、若者は横たえられていた。

 看病の合間に外に出たそこの住人を、鏡月が話しかけて呼び止めている間に、蓮と葵はその部屋に忍び込んだのだった。

 侵入者に気付いた住人だが、鏡月の様子で敵ではないと判断してくれたようで、若者の問いに静かに答えている。

「……保護してから先程までは、うわ言を口走っていたが、今はそれすらできなくなったようだ。もう、打つ手がない」

 症状を問う鏡月に答えた声で、葵は若者を見下ろしたまま顔を歪める。

 その横に立ち尽くしたまま、蓮もその声を否定することは、出来なかった。

 すでに、血の色を誤魔化すと言う気遣いも出来ない程、横になった若者の症状は悪化していた。

 時々大きくなる、包帯の黒い滲みが、皮肉にもまだ、生きてはいると感じられるものだった。

 葵が、恐る恐るその包帯に手を伸ばすが、その手を蓮が攫んだ。

 弾かれたように顔を上げ、若者を見た大男に頷き、横に身をずらしたその巨体の代わりに、枕元に座る。

 久し振りに、顔を見たような気がした。

 勿論気のせいだが、ここまでじっくりと見つめたのは、何百年ぶりだろうか。

 黙って横たわっている様は無防備で、こんな時でなければ、目元を覆う包帯さえなければ、物語の中の登場人物そのものだっただろう。

 成長に差が出来てしまってからこっち、セイの言葉や表情に虚を突かれないように、それまで以上に乱暴に接し続けていたのだが、そんな虚勢をする必要を感じない。

 だからこそじっくりと若者を凝視し、その額に手で触れた。

 蘇芳に触れた時に分かった薬が、大量に感じられる。

 毒が体中に回っているのではないから楽に対処できそうだが、濃く薬に影響を受けている場所が場所だった。

 葵が息を詰めて見守る中、蓮は慎重に薬の抜き取り作業を行って行く。

 暫くすると、セイが小さく声を上げ、反射的に両手を上げる。

 目をかきむしりかねない動きを抑え、片手で額を抑えたまま片手で両手を攫み、小さな声で言い聞かせた。

「痛むのは、今だけだ」

 すぐに、本来の治癒方法としての眠気が、襲うはずだ。

 脳が毒で犯され、痛みが感じられないままに動けなくなったから、体の異常を察することが出来ない状態だったのだ。

眠って怪我を治すことも、毒を体から追い出すことも出来ずに、徐々に命を削られていた。

意識は、はっきりとしているのに。

「本当に、難儀な体質だな。もう、気に病まなくていいから、泣くな」

 優しく言う蓮の隣で、涙目の葵も無言で何度も頷き、蓮から奪い取るように若者の両手を握った。

 暫くそうして様子を見て、落ち着いた頃にその場を去ったのだが、この時から今までされているある誤解を、蓮は未だに解く事が出来ないでいた。


 初めにそんな誤解をされていると知ったのは、あの三年後の再会後だった。

 仕事の話を具体的に進め、一息ついた時、まずセイが礼を言ったのだ。

 森口家に保護された若者はこっそりと処置された事を、何となく覚えていたらしい。

 だから、逆にそれはお返しの様なものだから、貸し借りなしだと答えたのだが、セイは自分は何もしてないと言い切った。

「いや、オレの代わりに仕事を受けてくれた上に、石も、取り返してくれただろうが」

 惚ける気かと返すと、若者は何故か妙な顔になった。

「お前、あの蘇芳を脅したそうだな。見たかったぞ」

 鏡月が、見えない癖にという突込みを承知でそう揶揄うと、セイは更に変な顔つきになってしまった。

「何だ?」

 珍しく表情を変える若者を、内心不思議に思いながら問うと、若者は溜息を吐いて言った。

「余計なことして自爆しただけなのに、何で礼を言われることになるのか、分からないんだけど」

「あのな、ここまでやってくれといて、余計な事はなず、ねえだろうが」

「余計な事だろ。分からないとはいえ、人のコイジを邪魔してしまった上に、一人で先走ってしまったんだから」

 聞いていた二人の若者は、一様に眉を寄せた。

「人の恋路? 何の話だ?」

「? コイジって、こういう時に使う言葉だろう?」

 問いを逆に問いで返され、二人の若者はしばし考えた。

 嫌そうに顔を顰めた鏡月が、問いかけた。

「まさかとは思うが、蓮と、蘇芳が、そう言う関係で、すでに心までつながっていると、思っているわけでは、あるまいな?」

「な……」

 言葉を失くして目を剝いた蓮の横で、セイは目を瞬く。

「そうでないと、蓮があんな呪いにあっさりと引っ掛かるはず、ないだろ」

 あっさりとは、引っかかっていないと言いたかったが、先の衝撃がその口を固まらせてしまっていた。

「オレは、野郎を伴侶にする気は、ねえぞっ」

 しかも、女房持ちだ。

 思わず叫ぶように言ってしまった蓮を、鏡月は呆れて見やり、セイは目を見開いた。

「……じゃあ、あの趣向を、気に入ったのか?」

「お前、人を変態に仕立てて嬉しいかっ?」

 その時は誤解を解こうと、色々とまくし立てたのだが……。

 風向きは、その仕事終わりに少し変わった。

 後片付けの合間に、蓮はセイに確認した。

「お前、分かってたんだな?」

「何が?」

「蘇芳が、女だと」

 だからこそ、趣向はおかしくても、情を持ったのならば邪魔するべきではないと、セイは反省していたのだろうと分かり、蓮は確認したのだが、セイは振り返って答えた。

「……見て気づかないのも、不思議だったけど」

「……」

「良かったじゃないか、気づいて。男相手だと思ったから、全力で否定してたんだろ? 嫌よ嫌よは好きの内と、誰かが言ってたけど、本当なんだな」

 誰だ、そんな言葉だけ面白おかしく、こいつに吹き込んだのは。

 しみじみと言う若者を見つめながら、蓮はその誰とも知れない誰かに毒づいた。

「ああいう趣向の上に、連れ合いもいる奴より、あんたにはもっといい人がいるだろうに。あんたがいいと言うなら、仕方ないよな」

「……いいとは、言ってねえぞ」

 短い言葉に全てを込め、蓮は低く否定した。

 それが、全く伝わっていなかったと確信したのは、この事件解決直後だ。

 蘇芳が訪ねて来た時も、顔を顰めて嫌そうにはしたが、叩き返そうとする素振りはなかったし、先程も、再会を喜ぶ夫婦を呆れて見ていただけだった。

 嫌っていると言う程、険悪な素振りがない。

 そして、エンと雅との合流後の言葉。

 その時、セイの頭に浮かんだ蓮の思い人は、誰だっただろうか。

 そんな事を考える事すら苦痛になる程、蓮には耐えがたい誤解だった。

 だから入退門を出て、現地解散した後、交通機関で帰ると言う雅とエンを呼び止め、蓮はきっぱりと告げた。

「こういう事は、これっきりにしろ」

 真剣な言葉に、雅は何を言われているのか、すぐに察した。

「そう言う事は、メルの方に言った方がいい」

「今回は、あんたが、オレを引き合いに出したせいだったろうが」

「それは、そうだけど……」

 困ったように返す女に、蓮は本音を吐露した。

「あいつは、オレを兄弟のように思ってるだけだ。好意は持ってくれているが、それ以上の感情は、感じられねえ」

 誰かと相思相愛だと、勘違いされるまではいい。

 だが、そう思い納得されるだけで、後は気遣われるだけというのは、こっちが納得できない、そう言い切った。

「……」

「あんたの気遣いは嬉しいが、向こうの好意とこっちの好意の種類が違うんじゃあ、何やっても平行線だろう」

「そうだね……まずは、色恋の感情を、教える所からするしか、ないんだよね」

 普通は、年を重ねれば自然と身につく感情だが、何故かセイはその感情に疎い。

 やはり、学校に行く方向に、周囲にも呼び掛けて、計画を立てよう。

 そんな事を考えながら雅は頷き、メルにも何とか誤魔化しておこうと約束すると、立ち去る蓮をその場で見送ってから、門の傍にあるベンチに座り込んだままのエンを見下ろす。

 男も座り込んだまま、蓮の後姿を見送っていた。

 呆れたように小さく笑った後、ゆっくり立ち上がったエンは、首を傾げて自分を見上げた雅に気付いた。

「自然では、動きがなさそうだから、あなたは動いてるんでしょうに。ままなりませんね」

「……分かってくれるんだ」

 蓮は、甲斐性なしというより、気遣う若者だ。

 気遣い過ぎて、相手の本当の気持ちを、深く察することが出来ないでいる。

 その相手の複雑怪奇な心の内を、正しく察するのは難しい所業ではあるのだが、蓮には早くそれが出来るようになってほしいと、雅は思う。

 蓮が蘇芳の糧に選ばれた後のセイの行動は、明確な気持ちを表に晒したものだったはずだ。

「知らない内にセイは、蘇芳さんに嫉妬したんだよ」

 術を掛けようとする狐の言で、若者が武器を放って勢いのままに脅したと聞いた時、すぐに雅はそう察した。

 しかし本人は、その時の動きに戸惑った事だろう。

「冷静になった後、蓮が簡単に呪いにかかるはずがないと思い当たって、余計な事をしたと思っちゃったんだね。余計な事でも何でもないのに」

 そんな後悔が、嫉妬の気持ちを心の中に押し付けてしまった。

 勿論、嫉妬だ、と気づいて押し込めている訳でもない。

 だから、どうしてそんな感情が湧いたのかも、その感情が何なのかも、未だに考えた事はおろか、思い出しすらしていないだろう。

「あの狐と、さっき会った筈ですけど、いつもと変わりありませんでしたね」

「なかったね。あの感情を思い出して、私たちに聞いてくれさえすれば、自覚も早いと思うんだけど……」

「……」

 雅の願望の籠った言葉に、エンは無言で返してしまった。

 自分たちに、そんな気持ちを相談するようになれれば、それこそ成長したと思うのだが、揶揄われるかもしれないと敏感に察するあの若者が、簡単に心を打ち明けるとも思えない。

 その沈黙の意を察し、雅は力なく笑った。

「これ以上、複雑な修羅場が訪れないように、早く解決したいんだけど、本当に、ままならないよね」

 急に疲れて来た女を見下ろし、エンは微笑んだ。

「帰りに、何か食べていきますか? その位の予算なら、手元にありますよ」

「食べるなら、久し振りに君の手料理がいいな。最近、手を抜いた料理ばかり、食卓に並べてるだろ?」

 そっと男の左側に寄り添い、雅が微笑む。

 見下ろしたままのエンの目が丸くなり、次いで再び笑顔になった。

「ばれましたか? 今は、最近の味を勉強中なんです。手の込んだ料理でなくても、しっかりと偏りなく、食事ができるようになりましたよね。山に籠っていた時は、気づきませんでした」

 今は、周囲の人の協力で、そう言う食べ物を開拓中だった。

「……稲荷ずしが、一週間ほど後なら……久し振りに、うどんを打ちましょうか。材料があったかな……」

 独り言のように小言で呟いた男は、左腕をぎゅっと抱きしめられて、目を剝いた。

 思わず勢いに任せて抱き着いた雅は、嬉しい気分そのままで言う。

「もう、愛してるっっ」

 それがうどんに対してなのか、自分に対してなのか。

 どちらにしても、エンには嬉しい反応だった。

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私情まみれのお仕事 侵入編 赤川ココ @akagawakoko

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