10.それは少し、愛が足りない話【2016年スケートアメリカ その③】

 最初にデトロイトでアンジェリカに滑りを見せた時に、「滑りが細い」と言われた。それはマイナスな意味ではなく、「繊細な曲を滑りこなせる」という意味だった。彼女は10年以上前、アマチュアだった堤先生のフリーも制作したことがある。


「マサチカの滑りはパリアッチだけど、テツヤは滑りはサントゥツァね」


 パリアッチはテノール。サントゥツァはソプラノ。声と滑りの質の相性を指していた。

 第二グループの三番滑走はアーサーだった。俺を含めて三人残したところで、現時点でトップ。二位は晶。第一グループ四番滑走。バックステージ越しに聞こえたバンドネオンの音色とタンゴのリズム。時折混じる歓声。……点数を見れば、歓声通りの演技をしたとわかる。

 フェンスに手をつけて屈伸をする。膝も温まっている。氷の調子も悪くない。


「ねえ哲也。今回のプログラムの作曲家は君とは真反対の男だとは思わないかね」

「はあ?」


 ……演技前に、いきなり何を言い出すんだ、先生は。

 ……スクリーンに先程の滑走者の演技が映し出される。第二グループ、三番滑走のカナダのアーサー・コランスキーが、大きすぎるトリプルアクセルを決めている。すっとキス&クライのアーサーに切り替わる。ギリシャ彫刻のような美貌が、少し苦い顔をしている。トリプルアクセルは完璧だが、その他でぽろぽろと失敗があったのだろう。だが、今は人を気にしている場合じゃない。


 アナリーゼはフリーだけではなく、ショートの曲も進めていた。そうすると……出てくる出てくる、作曲家の引くほどのゴシップが。


「まあ、そうですね」

「でもね、マスカーニは自分を誤魔化せない男だったんだよ! 根底には深い愛がある! そう、愛! 愛なんだよこのプログラムは! この曲はマスカーニのアヴェ・マリアにもなったじゃないか。だからね」


 酒でも飲んでるんだろうか、と俺が思ったところで、パン、といい音を立てて先生が手を叩く。同時に、アーサーの点が表示される。苦い笑いがありつつも現時点でトップに立ち、晶が二位に後退する。点差はわずか0.98だった。


「大事な人に大事だと言えるように。君も愛を込めて滑ってきなさい」


 堤先生の言葉に、ふっと笑う。

 もう少しマシなこと言えないんですかね。言ったら面白くないでしょ。……面白がるような場面じゃないぞ、と突っ込みたくなる。名前がコールされる。


 ショートで二本の四回転を入れるのは初めてだ。

 多少緊張もするが、先生に言われたことも忘れないようにして、リンク中央に向かう。



 ーー愛が込められたかどうかは自分でも疑わしいが。

 四回転サルコウ+三回転トウループのコンビネーションに、単独の四回転トウループ。トリプルアクセルを全て決められた。

 大会で初めて披露するが、このプログラムは滑りやすい。昔からいまいちショートプログラムが苦手だったから、アンジェリカの選曲に感謝したい。

「お疲れさん。ま、悪くなかったよ。愛が薄かったけど」

 全てが終わってリンクサイドに戻ると、堤先生が笑顔で出迎えた。悪くない。10月時点で先生からそれが出れば、上出来だ。


「愛が薄いってどんな意味ですかね」

「言った通りの意味だよ」

「プログラムに対する愛は込めたつもりですが」

「そういうことじゃなくてね」


 点数が出るまで時間はかからなかった。ーーアーサーを抜かして、現時点でトップ。残るは、地元アメリカのジェイミー・アーランドソンと、世界選手権銅メダリストのチャン・ロンのみ。

 キス&クライから観客席が見える。関係者席には……。


「……あれ?」


 見間違いだろうか。いや、あれは……? たしかにそうだ。珍しい並びなので思わず瞬きをしてしまった。


 まあいいや。それよりも、次の選手の滑りだ。


 次滑走、アメリカのジェイミー・アーランドソンの演技が始まる。

 ジェイミーはジュニア時代からのライバルだ。衣装はオフィスでもそのまま使えそうな「スーツ」。着こなしかたは、社会慣れした遣り手の名弁護士、ではなく、社会に出たばかりだけど自分の能力に自信のある若手の弁護士、と言った感じ。


 裏拍をうまく使ったプログラム。それを、キス&クライから鑑賞する。トリプルアクセルがステップアウトしたけれど、ミスはその程度だ。最後までスピードが落ちなかった。


「いいプログラムだね。今はまだマイク・ロスの一歩手前って感じだけど、滑り込めばルイス・リットになれるよ」

「そこはハーヴィー・スペクターって言いましょうよ」

「いやいや、そこはあえてルイスで行こう!」


 ……先生も大概に意地が悪い。元になったドラマは、先生が有料放送で撮りためて、オフの日に見ている。日本でも人気のドラマだ。


 拍手を送って、ジェイミーに場所を譲る。移動しながら、再び関係者席を見た。やっぱり驚きを現すのに、瞬きでは足りない。首を傾げるほど、珍しい組み合わせだった。


 何故、雅とジョアンナが並んで滑っているのだろうか。その横には杏奈とシンプソン。あの二人って、というか雅がジョアンナが苦手なのは知っている。

 まあいいか。あの二人の蟠りが無くなったならそれでいいのだ。


 ジミーの点は……ステップアウトした分、俺を下回った。最終滑走はチャン・ロン。メダリストの名にふさわしい滑りを披露する。

 ーースケートアメリカの男子シングルは、チャン・ロンが世界選手権三位の実力を発揮して、一位で折り返すことになった。

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