8.猫とネズミがシカゴで踊る【2016スケートアメリカ】③
次滑走の杏奈がリンクインする。すれ違いざま、雅と杏奈が静かにタッチした。がんばれ、お疲れ様という意味合いがあったのかもしれない。雅を迎えた星崎先生は、生徒とは真逆で冷静そのものの顔だ。腹の中ではどう思っているかは、額面通りには捉えられないのかもしれないが。
はあっと隣の晶がため息をつく。わざとらしい音だった。
「俺さあ、雅のジャンプを見るたびに思うんだよな。……雅が男子じゃなくてよかったって。いやマジそう思うわ。勝ち目ねえよ」
気持ちはわからないでもない。同じことを、ジャパンオープンのバンケットでジェイミーが言っていたのだ。ーーもしミヤビが男子シングルだったら、少なくともジャンプだけなら僕に勝ち目はない。あのジャンプならクワドだって習得できるかもしれない、と。
つい、首を傾げてしまう。
「そうか?」
「そーだよ。ほんっと、凄すぎて参考にならねー」
「いや、でもジャンプが良くても雅は雅だろ。男子だろうが女子だろうが関係ないよ」
「……ごめん、お前に言った俺が間違ってたわ」
それどういう意味だと繋げようとしたところで、会場のアナウンスが入る。
得点が表示される。ーー現時点でトップに立った。
第二滑走は杏奈。雅の親友で、昨シーズン世界ジュニアの女王。淡い紫色の衣装。半月のかたちの髪留めが美しい。キャッスル・オン・アイスで披露した「月の光」だ。
歌うように。流れるように、曲そのものがもつ淡い色彩を完璧に滑り切った。
トリプルアクセルがない分、ジャンプ構成は雅よりも弱い。だが、三回転+三回転がルッツとループで、単独のジャンプがフリップだった。トリプルアクセルを入れないジャンプ構成での、最高難易度のものになっている。また、レイバックスピンの加点やステップのレベル判定など、トータルパッケージで見ると雅より上だ。ステップではスケールの大きいスケーティングに湖水の上を進むかのような細やかなターンが続き、至高のレイバックからのビールマンスピンへの移行もよどみない。……アイスショーの時は、ビールマンでは回っていなかったと記憶している。
夏のアイスショーで見た時よりも、所作が更にブラッシュアップされている。より、「月下の湖水で踊る少女」のイメージが鮮明にされていた。
……最初に名前がコールされた時、隣の晶が「杏奈! 結婚してくれ!」と叫んでいたのは、聞かなかったことにしよう。どうせ杏奈も聞いちゃいない。
納得の演技で雅の点数を抜いた。ただ、点差はそれほど開いていない。
その後は世界ランキング上位の選手の演技だった。ソチ五輪銅メダリストの、イタリアのカテリーナ・リンツ。ソチ五輪アメリカ代表、ジェシカ・シンプソン。ダイナミックなジャンプが持ち味の、ロシアのエカテリーナ・ヴォロノワ。シンプソンとヴォロノワはノーミス。リンツはダブルアクセルがステップアウトした。ミスというミスはそれぐらいで、全員がそれぞれの魅力を引き出した演技になっていた。
だが、それでも杏奈と雅の点数に届かない。残り一人を残した状態で、杏奈は一位、雅は二位のままだ。三位はシンプソン。四位がヴォロノワの、五位がリンツ。
最終滑走は地元アメリカのジョアンナ・クローン。
青いドレス風の衣装で滑るショートはディズニーの「リトル・マーメイド」。
……6分間練習の不調を、そのまま引きずったかのような精彩を欠いた演技だった。見ているこっちが危なっかしくて、頭を抱えてしまうほどだ。コンビネーションはセカンドが二回転になったのはいい方で、ダブルアクセルで尻餅をついた。
左隣の先生が渋い顔をする。右隣の晶はいない。言葉通り、杏奈の演技が終わったらさっさと客席から消えていった。ショートでこの出来では、先生が振り付けたフリーの仕上がりはいかがなものか。ジャパンオープンはシーズン序盤の出来としてもあまりよくはなかった。……だから思い詰めて泣いてしまったのだろう。
最後のスピンも、ビールマンのポジションが何時もより硬く見えた。
ルッツのエッジ以外のジョアンナのもう一つの弱点。それは、演技をまとめられないことだ。一回失敗すると、ズルズルとミスを重ねてしまう。演技途中のリカバリーが下手なのだ。
人魚姫の恋は成就できたのか、声を失ったまま泡になってしまったのか。終わった後のジョアンナの顔に、輝かしいディズニー・プリンセスの面影はどこにもない。キス&クライに引き上げる姿も小さく見えた。
得点はすぐに表示された。それを見てリチャードがジョアンナの肩を抱いた。全米女王のショートは六位。
事前の予想を大きく上回るようなスタートとなった。
✳︎
ザンボニーが氷に残ったトレースを綺麗に消していく。製氷作業の間に、女子シングルの上位三人による公式記者会見が行われる。その後に、男子シングルが始まる。体を伸ばし、廊下でジョギングをして少しずつ体を慣らしていく。滑走の早い晶は、十分に体を温めたようだ。少し離れたところで、ジャンプのイメージトレーニングをしていた。
ワイヤレスイヤホンからショートの曲が流す。ショートの曲とさっき聞いたリストの超絶技巧が、複雑怪異に鼓膜に張り付いてくる。
男子の開始まで残りわずかという時間の頃。
プレスルームから出てきたらしい記者の一群が、俺の横を通り過ぎて行った。皆、少し険しい顔をしている。特に、アメリカの記者と思しき何名かが。たしかに彼らにとっては面白くないスタートになっただろうが……。
……考える余裕はない。もう次には競技が始まるのだ。俺は周りの音をシャットダウンするために、イヤホンから流れる曲のボリュームを上げた。深海に潜るように深呼吸を繰り返す。ショートの曲が鮮明に聞こえてくる。自分の感覚がどんどん研ぎ澄まされていく。
会場のアナウンスが、男子シングルのショートの始まりを告げた。
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