第12話  閑話 怖い物

 苦手の克服は、仕事上でも個人の心境面でも、大事な事だと思う。

 恐怖も、苦手という分野の中に入るから、克服するのがいいのも分かる。

 しかし、若者は思う。

 わざわざ、苦手な物がたむろしている場所に行ってまで、克服しようとまで思わなくても、いいのではないか?

「そりゃあ、店先の小父さんの人形とか、カエルの人形とか、気づいたら間近にあって、肝を冷やした事なら、何度もあるけど……」

「物の気配に気づかねえほど、眠り込みながら歩いてんのか」

 震えを抑えながら呟く若者に、傍を歩く若者は冷静に指摘する。

 暗い通路に突然、生首の人形が降って来た。

 身を竦めて立ち竦んだセイは、つい握り締めていた物を引っ張った。

「っ、引っ張るなと言っただろうがっ。今度やったら、置いてくぞ」

「逆に何で平気なんだよっ。天井から生首の人形を吊るして落とすなんて悪戯、やったら犯罪だろっ。心臓の悪い人なら、間違いなく死ぬぞっ」

「心臓の悪い奴は、好んでこんなとこに入らねえよっ。大体、吊るして落とされてると分かってんのに、何でそこまで怯えられるんだっ?」

 珍しく取り乱す若者を、髪を攫まれたままの蓮は、何とか落ち着かせようと試みているが、震える声が言った。

「だって、あれの顔、笑ってるじゃないかっ」

「怖がってる割に、よく見てんじゃねえかよ……」

 やれやれと溜息を吐きながら、蓮はちらりと後ろの方に目を向けた。

 後ろを歩く二人は、同じ仕掛けを前に立ち止まり、目を見開いている。

 驚くことなく生首を指でつんつんと触り、雅が感想を述べる。

「ゴムだ」

「殴って遊んでみますか?」

「……こっちに飛ばすなよ。流石に、それは意地が悪すぎる」

 いじめの様相になってきた気がして、蓮が苦言を呈する傍で、セイは苦々しい声で吐き捨てた。

「今まで気づかなかった、悪魔って、本当に要るんだな。こんな所に、三人もいるなんて」

「……こら、お前も似たようなもんだろうが」

 というか、何気に数に入れないで欲しいのだが。

 必死で宥めるのが、馬鹿らしくなる。

 経営者の重鎮が捕まった事で、明日からここは閉園になるようだ。

 その報告を受けた後、雅が手を打って切り出したのだ。

「この際だから、苦手の克服のために、まだ入ってない所も、回ってみよう」

「嫌だ」

 食い気味のセイの拒否だったが、雅は優しく諭した。

「セイ、私は心配なんだよ。万が一、君の商売敵が人形遣いで、人形に襲われた時に動けなくなったら、本当に命が危ない」

「それは……」

「仕方ないなんて、思ってないよね?」

 優しい笑顔なのに、何故か空気が凍る。

 相変わらず器用だなと思う蓮の傍で、セイは目を細めた。

「仕方ないとまでは思わないけど、仕事絡みなら、ある程度大丈夫なはずだ」

「そんな曖昧な太鼓判で、納得できないよ」

 頑固な若者を、情に訴えて言い負かした形で、現在は六つあるホラーハウスの、五個目に入っていた。

 後ろの二人は面白がっているが、蓮は戸惑っていた。

 先程まで、ここまで怯えていなかった。

 仕事中も、仕事終了後あのホラーハウスに戻った時も、緊迫し手先が震えている程度だった。

 雅の悪戯で出された火の玉で、蓮が悲鳴を上げて逃げ出した時一緒に悲鳴は上げたが、すぐに髪の房を放して走り出せるほどの余裕は、あったようだったのに、一体どうした事か。

 何とか出口に出て、セイは体中の空気を吐き出す勢いの溜息を吐いた。

「……もう、無理だ」

 入っていないホラーハウスはあと一つだが、正直身が持つ気がしない。

 呟いた若者を、蓮が珍しいものを見る目で見下ろすが、気づかず続ける。

「あれ以上近づいたら、ぶん投げて施設を壊しそうだ」

「……そっちか」

 納得しながら、雅たちを止めて正解だったと、蓮は思った。

 あの生首がこちらに飛んで来たら、恐怖で壊れたセイが力の加減なしで打ち返し、施設の壁に穴が空いていた。

 永く生存していると、恐怖の中でも自我が動くのか、どうも色のある展開にならない。

 が、後ろを歩いていた二人が出てくるまでと、弱音を吐きまくる若者を見下ろし、何となく微笑ましい気分になる。

「何だよ、何がおかしいんだ?」

 恨みがましく上目遣いに睨まれ、蓮は自分が笑っていたのに気づいた。

 咳払いして笑いを抑え、軽く返す。

「克服は難しそうだが、まあ、そこまで重い症状でもなさそうだな」

 抑えたものの、顔は緩んだまま続ける。

「恐怖で体が竦んだら、それこそ命とりだが、とっさに逃げる方に動けるなら、意識とんでも何とかなるだろ」

 しかも、傍にいる者を巻き込まないよう、とっさに蓮の髪を放した。

 恐怖で真っ白になった頭で、そこまで出来るだけでも、大したものだと褒める蓮を、セイはつい真顔で見上げた。

「……」

 雅特性の、火の玉に出会った時の話らしい。

 確かに、蓮の上げた悲鳴で頭が真っ白になり、とっさに若者の髪から手を放したのは、経験上の動きだ。

 他人を巻き込みたくないのが、セイの信条なのだ。

 だが、本当なら今頃、自分はまだあそこで固まっていたのではと思っている。

 少なくても、閉園間際に人形の動作が止まるまでは。

 それが今、こうして動いているのは、我に返るきっかけがあったからだ。

 頭が真っ白になったセイは、突然手首を攫まれて前のめりになった事で、あの時我に返った。

 咄嗟に足を踏み出して手を引かれるままに走り出してから、悲鳴を上げながら自分の手を攫み、引っ張るように走る蓮の背中に気付いた。

 礼を言うタイミングがなかったから、今迄黙っていたのだが、そう言う勘違いをされていると、言いずらい。

「何だ?」

 真顔で見上げるセイに気付いた蓮が、何事もないように問いかける。

「……いや、何でもない」

 指摘するのは、自分ではいけないのではと思う。

 だが、怪しい場所に思い人を連れて行かないつもりの蓮を、相手が深く知る機会は突発な危機の時しかない。

 そんな機会、あって嬉しいものでもないし、そうあるものでもないから、蓮が片思いの場合、相手が惚れる要素が少なくなることになる。

色事はよく分からないが、難しい問題だなとセイは思った。

成長と共に容姿も男前になりつつある蓮が、中身まで惚れあった相手と幸せになるのを、この目で見届ける事が、出来るだろうか。

 思わず深く考え込んでしまったセイは、何やら話しながら出口から出て来た男女の声で、我に返った。

「中々、面白かったね。薄暗いだけじゃなく、仕掛けも面白かった」

「そうですね。次は、どんな仕掛けがあるんでしょうね」

 もう一つも入る気満々の二人に、セイは慌てて声をかけた。

「そろそろ、閉園時間だっ。別なアトラクションにも乗るんだろっ?」

「いや、先にホラーハウスを制覇しよう」

 穏やかに返すエンの思惑は、手に取るように分かる。

「でも、観覧車は、結構時間食うぞ」

「だから、乗らなくてもいいじゃないか。ミヤは、初めに乗ったんだから」

 真顔での必死な言い合いだが、見ている二人は微笑ましい気持ちで見守っている。

「ホラーハウスは、一つ入れば十分だ。仕掛けは似通っているんだから」

「そんなの、入って見なきゃ、分からないだろう?」

「五つ入った私が言ってるんだから、確かだろっ」

「入ったからと言って、中の仕掛けを覚えている程、余裕があったのか?」

「あったよっ。例えば、初めに入ったのは……」

 勢いよく言い、セイが身をかがめて地面に図を書き、それをエンが見下ろした時、雅が溜息を吐いて声をかけた。

「それで、誤魔化せると思ったなら、随分甘く見られていると言う事だけど。閉園までは、一時間あるんだから、充分どちらも間にあうよ」

 時間稼ぎのつもりだった二人は、鋭い指摘に動きを止めた。

 諦めたように雅を見るエンの代わりに、立ち上がったセイが真顔で切り出した。

「そろそろ、勘弁してくれないかな。エンは兎も角、私まで罰ゲームをさせられてる気がするんだけど」

「君、自覚ないのか? この数十年、どれだけ周囲に心配かけているか」

「その分、周囲を心配しているつもりだけど、それじゃあ罰にならないのか?」

 目を細めて言う女に、若者も目を細める。

「私自身も、出来るだけあんた達に迷惑にならないように、頑張っていたつもりだったけど、只の自己満足だったのか?」

「……」

 無感情に、しかし人の痛い所をえぐれる若者は、絶好調だ。

 目を細めたまま黙り込む雅の横で、エンは小さく息を吐いた。

 ここで雅の味方をしてしまっては、この状況の打破が出来ない。

 黙り込んだまま見守る男を、呆れた顔で見やる蓮も、次のホラーハウスに入るのは遠慮したいので、そのまま成り行きを見守る。

「何も、代償なく許してもらおうとは思っていない。ここで終わらせてくれるのなら、くれてやってもいい物が、手元にあるんだ」

「え……」

 雅が目を見開いて、セイを見た。

 目を合わせた若者が、重々しく頷く。

「最近、偶然手に入った物で、まだあんたに食べさせられるほどにはなっていないから、もう少し待ってくれるのなら、しっかり味付けして渡す」

「ほ、本当? 偶然って、最近じゃあ、それを扱っている術師も、あまりいないんだろう? 堤家ももう、作る暇ないって……」

 雅が戸惑いながらも目を輝かせるのを、男二人が目を見開いて見ているが、セイは気にせずに答えた。

「だから、別な家の奴が使った物を、私が仕事先で偶然手に入れたんだ。余り勧める食べ物じゃないけど、あんたにとっては好物をお預けされているようなものだから、偶にはいいだろ?」

「君が下ごしらえして、味もつけてくれるのなら、古谷さんも怒らないよ。い、いつ頃出来そう?」

 エンが軽くショックを受ける程、珍しいはしゃぎようの雅は、セイに無邪気に尋ねる。

「手に入れたのが先週の頭だったから、後一週位してから、渡せるよ」

 若者が答えると、女は嬉しそうに微笑んだ。

「有難うっ」

「その代わり……」

「分かった。ホラーハウスは、もういいよ。後は、観覧車に乗って、帰ろう」

 よしっ、と秘かに拳を握る蓮の隣で、エンが口の中で悲鳴をかみ殺した。

 ここまで雅が嬉しそうにするほどの好物を、自分が知らない事もショックだったが、今は完全に逃げ場を失ってしまい、その衝撃を実感する余裕がない。

「大丈夫だろ。お前が暴れても、三人もいりゃあ抑えられる」

 そう言う問題ではないが、反論できるほどの余裕すらない。

 笑顔も固まっている男を見上げながら、蓮は思い出して上着の内ポケットからそれを取り出した。

「ミヤ、あんたが持ってた方が、いい画が撮れるんじゃねえのか?」

 メルに持たされた、最新式のデジタルカメラだ。

 機械音痴の雅だが、これならボタン一つで綺麗な画像が撮れるはずだ。

 そして、観覧車内で隣に座るだろう女が、間近でエンの顔を撮れば、メルも大満足なはずと、蓮はそう考えて切り出したのだが……。

「……」

 雅は優しく微笑んで、首を振った。

「壊したら怖いから、無理だよ」

「ボタン一つ押すだけ、なのにか?」

「だって、リモコンの類も、一つボタンを押したら、ショートしちゃうんだよ。怖いじゃないか」

 何で、そうなる?

 耳を疑う蓮に、雅は笑顔を苦笑に変えて、言った。

「電話も、受話器を持って話すしか、出来ないんだ」

 セイの電話が受けられたのは、耳に当てたらつながる機能を、設定しているからだと、女は説明した。

「ミヤの時だけ、そう出来るように設定してる」

 セイが言って、続けた。

「これでも、良くなった方なんだ。昔は、テレビの傍に寄っただけで映像が乱れたり、ショートしたり……原因が分かるまでは、苦労してたんだ」

 分かったからと言って、対策が上手く行っているわけでもないがと、セイは心の中で思いながら、蓮の手の中のカメラを持ち上げた。

「で、何を撮るために、こんな物を持たせたんだ? メルは?」

「エンの泣き叫ぶ様を、激写して来いとさ。動画の方が、面白いかもしれねえな」

「成程」

 セイは頷いて、男を見ながら笑った。

「面白そうだな」

 悪魔が三人いる。

 エンは、悲鳴をかみ殺しながらそう確信した。


 昔々の話だ。

 とある山に住み着いた狐には、四人の子供がいた。

 人間との間にできたその子供たちを育てる為、山にいる獣を狩り、野草を摘み、魚を獲って暮らしていたが、ある冬、その年の飢饉とこの冬の激しく荒ぶる吹雪の影響で、備蓄が底をついてしまった。

 人の村に降りて物々交換をしてもらうにも、その対価になる物がない。

 狐は目に見えて弱って来る子供たちを見ながら、どうすることも出来なかった。

 そんなある日、吹雪く山のひと時の晴れ間に外に出た狐は、大きな蛙に飛びつかれた。

 驚いて引きはがしてみると、一抱えあるガマガエルで、目が蛙のそれと違い、どす黒い色に染まっていた。

 蠱毒だ、そう気づいた狐だが、同時に決意した。

 このままでは、折角ここまで育った子供たちが、飢え死にしてしまう。

 これが、万人に毒だと言うのは知っていたが、狐は一口味見して頷いた。

 これならいける。

 もし、子供たちの体に合わない時はその時だと、いい加減な決意をし、狐はまだ元気に動く蛙を捌き始めた。

 火を起こしてその肉に火を通し、小さく刻んで子供たちの元に持って行くと、四人の子供たちは大喜びで食べ始めた。

「……まあ、昔から、おかしいとは思ってたんだ。父親が奇特な人だったとはいえ、人間と狐の混血が、何で純潔の狐から力を奪えたのか」

 もう一つ言えば、雅の兄弟たちもだ。

 雅以外の兄弟は、狐の姿で生まれたと聞いた。

 人の言葉を解するが、姿かたちは普通の狐と変わらず、力もなかった筈の三人が、何故か人に化ける術を身に付けた。

「ミヤの兄弟が、それ以上にならなかったのは、山に残らなかったことが理由だろう」

 何故なら、雅は長い間、冬の食料として、こっそりとそれを扱っていたのだ。

 噂を聞いて退治せんと試みる、術師の放った蠱毒を。

 よくよく聞いてみると、セイがその悪食に気付いたのは、塚本に狙われ始めた頃だったそうだ。

 セイに向かって飛んできた生き物を、雅は手で捕まえた。

 目を見開く若者の前で、女はそれをあっさりと口の中に入れてしまった。

「あ、久々のこの味。最近、あの山も平和になったからなあ」

 思わず怒鳴りそうになったセイは、感動して涙ぐむ雅に固まって、言葉を失くしてしまった。

 我に返った若者は、そのまま雅を見守りながら、これまでのある疑問の答えに気付く。

「要は、ミヤの機械音痴は、霊障、だったって事だ」

 電気が日本中を明るくし始めていたその頃、セイの周囲では様々な現象があった。

 地域全体で原因不明の停電が頻発し、奇妙な噂もちらほらと出始めていたのだが、よくよく考えてみれば、停電が起こる前、雅が誰かに怒りを感じていたり、不機嫌だったりしていたのだ。

 それが誰かに気付かれる前に収束して見えるのは、セイの指摘で雅が反省し、蠱毒をそのまま食す事が、なくなったからだ。

「捕まえた蠱毒を、毒が抜け切るまで煮しめて浄化してから、その後味付けして、稲荷ずしに混ぜて出してるんだと。兄弟共は機械関係に触っても問題ねえらしいし、戒の奴も全く障りがねえ。最もあいつの場合、食わず嫌いで蠱毒は口にしてなかったらしいんだが。ある程度毒が薄まれば、ミヤも普通に生活できるようになるんじゃねえかな。観覧車や他の機械に乗るのは、問題なかったからな」

 話を収めた蓮の前で、メルは目を下に落としたまま、口を開いた。

「……お前が、急に昔話なんかするから、何事かと……」

 途中まで、何で声音がそんなに綺麗に聞きやすく響くんだと、聞きほれてしまっていたのだが。

 きちんと正座した蓮が、同じように座ったメルの前に置いたのは、黒焦げになった何かの塊だった。

「いや、これ、本当に何事なんだ? これ、何だ?」

「あんたに持たされた、カメラのなれの果て、だ」

 油断したのだと、蓮はしみじみと言った。

「あんたに頼まれた画は、上手く撮れてたんだ。動画でばっちりと顔もはっきりとな」

 その辺りは完璧にこなすのが、本当の仕事人と言うものだと、蓮は力を込めて言う。

 だが、本当の仕事人なら、終わって家路につくまで気を抜くべきではなかった。

「仕事は終わっていたから、少し気が抜けてたのかも、知れねえな」

 生きた屍と化したエンを、二人で観覧車から降ろしている間、雅にカメラは預けていたのだ。

 女の名誉のために言っておくと、ストラップを腕に提げ、極力触らないように預かっていた。

 電源が入ったままのそれを提げたまま、雅は最後に観覧車を下りたのだが、その下りた振動でカメラが揺れ、女の体に当たった。

 途端に、女の体が爆発した、ように見えた。

 流石に驚いて振り返った三人に、雅は後ろめたそうに謝ったのだ。

 足元にある黒い塊が、カメラのなれの果てと気づいた蓮は、流石に問い詰めないわけにはいかなくなり、先程の事情を聞きだしたのだった。

「体に当たって、動作ボタンの一つが押されちまったんだと思う。撮れたと気を抜いて、電源オフにしていなかった、オレもうかつだった」

 幸い、閉園間際の上に人も少なかったため、何とか誤魔化して出て来たが、ショートどころか、形すら残らなかったカメラは、修理できると思えない。

 そう言って神妙に頭を下げた蓮は、弁償すると切り出したのだが、メルは固まったままだ。

 大事なカメラだったのかと冷や冷やしながらも、若者は女の顔を覗きこむ。

「……ミヤの奴、機械は怖くて触れねえって言ってたけど、こういう怖い、だったのか」

 吐き出した言葉に、蓮はああと思い当たって頷く。

「エンと違って、相手の不利になりかねねえ怖さ、だがな」

 下手すると、ほぼ電動のあの遊戯施設が、使い物にならなくなる欠点だ。

「カメラだけですんで、良かったって事か」

 メルは肩を竦め、黒い塊を持ち上げた。

「ま、いいや。ミヤも楽しんだんだろう? 少しは、エンと気持ちを通わせられたんなら、証拠なんかなくったって、構わないさ」

 弁償もいいやと、女は太っ腹な事を言った。

「本当か? 高かったんじゃねえのか?」

「ヒスイが、機嫌取りに買ってくれた奴だし、壊れたと言えば、納得するだろ」

 母親の、非情な言葉である。

 それは本当にいいのかと、蓮が思っていると、メルは身を乗り出した。

「で、お前の方は? うまく行ったのか?」

 勢いよく尋ねられ、少しだけ詰まったが、若者はすぐに答えた。

「いや。今回は、見送った」

「何でっ?」

「今言っただろうが。下見したら怪しい気配があったんで、急遽家に帰したって」

 何か引っかかっているのか、女は眉を寄せている。

「あのチケット、結局使わなかったのか?」

「払い戻しできたから、大丈夫だ」

 カップル割のチケットの件は、そう言って納得させたが、メルはまだ引っ掛かりを覚えているようだ。

 深く考え始める前に、話を逸らす必要がある。

 蓮は、あわてず騒がず、さりげなくメル自身の話を切り出した。

「あんたも一度くらい、デートしたらどうだ?」

「へ?」

 急にそう切り出され、変な声を上げた女は、その言葉を飲み込むと顔を真っ赤に染めた。

 若者は、にっこりと笑って見せる。

「旦那とは上手くいってんだろうけど、偶には一緒に羽目外して見ちゃどうだ? 今日行った所は閉園が決まっちまったから無理だが、関東の有名な場所のチケット、手に入れようと思えば手に入るぜ?」

「ほ、本当かっ? 分かった。クリスに、スケジュールを聞いて見る」

 すぐに立ち上がって外に出、電話をかけているようだ。

 呼べばすぐに来る類の男のはずだが、メルの方は一応遠慮しているようだ。

 話を見事、自分事から逸らした蓮だが、連れ添い始めて永いメル夫婦の初々しさを目の当たりにして、年よりじみた溜息が漏れた。

 素直に照れて、赤らむ女……男として、羨ましい限りだった。

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