8.猫とネズミがシカゴで踊る【2016スケートアメリカ】②

 トリプルアクセルと確実な三回転+三回転を武器に氷上を駆け巡る「クレイジージャンパー」。世界ジュニアで銅メダルを獲った後、海外メディアがつけた雅の二つ名がこれだ。昨シーズンで、雅はしっかりトリプルアクセルという大技を「何時でも破壊力を発揮する確実な武器」として身に付けたようだった。


 だがスケートアメリカの下馬評は、地元のジョアンナ・クローンとジェシカ・シンプソンが、ロシアの実力者、エカテリーナ・ヴォロノワと争うだろうというものだった。ジョアンナは去年の全米の優勝者。ジェシカ・シンプソンはソチ五輪四位で、十五年の上海での世界選手権の銅メダリスト。

 日本勢は実力はあるとは言えジュニア上がりが二人なので、まぁ運が良ければどっちかにころんと銅メダルが落ちてくるよ、というような。

 ただ、そういう杓子定規な予想を裏切るのも、スポーツの面白いところだ。


 ーー曲が始まる。よく伸びるヴァイオリン。深くエッジを使った、音に合わせた伸びるような振り付け。ピアノが高音のトリルで飾る。右腕の振り付けが、細かく音を拾う。

 トップスピードになるのが早い。いくつかターン、ステップを組み合わせての最初の技はーートリプルアクセル。

 モホーク、カウンターから前向きに向き直り、力強く飛ぶ! 

 雅のジャンプは、飛ぶ瞬間のエッジが綺麗だ。すっとそのまま駿馬が駆け上がっていくかのように躊躇いがない。

 高さは十二分。フェンスを飛び越えられそうなほどだ。約1秒あるかないかの滞空時間ののち、着氷。


「わー、すげ」

 歓声にかき消されてもいいぐらい小さい声だったが、隣にいる先生の率直すぎるほど語彙の失った感想が、俺の耳にはっきりと届いた。

 調子がいいってもんじゃない。GOEが満点貰えるぐらいのジャンプだった。


 雅のジャンプを、初めて直で見たジャッジもいたのだろう。右から3番目のフランスのジャッジが、ぽかんと口を開けている。


 ゆるやかで哀愁に満ちた曲調から、急速にテンポが上がっていく。

 瞬く間に次の要素に。超絶技巧のピアノと高速のレイバックスピンが絡み合う。背中をそらしたまま、回転を早める。フリーレッグをつかんで、耳元の横にブレードをつける。レイバックスピンの一種で、ヘアーカッターと呼ばれる技だ。……体は硬くないが、ビールマンの姿勢は杏奈やジョアンナ、マリーアンヌと比べるとはっきりと劣る。そこで差別化を図るために、高速のヘアーカッタースピンを手に入れたのだ。


 音が目まぐるしく変わり、次々と技を繰り出していく。コンビネーションスピンで面白いぐらい姿勢が変わる。技と技の繋ぎのステップはハンガリーの民族舞踊のようにダイナミックで、中盤のステップシークエンスはそれとは違う愛嬌と楽しさがあった。決してターンの数が多いわけではないので、何かが何かを追いかけて、それを互いに楽しんでいるような。


 ……言うなればこのプログラムは、リストの超絶技巧に乗せた猫とネズミの追いかけっこだ。ピアノが猫。ネズミがヴァイオリン。ステップはけして難しいターンやステップの組み合わせがあるわけではないのでレベルは3がいいところだろうが、レベルでは図れない面白味があるのも事実だ。


 リストの「ハンガリー狂詩曲」は全19曲。最も有名なのが第2番だ。本来この曲はピアノ独奏曲なのだが、このプログラムでは編曲に特徴がある。

 ピアノとヴァイオリンが交互に主旋律を奏でるのだ。ピアノが主旋律を奏でている時はヴァイオリンが装飾音になったり、逆の時はピアノがベースの役割を担ったりする。


 有名なフレーズを鍵盤が叩く。音に合わせるのは、氷上スレスレまでぐっと腰を落としたハイドロブレーディング。水平に伸ばされたフリーレッグは、猫のしっぽのように伸び伸びとしていた。滑るエッジが大きく半円を描く。そしてそのまま体勢を整えつつスリーターン。旋律がヴァイオリンに変わり、ネズミが猫のしっぽを追いかけてーー


「……なんだそりゃ!?」


 今度の声は晶だ。……さっきから両隣の人間から、語彙がなくなった感想しか聞こえてこない。

 ーーハイドロブレーディングから連続のスリーターン、そのまま直接三回転ループ。それも、ジャッジの目の前でだ。スピードを落とさず最後のジャンプに。少し長めの助走から、ルッツ+トウループの三回転+三回転のコンビネーション。ーー三回転ループからのジャンプは演技の後半時間なので、点数が1.1倍される。ハイリターンだが乳酸がたまる後半な分リスクも高い。


 ルッツに踏み込む左足のエッジが綺麗にアウトサイドに。そのまま、弾丸のような勢いで、種類の違う3回転を連続で綺麗に決める。飛距離がありすぎて、フェンスに当たりそうだった。隣に座る晶が笑う。笑うしかない。緩急のある陽気なハンガリー狂詩曲の後半部分に、最高のジャンプが重なった。


 狂詩曲。まさに狂ってる。クレイジージャンパーという二つ名は、間違ってはいない。


 締めは得意のフライングキャメル。たっぷり十回回った後、スッとフリーレッグを掴む。交互に奏でていたヴァイオリンとピアノが殴り合うように、互いの音の主張をやめない。まるで喧嘩だ。ヴァイオリンがうねる。ピアノが走る。ネズミが威嚇をして、猫がちょっかいをかける。高速のドーナツスピンが二つの音の橋渡しをする。追いかけても主張しあっても、猫とネズミは離れない。


 スピンを解いた瞬間に、疲れ切った猫とネズミが握手をする。

 ピタッと気持ちいい音が聞こえてきそうな、綺麗な終わりだった。



 閑散した会場に、割れるほどの拍手が湧き上がる。ノーミスの演技を披露した雅は、飛び上がってガッツポーズをする。ジュニア上がりの雅のアメリカでの知名度はあまり高くなかったはずだ。

 それでこの歓声。隣の先生がなんて言っているか、全く聞こえないほどの。

 花とそれなりに大きいサイズの猫のぬいぐるみが投げ込まれる。

 ……最高と言っていいほどの、グランプリシリーズのデビューとなった。

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