16.モスクワの茶話会 ⑤
その日は客間をお借りした。6時に起床したらアレーナはすでに台所で朝食の準備をしていた。簡単な野菜のスープとパンをいただき、これを食べて彼は育ったのだろうと思わせた。ルーティカは俺が手を合わせる頃にもそもそと起き上がってきた。そして、アレーナが運転する送りの車に一緒に乗ってきた。
「今回は来てくれてありがとう。またきてね。その時はミーシャも一緒だよ」
車のなかで、ゆびきりげんまん、と小指を伸ばしてくる。合わせて小指を絡めると、子供というより幼児のようにみずみずしくふくらんでいた。その時だ。ジーンズのポケットのiPhoneが振動した。名前を見て……滅多に連絡をしない人物だったので、思わず見返した。
アーサー・コランスキー。
知り合った頃になんとなく連絡先を交換して、そのままになっていた。
『ファイナル出場決定おめでとう。お祝いに美味しいルリシューズの写真でも送るね。パリで食べたんだ。いいでしょ?』
ルリシューズってなんだっけ? 文脈からして靴ではなく食べ物のようではあるが。写真ではなくてお祝いなら実物をくれ。お祝いをしたいのか、自慢をしたいのかよくわからない。そう思っているうちに、写真がやってきた。
パティスリー兼カフェらしい。テーブルの上には紅茶のカップと、エクレアのようなシュー生地を使った、彩豊かなお菓子。
そしてそれを見つめるのはーー
「ミーシャだ。少しは元気になったみたいだね。よかった!」
チラッと見えたらしい。ルーティカは写真の人物を見て、無邪気に喜んだ。
久しく見ていなかった雅の笑顔が写っていた。繊細に作られたガラス細工のようなお菓子を見つめるのは、宝石よりも綺麗な大きな瞳。俺もルーティカの声に反応するように、よかったと呟いた。
……何故だろう、喜ぶべきなのに。ルーティカのように無邪気に喜べなかった。それどころか、すっきりしない思いと、喉の奥の熱い塊が、余計広がったような気がした。
全て気のせいだ。
俺はiPhoneを再びポケットにしまった。いつの間にか、アレーナの運転する車はホテルの近くまで進んでいた。気のせいだと言い聞かせる俺の耳に、キスすれば全部伝わるよという、昨夜の茶話会でのルーティカの幼い言葉が残っていた。
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