16.モスクワの茶話会 ③

 アレーナ・チャイコフスカヤ邸は、本人の威厳を示したかのように豪奢に整っていた。ドアノブから始まり調度品類は一級品で、ホコリ一つ見当たらない。腕のいい家政婦でも雇っているのだろうか。彼女が家事をしている姿は想像し難い。


「それでは私は自室にいますから、どうぞごゆっくり」

「うん。ありがとう、アレーナ」


 通されたのは居間だった。アレーナは薪ストーブに火をつけてから、自室へと引き上げていった。

 ローテーブルに付属した、ゆったりとしたソファ。巨大なテレビ画面。二人暮らしとは思えないほど広々として、天井から吊るされたガラスのシャンデリアが繊細な輝きを放っている。対面型のキッチンと隣り合っている。ヴォルコフがちょっと待っててねと言いながらキッチンに向かっていく。……ん? ちょっと待て。彼が作るのか?


「テツヤはソファに座ってて。すぐに出てくるから」


 彼の言う「すぐに」は、すぐには出てこなかった。キッチンからは何やら物々しい音が聞こえてくる。流石に心配になって声を掛ける。居間から見る彼の顔は、真剣に固まっていた。演技では絶対に見せないような、余裕のない顔。


「ミスターヴォルコフ?」

「大丈夫、大丈夫だから。もうすぐだから」

「……一緒にやろうか?」

「大丈夫、大丈夫だよ。」


 鶴の恩返しを思い出す。見ない方がいいと言うやつだ。それにどうも、彼は一人でやりたいようだ。

 しばらく、茶を出す、というには心臓が悪すぎる音が響いた。

 ヴォルコフがトレーに二杯分のカップを乗せてやってきたのは、「すぐに」と言った20分後だった。


「どうぞ」


 ……緑色の鮮やかな液体。今しがたまで響いていた工事現場のような音を、なんとか打ち消して口をつけると、ほろ苦い甘みが広がった。鳶色の瞳が、どう? 美味しい? と聞いている。これは……


「美味しい」


 店で出ているものと遜色ない、とは言わない。ただ、普通にうまいと思った。少なくとも、人に出すものとしては全く問題はない。作っている時の音を除けば。ヴォルコフはほっと胸を撫で下ろした。


「よかった。テツヤが気に入ってくれて。すごく練習したんだ」

「そんなに作ったのか?」

「うん。でもなかなかうまくいかなくて、アレーナにはあんまり美味しくないもの、たくさん飲ませちゃった。キッチンで作業するの、全然慣れていないから。すごく難しいんだね」


 キッチン作業が慣れていないのは、簡単に想像できた。ヴォルコフのことを我が子のように大事にしていそうなアレーナ・チャイコフスカヤが台所作業ーー家事全般をさせるようには思えない。彼にとっては初めての経験だったのだろう。手の中の緑色の液体は、大変貴重なものかもしれない。

 その中で、一つ問題がある。


「これのために、俺を呼んだのか?」


 彼がここまでした理由が俺にある、と言うことが、俄には信じがたかった。


「うん。これを飲みながら、君とお話ししたかった」

 透き通った顔で微笑んだ。


「……ミスターヴォルコフ」

「ミスターはやめて。アンドレイ、だよ、テツヤ」

「アンドレイ。その、君はどうして……」


 この氷の化身を目の前にすると、少しだけ卑屈になる自分がいる。俺よりも才能も技術もあるスケーターは数多いて、俺は最近になってようやくシニアの上位に食いつけてきている状態だ。他人にあまり興味を持っていなさそうだとは思っていたけど、その興味の対象に自分が入っているとは、全く想像していなかったのだ。そもそも、氷から降りた彼の生活すら、彼自身の存在と符号で結び付けなかった。ガスコンロに向かう彼を見て、アンドレイ・ヴォルコフも人間なのだなとようやく実感できたぐらいで。


「初めて試合した時覚えてる?」

「ああ」


 忘れるはずがない。2014年の世界ジュニアだった。あの時出場した中で彼は最年少ながら銀メダルを手にした。対して俺は、フリーでミスを重ねながら辛くも優勝した。あれが初めての対戦で、彼に勝った最後の試合だった。


「あの時から、ぼくは君が気になって気になって仕方がなかった」


 ……熱い言葉である。そして、何故あの試合で、と思わずにはいられない。俺の演技は見どころがなかったし、できれば積極的に忘れてほしい。眉を顰めている俺に、アンドレイは言葉少なに重ねてくる。


「あの時、君は本当に、ぼくに負けて悔しそうだった。試合でぼくに負けて、あんな風に感情を向けてくる人、今までいなかったから。ぼくはあの時の君が忘れられない。それに……」


 アンドレイはそこで抹茶ラテの緑色の液体を見た。


「君の演技は見ていて不思議だ。何かが鷲掴みにされている気がする。なんだろう、綺麗な音に溢れているって言えばいいのかな。うまく言えなくてごめんね。……最近は、少し色々考えているみたいだけど」

「……そんなことを考えていてくれたのか」


 そんなに前から。


「うん」


 初めて会話した時は良く覚えている。彼が優勝し、俺が銀メダルになった2015年の世界ジュニア。俺ではなく、彼の方から声をかけてくれた。その時感じた戸惑いと、確かな喜びが再び湧き上がる。


 アンドレイの鳶色の瞳が、俺の顔を凝視する。間近でみると、雪が生み出したかのようにきめ細かい肌をしていた。金粉が散らされているかのような金髪に、柔らかな鼻梁。桜の花びらのような唇は、粉雪を纏っているように見えて余計に儚い色に見えた。人間としての美醜を超えた容姿。細くて、小さくて。こんなに幼さそうな見た目なのに、人並み外れ過ぎたジャンプを跳ぶ。どんな練習を積めば、四回転ルッツ+三回転ループなんていうコンビネーションが飛べるようになるんだ。そんな取り留めない事を考えているうちに、徐々にそれが近づいてくる。……どこかで覚えがある展開だと振り返るが、遅かった。



 それが触れたのは本当に一瞬だった。



 瞬きの回数を数えたくなる。一秒のうちに何回やった? 三回だ。自分のまぶたが、こんなにも早く動けるとは知らなかった。……そうではない。


「アンドレイ」

「ルーティカ、だよ。テツヤ」


 俺に触れた桜色の唇が、明確に動く。

 アレーナはぼくのことをルーティカって呼ぶから、君もそう呼んでほしい。……そんなことを宣うルーティカの言葉が、現実味のない世界から漂ってくる。


「ルーティカ。……今、俺に何した?」


 氷の化身に改めて向き合う。キス、っていうみたい。そう呟くアンドレイの瞳は、驚くほど曇りがない。彼が何をしたのかを正確に認識すると、心臓が驚くほど跳ね出した。確かに、口と口、だった。間違いではなければ。


「前にね、アレーナに言われたんだ。自分が大事だと思う人に、こうしてあげなさいって。僕はいま、アレーナのほかに大事に思う人が2人いる。そのうちの1人がテツヤだよ。友達になってくれてありがとう」


 ……アレーナ・チャイコフスカヤは一体、彼に、何を吹き込んだのだろうか。親しい友人同士が挨拶で頬にキスをする習慣が欧米にあるとは、聞いたことがある。それはロシアにもあったのだろうか。しかし思うに、あくまで頬にキスするだけで、口と口ではなかったはずだ。


 どうやら彼は、相当に世間知らず、物知らずのようだ。「アレーナがこうするといいと教えてくれたから」と言う理由以外はなさそうだ。

 あまり深入りする必要もない、と言い聞かせた。


「もう1人って誰なんだ?」


 大切だと思う人が二人いる、とアンドレイは言っていた。


「ミーシャだよ」


 頭に浮かんだのは、ドイツのミハイル・シューバッハ。ロシアでは、ミーシャは男性名ミハイルの愛称のはずだ。彼? と聞くと、緩やかに違うと言った。


「ミヤビだよ。ミヤビ・ホシザキ」


 ……意外すぎる名前に、顔が固まった。


「六月に日本に来た時、ミーシャがすごく良くしてくれたんだ。君がグリーンティーラテが大好きだって教えてくれたのもミーシャだよ。彼女はぼくにできたはじめての友達だし、大好きだから」


 大好きだから。

 星の輝きのような、濁りのない言葉だった。その言葉を口にするのに、少しのためらいも感じない。


「……ルーティカ」

「なあに?」

「今、俺にやったこと。……雅に、って言うか、人にあんまりやらない方がいいぞ」

「どうして?」


 言葉と同じぐらい濁りのない瞳で尋ねてくる。どうして。どうしてなのか。日本にはそういう習慣はない。頬と頬ならあるけど、雅の場合、多分それやったら、驚いて、固まって、次の瞬間逃げ出すと思うと伝えた。彼女と同い年ぐらいで慣れている人間なんているのだろうか。日本人の中では少数だろうとは思われた。


「嫌なのかな?」

「それは……」


 本人に聞かなければわからない、と続けようとして躊躇った。本人が嫌ではなければ、それはしていいものなのか? そして……


「テツヤは嫌じゃなかった?」

「嫌というより、驚いたかな」


 ジョアンナの時よりも心臓が跳ねた……と言ったら失礼だろうか。ジョアンナの時も今回も不意打ちだったが、あれは感謝以外のなにものでもなく、今後はそうされないように気をつければいいだけだ。今回は、一番縁遠そうな人間がしたことに対する驚きが強かった。人間の美醜を超えた氷の化身でも、このような事をするのか、と。


「そっか。……でも、ミーシャが嫌かもしれないなら、やめておく。教えてくれてありがとう」


 アンドレイは素直に引き下がった。何故だか俺は胸を撫で下ろした。本人が嫌でなければしていいかもしれないが……。何故だろう。


 たとえ挨拶でも、親愛でも。雅が誰かとキスする場面は、見たくないような気がしたのだ。

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