14.その後のバンケットにて【2016年スケートアメリカ⑦】①

「おっかしいなあ……。雅、どうしたんだろう」


 バンケットが始まって15分少々経った。隣に立つ杏奈は、手に持った皿もそこそこにスマートフォンをチェックしている。


「哲也君、雅の姿見てない? 星崎先生はいるけど雅はいないし。さっきからLINEしてるんだけど、全然既読にならないのよ」


 顔を回して星崎先生の姿を探す。すぐに見つかった。堤先生とリチャードを交えて三人で談笑している。だけど、肝心の雅は。


「いや……。見てないな」

「そっか。……晶君は知らないかしら? さっきまで一緒にいたんじゃないの?」

「晶なら今、ジェイミーと話してるよ。多分、あいつも見てないと思う」


 俺は顎で晶の方を指した。自撮り棒でジェイミーと写真を撮っている。インスタに挙げるのかもしれない。晶といえば。


「なあ、杏奈。昨日晶が」


 演技後に言っていたこと知ってるか、と聞いた。


「はぁ? 何、そんなの今どうでもいいのよ。私が今心配してるのは、雅。演技後に晶君が何を言っていても、知ったこっちゃないわ」

「ミヤビなら来れなさそうだよ」


 背後の声にびっくりしたように、杏奈が振り向いた。少し甘めな美声と、均整のとれた体型。アンドレイ・ヴォルコフが氷の化身なら、目の前の彼は崇高な彫刻家がノミを入れた彫像のようなわかりやすい美が宿っている。例を挙げれば、ミケランジェロが彫ったダヴィデ像のような。金髪で甘いマスクの美青年。


「アーサー。どうしてあなたが知っているのよ」

「来る途中で会ったんだよ。そうしたら、紙みたいな顔色してたからさ。頭が痛いって言っていたから風邪の引き始めかもね。ミスター・ホシザキには言っといたよ。ーーアンナ、君に伝言預かってるよ。行けなくなっちゃってごめんね、楽しんできてって」

「……そんな、謝る必要なんてないのに。大丈夫かな」


 あんなに元気だったのに、とぶつぶつ呟く。


「今は休んでると思うから、もうちょっと時間経ったら連絡してみなよ。ミヤビは楽しんできてって言ってたんだから、心配しすぎるのも彼女に悪いよ」

「そう、かしら……」

「君は君で楽しんだほうがいいよ。優勝したんだしさ。それとも、俺にエスコートしてもらいたいの?」

「やだ、そんなわけないじゃない。一昨日きなさいよ。……でも、ありがとう」


 心配で曇っていた杏奈の顔が、光が差されたかのように晴れる。スマートフォンを鞄にしまって離れていった。こんな見事なダヴィデ像に「一昨日きやがれ」と言える少女も少数だろう。

 何故か俺とアーサーだけが残された。


「アンナに振られちゃった。せっかくだからテツヤ、君が」

「するわけない」

「話し相手になってくれないかというところだったんだけど、君は何を想像したのかな」


 俺は手に持った炭酸水を一気に飲み干した。ジュニアの頃からのライバルで、直接戦っての勝敗は五分五分。しかし口の達者さやユーモアで彼に勝てたことはない。

 アーサー・コランスキー。カナダ代表。「パリのアメリカ人」のように表現すれば、彼は「トロントのロシア人」になるかもしれない。元金メダリストのスケーターの両親を持つ、カナダ国籍のロシア人。


「表彰台おめでとう、テツヤ。今日は君に勝ちたかったんだけど、俺の日じゃなかったね」

「今回、たまたま俺の日だっただけだ」


 アーサーはスケーターとして、俺にないものをたくさん持っている。ダイナミズムと優雅さの同居はなかなかできるものではない。彼のような同世代がいて素直に嬉しく感じる。


「そういえばさっきテツヤ、5階の突き当たりにいなかった?」

「いたけど? 何で」

「いやあ、君っぽい声が聞こえたもんで。俺の部屋、5階だし。一人だったの?」

「いや……。ジョアンナと一緒だった」

「はぁ?」


 ダヴィデ像もこんな素っ頓狂な声を出すのか。


「ちょっと手伝ってくれ、って言われた」


 ワルツがいまだに慣れない、とジョアンナは言っていた。

 確かに彼女のプログラムは、途中ワルツを踊るような振り付けがある。それは、ステップとコレオグラフィックシークエンスだ。ステップではツイヅルやループなどを中心にステップを踏み、コレオグラフィックシークエンスではそれ以上に幸せそうにワルツを踊り、体の柔軟性を生かしたスパイラルで締める。堤先生が力を入れて振り付けた部分の一つだ。


 ジョアンナはステップとコレオを滑り切れていない。ステップの時音楽と動きがズレていて微妙に気持ちが悪かった。ジャンプを全て決めることを念頭に置いて演技をしていたから、ステップが多少おざなりになっていたのは否めない。それは本人も承知しているようだった。


 そこでジョアンナが取った作戦が、「誰かとワルツを踊っている」経験を得ることだ。明日午前11時のフライトでデトロイトに帰るから、バンケットの前に練習に付き合ってくれと頼まれた。何故俺なのかわからないが、できないことはない。今年の日本代表の合宿で、アイスダンスのワルツのパターンダンスを杏奈と滑ったことがあった。スケート連盟主催の合宿は、たまにカップル競技の要素も練習に組み込んでくる。


 その時の経験を頼りに、彼女のダンスを手伝った。正直、終始笑って楽しそうにしていたのは結構なのだが、それが本当に彼女のためになったのかは怪しい。人に頼んでいる手前、もう少し真面目にやって欲しかったと言うのが本心だ。でもまあ、「幸せそうにワルツを踊る」と言うのも、このプログラムで重要な点だ。

 ……と言うくだりを、目の前にいるダヴィデ像に懇切丁寧に説明した。


「……テツヤ。君はその、ジョアンナと……」

「断じて違う」


 そこは強めに言っておかないと、変な誤解が生まれてしまう。それは避けたい。彼女にとってもいい気分になる噂ではない。さっきまで晶と一緒にいたジェイミーは、今はジョアンナと写真を撮っている。俺に向けるものと全く変わらない笑顔。つまり、そういう感じの仲の良さと対して変わらないのだ。


「友人で仲間。それ以上でも、それ以下でもないよ。そんな事言ったら、ジョアンナに失礼だよ」


 ジョアンナは友人としては大切だし、何よりも尊敬するスケート仲間だ。スケート関係で悩みがあるなら聞けるし、できる範囲の協力はできる。変な邪推をされるような関係になるなんて、あり得ない。大体、彼女には意中の人がいる。そして、今心配するべきなのは雅だ。……何故だかアーサーに、漫画のような変な顔をされた。


「なに、なんだよその顔は。変なこと言ってないだろ」


 心の底から異星人を見るような目で俺を見るな。


「あのさぁ。君って、カマトト?」

「はぁ!!?」


 堤先生と話す以外で、こんな声を出したのは初めてだった。少し離れたところにいた晶が、俺の声に驚いて炭酸水を吹き出していた。


「いや、カマトトのフリして女の子を弄ぶのが趣味? それとも、ジゴロの才能でもあるの? てゆーか、本当にオス?」

「おい!」


 それは言っている意味がわからない。俺は何か間違えたのか。

 だったら、何を間違えたと言うのだ。

 アーサーははーっとわざとらしく長いため息を吐いた。


「どっちが失礼だよ。馬鹿じゃないの。君が本当に違うっていうなら、もっとジョアンナを突き放してあげるべきだね。そっちのほうが百億倍優しいよ」


 そう吐き捨てて、アーサーは離れていった。

 ……一体何だったんだ。

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