13.シャンパンワルツ【2016年スケートアメリカその⑥ 】②

 髪を下ろして、無理をしない範囲で化粧をする。公の場だから軽くでも化粧ぐらいしたほうがいい、という母のアドバイスからだ。着る服は、いつものポニーテールよりおろしがみの方がしっくりくる。

 ジェイミーのメッセージには、あんまり人に聞かれたくないことだからここに来て欲しいと場所まで指定されていた。話が終わったらバンケットにそのまま行けるように、母が用意してくれたワンピースを着て部屋を出る。父と杏奈には先に会場に向かってもらった。白いワンピースは、少しだけ今シーズンのエキシビションプログラムの衣装に似ている。


 正直、無視したい。彼女と私が会ったところで、いい話になるとは想像し難い。大体、彼女と一体何を話すというのか。共通点もなければ、話したいこともない。何故かとげを向けられている気がする。そんな、苦手な相手。人に聞かれたくないって、何だよ。私はなるべくなら、二人きりになりたくない。


 滞在しているホテルは、今大会に出る選手が全員宿泊している。バンケットの会場は、最上階のホールだ。ジョアンナが指定した場所は、5階の人目が付かない踊り場だった。あまり使われない階段の角。私の部屋は3階だから、階段を登って……。何でこんなところなんだろうか。


 いやな予感しかしない。


 それでも行くのは、てっちゃんのことがあるからだ。てっちゃんは普通にジョアンナと仲がいいから。断って万か一でも変なことを言われたら嫌だ。……そんな想像をしてしまう自分も嫌だった。苦手だからって、ジョアンナがそんなことを言うような人間だと思ってしまっている。


 ぐるぐると嫌な思考がとぐろを巻いているうちに、目的地付近に着く。最後の一段を登って左に曲がれば、ジョアンナがいるはずだ。確かに人の気配はする。

 何だろ……。彼女だけがいるわけではないみたいだった。ハイトーンヴォイスが一緒にいる誰かに話をかけている。……誰かと一緒にいるなら、私なんか呼ばなくてもよかったのに。


「もう少し真面目にやれって。遊びじゃないんだから」

「あはは、ごめんなさい。楽しくなっちゃって」


 ……耳を疑った。真面目にやれと言った声は、聞き慣れたものだった。

 私は引き返そうとした足を反対に向け、壁にそって踊り場から見えないように体を隠した。怖い。あの声は、気のせいだと思いたい。だから確認しないといけない。だから怖くても私は知りたかった。

 顔だけ動かしてそれを見る。


 慌てて口を押さえた。そうしないと、二人に……いや、その人に聞こえてしまうから。


 違う。違う。あそこでジョアンナと密着しているのは、私のよく知る人なんかじゃない。黒髪で、細身の別の誰か。


 だけどもう一度見ても結果は同じだった。ジョアンナの白い腕がその人の背中に周り、その人の手が、彼女の細い指と重なっている。二人はしっかりとホールドし合ったまま、静かにステップを踏んでいる。

 二人の世界の、秘密のワルツと言いたいように。

 金髪のディズニー・プリンセスと抱き合って踊っているのは、黒髪で細身の、私のよく知るーー


 鮎川哲也その人だった。



 ジョアンナの深海の瞳が、固まっている私の瞳を捕らえた。とろんとしているけれど少し、私を侮っているような瞳で。彼女の手をとり、肩を抱いている人物から、私の姿は見えない。桃色の唇が弧を描く。


「ああ、これが愛なのね。これが人生を神々しくさせるものなのね」


 歌うような声。ジョアンナは私から自然と瞳を離し、蕩然とした眼差しで彼を見つめた。

 てっちゃんの頭がわずかに動いた。私の位置から見える彼の横顔は、目の前にいる女の子を大事にしているような。

 私が見たこともない、優しい顔に見えた。

 遊びじゃないなら、一体何なんだろう。遊びじゃないなら。

 好き合っているに決まっているではないか。



 ジョアンナは私と話したかったわけじゃない。

 私に、これを見せたかったのだ。



 私はそこから離れた。離れると決めたら、足は何とか動いてくれた。歩いている音が立たないように。てっちゃんには私がそこにいたことは伝わらなかっただろう。


 おぼつかない足で、私は5階のエレベーターに向かった。iPhoneで時間を確認すると17時50分。あと10分で、バンケットが始まってしまう。行かないと。行かないと。

 ……バンケットで、私はてっちゃんとどんな顔で話せばいいのだろう。他の人ともちゃんと話せる自信がない。ホテルの廊下の、絨毯を敷き詰めた床だけを見つめてしまっていた。二回、エレベーターを見送る。だめ。ちゃんと行かないと。何でもなかったって言う顔をしないと。だって大会には関係ないんだから。


「ミヤビ?」


 唐突に、横から声を掛けられる。

 少し甘めの声。父でもなく堤先生でもなく、もちろんてっちゃんでもない。顔を上げると、思いがけない美貌の青年がそこにいた。


「アーサー……」


 アーサー・コランスキー。カナダ代表。今大会男子シングル、4位。ギリシャ彫刻のような顔立ちの彼は、昨シーズンの世界ジュニアの優勝者だ。カジュアルな紺色のスーツを見事に着こなしていた。


「もうバンケット始まるけど、行かないの? ……どうしたの。顔色悪いよ」


 紙みたいな色しているよ、と告げられた。


「そんなことないよ、大丈夫」

「ごめん、全然大丈夫に見えないから」


 鏡がこの場になくて良かった、と思う。

 大丈夫だから一緒に行こう、と言おうとする喉が凍りついた。


 息ができない。指先が痺れる。涙が出ているわけではないのに、視界がぼやける。肩のあたりが寒い。頭にやすりをかけられたような痛みが走る。足がよろけて、崩れ落ちそうになる。


「頭痛い……」


 ふらついた私の体を支えてくれたのは、アーサーの腕だった。


「……ごめん」

「謝らないで。……本当に、バンケは無理する必要ないから、休んだほうがいいよ」


 疲れが出たんだよ、とアーサーは私の頭を撫でた。骨格のしっかりとした、大きい掌だった。体に力が入らない。大丈夫だと思いたかったけど、彼の言う通りだ。全然大丈夫じゃない。


「うん。そうする。……もし杏奈に会ったら、体調悪くなっちゃってバンケット出られそうにないって、ごめんね、楽しんできてって伝えてもらっていいかな?」

「いいよ、わかった。ミスター・ホシザキにも言っておくよ」


 アーサーは着ていたジャケットを脱いで、私の肩にかけた。ジャケットは思ったよりも温かくて、自分が如何に震えていたかを教えてくれた。


「そんなに震えてちゃ寒いでしょ。返すのは後で全然いいから。……送ろうか?」

「大丈夫。すぐそこだから。それに、アーサーもすぐに行かなきゃだめでしょ」

「俺は全然いいんだけど。近くでもそんな様子じゃほっとけないよ」


 首を横に振る。アーサーの気遣いは嬉しい。でも私は、早く、一刻も早く一人になりたかった。アーサーはそんな私の意図に気がついてくれた。


「わかった。気をつけてね。ゆっくり休むんだよ」


 最上階からエレベーターが降りてくる。扉が開かれると、誰も乗っていなかった。このまま三階に降りる。

 肩にかけられた温かさを頼りに、私はエレベーターに乗り込んだ。


「そうそう、ミヤビ。そのワンピース、凄く素敵だよ。君に似合ってる」


 ありがとう、と言うかわりに少し振り向いて口の端を上げた。

 アーサーのその言葉が、無性に悲しかった。

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