16.モスクワの茶話会 ②

 スケートアメリカの時と同じ、バンケットの会場は滞在しているホテルの最上階だった。バンケットも終わり、ホテルの一室に戻ろうとした時だった。


「テツヤ」


 ソプラノとアルトの中間の声が、俺を呼んだ。こんな声を持つ人間は一人しか知らない。にわかには信じがたいのだが。


「ヴォルコフ……」

「やっと声掛けらた」


 去年よりも上達した英語。振り向くと、金髪のボブカットの少年がいた。人外を感じさせる美貌。今大会男子シングル優勝の、氷の化身。

 俺はアンドレイ・ヴォルコフの幼い顔と向き合っていた。


「ええっと……」


 話が続かない。彼は俺に、何故声を掛けたのだろうか。大会やバンケットで会っても、彼とはお疲れ様とか、いい演技だった、ぐらいしか言い合わない。俺は彼に、優勝おめでとうと言えばいいのだろうか。話題を必死で探していると、ヴォルコフの小さい口が動いた。


「……グリーンティーラテ好き?」


 なんの脈絡もなく、アルトの声が尋ねてくる。大会や競技のことじゃなかったのか。グリーンティーラテ。つまり、抹茶ラテ。好物だ。……そんな飲み物、どうして彼が知っているのだろうか。


「実はモスクワに、グリーンティーラテが飲める場所があるんだ。これから一緒にどう?」


 時計を見たら8時だった。モスクワの町事情がどうなのかは知らないが、これから飲める場所なんて限れている。そんな場所なんてあるのだろうか。ヴォルコフは俺の問いに、鳶色の瞳を輝かせてもちろんと頷いた。



 ✳︎



 日本車は人気だと話したのは、運転席にいる太めの女性コーチだ。トヨタのヴィッツ。ヴォルコフは後ろに座り、何故か俺が助手席に座っている。後部座席のヴォルコフは、バックミラー越しに見ると……。


「ごめんなさいね、テツヤ。この子、車に入るとすぐに眠ってしまうことが多くて」

「あ、いえ。お構いなく……」

「すぐに着きますから」


 すやすやと眠る子供の顔で、アンドレイ・ヴォルコフがまぶたを閉じている。


 ヴィッツは夜のモスクワを走る。淀みなくハンドルを切るのは、アレーナ・チャイコフスカヤ。輝く金髪と黒い毛皮のコートがトレードマークの、チャンピオンメーカー。……まさか、日本車を乗っているとは思っていなかった。威厳のある彼女には、ドイツ製の高級車こそ似合いそうなものなのに。フィギュアの選手や指導者で、車が趣味の人は多い。デトロイトのリチャード・デイヴィスがその筆頭で、彼の家にはアメリカのスケートバブルの時に購入したというカウンタックが堂々と車庫に入っていた。


 アレーナ・チャイコフスカヤの運転でたどり着いたのは、ホテルからもそれほど遠くない、瀟洒な造りの一軒家だった。暗いからよく見えないが、庭があり、それなりに整えられているようだ。言葉通り、すぐに着いた。車庫にヴィッツが入っていく。……少しどういうことかわからなくなる。


「あの、ここは……」

「私の家です。ロシア杯の後にあなたを招待したい、と言っていたのですよ、アンドレイが」

「招待したい?」


 鸚鵡返しに尋ねる。……意外すぎる言葉だ。


「あなたには意外かもしれませんが、彼は結構、あなたのことを気に入っているのですよ」


 初耳である。俺は勝手に、彼はあまり、他人に興味がないのだと思っていた。


 帰国は次の日の夕方のフライトになっていた。モスクワのドモジェドヴォ空港から成田までの一直線で帰る。乗り換えがないのは楽だ。大会が終わった今、帰る準備をするだけだ。ホテルに戻る時は、チャイコフスカヤコーチが送ってくれることになった。泊まってもいいのですよと穏やかに茶化す。その言葉は本気なのかもしれない。


 車庫に駐車をしたチャイコフスカヤコーチが、ロシア語で何がしか声をかけながら、頬を優しく叩く。氷の化身の鳶色の瞳が開かれた。俺にはわからない言語で二人が話し、彼は車から静かに降りた。


「さあどうぞ。我が家へ。私たち二人しかいませんから」


 眠そうなヴォルコフの肩を抱きながら、アレーナ・チャイコフスカヤが微笑みかける。

 前にも思ったが、彼らの関係は、フィギュアの師弟関係としては違和感がある。彼を目の前にすると、太めの女性コーチは、幼帝に使える乳母のようにも神に仕える司祭のようにも見えた。


 俺はそんな二人が暮らす家の中を、躊躇いながら踏み入れた。


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