16.モスクワの茶話会 ④
それからも俺とアンドレイは、静かに話をした。練習について。普段の生活について。練習は外でランニングとかはせずに、ほとんどナショナルトレセンで済ませているようだ。機材が揃っているから出る必要もなく、バレエの先生もいるんだと国力の違いを教えてくれた。俺は外でランニングをするのが好きなので、それが講じて散歩が趣味になった。よくそれで母や姉に揶揄われたことがあると話すと、あまりピンとこない顔をした。兄弟、ひいては家族というものが、しっくりこない顔をしていた。
アンドレイはアレーナが作ったボルシチが好きで、テレビはあまり見ない。でも大会は見るよと嬉しそうに語った。俺もアンドレイも、話が弾む方ではなかったが、彼との沈黙は苦にならなかった。師と二人暮らしだから俺と共通項があると思ったが、そうでもなかった。家の仕事の分担はどうなってる? と聞くと、専属の家政婦が毎日出勤していると答えられた。最初に想像した通りの答えがやってきた。でも料理はアレーナがしてくれるんだよ、と付け足した。俺と先生の場合、当たり前だが分担している。洗濯もすれば掃除もする。料理は先生が大半作り、俺はそのアシストをする。テツヤはなんでもできてすごいねとアンドレイが褒め称える。それは喜ぶべきかどうか迷う。
そうしているうちに、話が再び雅についてになった。
「最近ミーシャはどうしてる? フランス大会はフリーの滑りに迷いがある感じがして、元気がなさそうで。心配していたんだ」
それは俺も感じていた。特にフリーは、俺が言えたことではないが、動きと振り付けがバラバラで、雅自身ももどかしく思っているかもしれない。表彰台に上がれるのはジャンプ構成が他の選手よりも一歩上だからだ。その辺りは本人も気づいているだろう。が……。
どうしてる? と言う問いには答えられなかった。
「わからない」
アンドレイは首を傾げた。
「お互いの練習に精一杯だから、最近話していないんだ」
自分の吐いた言葉には、嘘が含まれている。練習で精一杯なのは本当だけど、それが原因ではない。
彼女に避けられているから、話していないのだ。
スケートアメリカから帰って以来、俺は雅とまともに会話もしていなければ、顔も合わせていない。最後に話をした時、雅は傷に耐えているような顔をしていた。
それから一ヶ月経った。練習に精一杯なのは本当だが、リンクで少し顔が合うと、彼女は目を逸らして足早に通り過ぎていく。明らかに避けられていたが、その原因が未だにわからない。
……はっきり言ってスッキリしない。話そうとすると逃げられるので、どうしたらいいかすらわからないのだ。
「テツヤもミーシャが心配?」
「まぁ、それは」
一番見たくない顔をしていた。あんな顔をさせてしまうほど、追い詰めてしまった出来事があったのだろう。あの短い時間で。その理由が知りたかった。俺に原因があるのか、他に何かあったのか。一回、LINEを送ろうかとも思ったけれど、トークルームを開いてやめた。大丈夫だよ、と送られて来て終わりだろうと容易に想像できたからだ。
結果、自分でも抱えたくない蟠りを抱いたまま、一週間が過ぎ、一ヶ月が経った。練習以外、彼女について考える時間が増えたが何も解決せず、先生が言うところの「腑抜け」な日常生活を送っている。
「彼女のために、何かしたい?」
「そうだな。何かあったら、協力したいとは思うよ」
「よかった。じゃあ、テツヤはミーシャが好き?」
「……それは……」
何故だろうか。簡単には言えなかった。嫌いではない。当たり前だ。ずっと同じリンクで練習して、自分の一番近しい場所にいるのだから。嫌いではない。
空気のように簡単に言ってしまっていいのだろうか。言おうとすると、喉が熱くなって簡単には出てこない。彼のように友人だと思っているなら、何も飾る必要もなく、「友人として」好きだと言っていいのに。言うべきなのに。喉の熱い塊が邪魔をする。
「大丈夫だよ」
答えられない俺の手を、アンドレイの小さい手が取ってきた。自分の懐に迷い込んだ小鳥に説教をするかのように。今季のアンドレイのフリーを想起する。囁くようなピアノの音が、聖人の言葉を表現する。
「きみがミーシャの事を心配していて、何かしたいと思っていたら、うまくいくと思う。それでもうまくいかないなと思ったらね、キスすればいいよ。さっきぼくがきみにしたみたいに。そうしたら全部伝わるよ。あなたのことが大事ですって。ぼくだとミヤビが逃げだしちゃうかも知れないけど、テツヤなら逃げないよ」
「なんだ、それ」
キスすればいいって、そんな無茶な。このアッシジの聖フランチェスコはだいぶぶっ飛んだ事をのたまった。思わず吹き出してしまった。そうしてみる、と気軽に言えない提案だ。だが。
「……ありがとうな」
彼なりの励ましだったのだろう。その心を、素直に受け取ることにする。
気がつけば、時計の針は10時を指していた。一旦トイレを借りにソファを立つ。そして戻ってくると、アンドレイは無防備な顔を晒して眠っていた。どうしようかと迷っていたら、タイミングよくアレーナ・チャイコフスカヤが居間にやってくる。
「やはりですか。こうなると思いました。もう10時もすぎていますからね」
アレーナは別室から布団を持ってきて、ソファで眠ったアンドレイの体に被せた。
「この子は普段、10時には眠ってしまうのですよ。だから泊まってお行きなさい。マサチカには連絡しますから。この子が起きたときあなたがいないと、きっとがっかりしますからね」
「そうですかね」
「ええ、そうですよ」
アレーナは紅茶を淹れてくれた。抹茶ラテはだいぶ前に飲み切ってしまっている。紅茶は俺の分と、自身の分だ。こうなったらこの子は朝まで起きませんからねと言って。マッチ棒がのりそうなほど長いまつ毛は、上がる気配を見せない。
「……この子が人を招きたいと言ったのは初めてなのですよ。緊張していたみたいですね」
「さっきルーティカから聞きました。あんなに前から俺に興味を持っていたなんて、知らなかった。本当に」
「この子は、滑ること以外、興味がそんなになくて。家にいる時、ほとんど寝ておりますしね。素直な子でしょう」
「……ええ、本当に」
素直にも程があるだろう。さっきのキスだってその表れだ。
「テツヤ」
アレーナが俺を、改めて見つめた。リンクサイドにいれば威厳のあるコーチだが、今の彼女は、我が子を案じる母親のように見えた。
そうか、この二人から感じる違和感。
「いつかあなたに、私は一つお願いをしてしまうかもしれません。この子の師として、母親代わりとして。その時まで、あなたはどうか氷の上にいてくださいね」
アンドレイ……ルーティカの両親の影が、全く見えないのだ。この氷の化身の生い立ちがまるで読めない。さっき話していて、俺が姉や両親の話をしても反応が薄かったように。しかしその違和感すらも、彼らの前では無意味なのかもしれない。
紅茶のカップの下では、金色の塊が静かに沈澱している。
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