10.それは少し、愛が足りない話 【2016年スケートアメリカ その③】②

 公式記者会見とドーピングを済ませ、日本のマスコミからの質問に適当に答える。先生と滞在先のホテルに戻ると、ロビーのソファに杏奈と雅が座っていた。


「お疲れ、杏奈。雅」

「お疲れ様、哲也くん」


 杏奈が雅より先に口を開いた。


「なかなかいい演技だったわよ、哲也くん。私ほどじゃないけど」

「……それはお褒めいただき光栄でして」


 杏奈の演技は堤先生も立ち上がって拍手をしていた。なかなかスタンディングオベーションをしない先生がしたのだから、今日の一番は彼女だったのだ。


「褒めちゃいないわよ。皮肉よ」

「わかってる」

「愛が足りなかったのよ、愛が。ソフトクリームの乗っていないシロノワールみたいだったわ」


 さっき先生に言われた言葉を、杏奈からも頂戴する。独特すぎてその表現はよくわからないが。


「雅、私ちょっと門奈先生のところに行かなきゃならないから、先に行くね」

「え。ちょっと待って」

「俺もちょっとジョアンナに用があるから、先行くわ。飯前に演技のチェックとプロトコル見るから、それまでには戻ってね」


 ……二人はさっさと行ってしまった。ーージョアンナに、フリーの振り付けについて少し助言をしないとねーーとバスの中で先生は言っていたのだ。先生の助言でどれだけ変わるかは分からないが。しないよりはマシだと思ったのかもしれない。

 何故だか俺と雅だけが残された。いきなり立ち上がった杏奈に、雅は戸惑いを隠せない。気まずくならないように、雅の隣のソファに座る。


「お前凄かったぞ」

「え」

「見ていたから。男子始まる前だったし」


 思い出すと、ネコとネズミの軽快な追いかけっこが頭に浮かんでくる。あのプログラムを滑りこなせる人間はあまり思い浮かばない。私の最高傑作、と高らかに宣言した涼子先生の姿を思い出す。

 本当にそうだ、と思ったのだ。


「今のお前だからこそのプログラムって感じで。見ていて楽しい」

「そうかな……。てっちゃんに言われると嬉しいな。てっちゃんも良かったよ。……なんか、すごい綺麗だった」


 この褒め合いがこそばゆい。綺麗、と真っ直ぐ言われると、反応に困る。愛が足りない、つまり、表現面は今ひとつと散々言われた後なのに。


「あ……ねえてっちゃん。さっきまで記者会見だったんだよね?」


 雅がそれとなく話題を変える。


「そうだけど」

「……何か変な質問、されなかった?」


 様子を伺うような雅の口調が気になる。思い出してみよう。ショート三位までの選手には公式記者会見が用意されている。チャン・ロン、俺、ジェイミーが席に着き、普通に進んだ……と思うが。


「そういえば……」


 どこの記者かはわからない。が……。ーーミスター・アイカワ。今年はイズモ・カンバラに勝てるのではないですか? 聞くところによれば彼は、クワドループが安定せずに苦しんでいるようですよ、と。

 瞬間、その質問に呆れ返ってしまった。聞くところによればも何も、ジャパンオープンで飛んでたの見てなかったのか、と突っ込みたくなった。


 スポーツに精通していない新聞社の記者なのだろう。日本にだってそんな輩はごまんといる。いちいち心を針にしていても相手を調子に乗らせるだけだ。シーズンは始まったばかりです。いつだって彼は全力で戦います。俺はそんな彼を尊敬しています。だから、どんな状況でも全力で向かいます。……とは返した。その記者は少し鼻白んだように俺を見つめた。


 他は特になかったように思う。ただ、俺の通訳に入った村上さんが、その質問が来たとき顔が引きつったのが印象的だった。


「そっか……。それだけなら、よかった」

「女子で何かあったのか?」

「ちょっとね。でも、杏奈やジェシカのお陰で、なんとかなったよ」


 詳しくは聞かない。どうせ、記者会見の内容は雑誌に乗ってしまうのだ。質問が飛んだときの村上さんの反応や、雅の顔を見れば相応の事態があったのだと分かる。


「なんとかなったなら、お前も随分、対応がよくなったんじゃないか」

「私だっていつまでも子供じゃないよ」


 昔を知っている身としては、彼女の成長が嬉しくなる。頭のつむじの部分とか、肩のあたりで跳ねたポニーテールの毛先とかは小さい頃から何も変わらないのに。思わずつむじに触りたくなる。瞬間。


「どうしたの?てっちゃん」


 いきなり背中に悪寒が走った……なんて言っても、雅は信じないだろう。

 大会中やショーの間、今年に入って何度この悪寒を感じただろうか。他のことは考えたくないのに。本当に、勘弁してくれ。


「いや、なんでもない。そろそろ戻るか」


 ……夕飯まで後二時間弱。それまでに、今日の演技の確認と、フリーの最終確認をしなければ。ジャンプ構成をどうするか。

 雅と別れて部屋に入ったところで、鞄がわずかに振動し始めた。iPhoneを取り出すと電話がかかって来ていた。


「どうしたの」

『ごめんなさい、声が聞きたかっただけ。今日の結果は辛かったのよ』


 周りがあれだけいい演技をした後だ。最終滑走者のジョアンナのミスが目立ったのは、本人にとっては辛い経験だっただろう。アーサーやジェイミーに電話は繋がらなかたのだろうか。


 ……こういう日もある。俺だって誰だってズルズルに悪い日がある。俺は電話の相手に、気にしすぎない方がいい、明日は明日で演技をすればいいんだから。下手な慰めは死ぬほど苦手なので、ジャパンオープンの時のように当たり障りのない言葉を返した。さっき先生に何を言われたのだろうか。声が微妙に落ち込んでいた。当人同士の問題だから、先生にも彼女にも聞かないけど。


「哲也ー、入るよー」


 先生が部屋に入ってきたのは電話を切ってからすぐだった。電話してたみたいでなかなか入れなかった、と言われる。

 iPadでプロトコルを見て、スピンのポジション、ステップのターンの正確性、ジャンプの時の踏切姿勢などを確かめる。サルコウの時の猫背はだいぶ改善された。ステップはレベル4を獲れたが、加点が少ない。スピンは一つ、最後のコンビネーションスピンがレベル3と、とりこぼしがある。


「回転、足りてませんでしたか?」

「一回転足りないね、最後の最後で」


 音に合わせようとして、早めにスピンを切り上げてしまった。余韻を持って終われ、とアンジェリカに指摘されたところだ。


「こういうところが微妙にPCSに響くからね。手ぇ抜いちゃ駄目」

「はい」


 素直でよろしい、と先生は頷いた。


「今日のおさらいはこのぐらいにして。フリーなんだけど、四回転ループ入れる? 俺の意見は『入れる』だけど」

「入れます。調子も悪くないので。ここでちゃんと決められるようになりたい」


 即答する。試合に入れないと、自分の技術にならないのだ。先生は俺の返答に満足そうに頷いた。


「まあ、フリーは三つのクワドをちゃんと決められれば上出来かな。後は、音の蟒蛇だけを救いとるような滑りをしなければ、それなりの点が出るって」

「それが結構難しいんですけどね」


 目立った旋律だけを救いとるような、上っ面な演技をするな。わかっているけど、それが難しい。滑り慣れた先生のプログラムが、もっと高みに行けと言っている気がした。


「哲也」

「何ですか」

「このフリー、完璧に滑れるようになりたい?」

「当たり前です」

「なら、場数は幾らでも踏んだ方がいい。結果は少なくとも表彰台かな。ファイナルに行く気持ちで挑みなさい」


 珍しいほど真面目な先生の言葉に、真面目にしっかりと頷く。人のことばかり気にしていられない。今日の演技を忘れて、明日に向けて切り替えなければ。


「あ、そう言えば哲也、随分電話長かったけど、どうしたのさ」

「ああ。相手はジョアンナです」

「はあ。一体何で」

「今日の演技がよっぽどショックだったのか、めちゃくちゃ泣きつかれました。適当に当たり障りのないこと言ったら、先生にも助言をもらったから頑張ってみるって機嫌直して電話切れましたけど。地元開催だからプレッシャーがあるんでしょうかね、彼女も。俺としては、関係者席で雅と隣に座っていたことの方がびっくりしましたけど。……何、何ですか先生。そこで頭抱えないでくださいよ」


 俺の真っ当な言葉にアメリカ人のような反応をする。先生に、君のそういうところが愛が足りない、と謎な言葉を吐かれた。

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