5.今日のドイツは荒れ模様 ①
星崎家の朝は早い。
5時半に起床。ジャージに着替えてストレッチし、家の周りをランニングする。20分自分のペースで走った後、さっとシャワーを浴びて朝食。リンクに行くのは大体6時半になる。なお、父は同じ時間に起きて、私がランニングしている間に朝食を食べて先にリンクに向かう。
なので朝食を囲むのは私と……。
「……味噌汁に何入れた?」
「昨日のパスタの残りのウニだけど」
母、星崎涼子。元アイスダンス、全日本チャンピオン。現在はフィギュアインストラクター兼振付師兼、管理栄養士。
……通信で資格を取ったという管理栄養士の母は、基本的に美味しい料理を作るのだが、たまにキテレツなものを出してくる。現在、食卓に並ぶのは野菜とタンパク質中心の朝食だ。あさりとネギの薄味の混ぜご飯に、もりもりのサラダ。卵焼き。…長ネギとウニとワカメの入った珍味な味噌汁。
母は美人だ。元アイスダンサーらしく手足が長く、やや童顔ながらも整った顔をしている。私は目元は父に似ているが、全体的な顔立ちは母に似たようだ。今年で42歳になるが、30代でも十分通るほど若々しい。
「母さん、今日シフト入ってたっけ?」
アイスパレス横浜に所属するインストラクターは、ヘッドコーチの父を始めとして全員で20名。その中に、堤先生や母も含まれている。
フィギュアアスリートを目指すとなると、まずはインストラクターと師弟関係を結んでフィギュアクラブに入るのが普通だ。アイスリンクが開催しているスケート教室に通ったり、グループレッスンに参加したり。それを入り口としてフィギュアクラブの指導者と師弟関係を結ぶケースが多いだろう。
アイスパレス横浜では、レベルや人数に合わせてスケート教室を開催している。個人レッスンもあれば、グループレッスンも充実している。昨今のフィギュアブームのおかげか教室の生徒数は多い。それも、社会人で始めた人もいれば、中高年も目立つ。一言でフィギュアスケーターといっても、全員が全員競技会やオリンピックを目指しているわけではない。生涯スポーツとして、少しずつ開かれ始めている。
「んー、午後3時に佐藤さんの栄養指導があって、夕方に哲也くんの練習見ることになってるわ。それ以外は特になし。松野さんも来ないしね」
母が現在受け持っている専属の生徒は、松野という社会人スケーターだけだ。ほかに、フィギュアクラブの生徒の振り付けや、生徒の体質や嗜好さらに予算に合わせた栄養指導も行なっている。この栄養指導がなかなか評判がいいのだ。あとは、堤先生不在時にてっちゃんの練習も見ている。
ちなみに堤先生は今日本にいない。トリノ五輪王者のユーリ・ヴォドレゾフ主催のアイスショーに出演するため、ロシアはサンクトペテルブルクに出張中だ。
「じゃあ、佐藤さんの前は大丈夫だよね? 振付、きちんとできているか見て欲しいんだけど」
「いいわよ。どっち? ショート? フリー?」
「両方とも」
味噌汁を飲みながら、母が親指と人差し指でマルを作る。美味いと思って飲んでいるのだろうか。
ショートの振付は5月、フリーの振付は6月の新潟のエキシビションの前に終わっていた。あれからアイスショーで何度も滑っているから、細かいところが自己流アレンジされていないか、振付師にチェックしてもらうのだ。ショー用のものはともかく、競技用のプログラムで自己流になっていたら、レベルが取れるか取れないかの問題が出てくるから。
「変な風に滑ってたらカニカマとヤリイカのイチゴジャム漬けのココナッツオイル炒め作るから覚悟してね」
「……それ、絶対に生徒の親御さんに教えない方がいいからね」
なにせものすごくまずかったのだ。心の中でカニカマとヤリイカに手を合わせて供養するぐらいには。
✳︎
ジュニアからシニアに上がるにあたって、女子シングルで大きく変わることは二つ。
まず、演技時間だ。フリーの時間が3分30秒から4分になる。
もう一つは、同じくフリーの要素が一つ増えることだ。
今までフリースケーティングを構成する要素は、ステップが一つ、ジャンプが七つ、スピンが三つの、11個だった。
それがシニアに上がり、演技時間が30秒増えたことにより、「コレオグラフィックシークエンス」という要素が一つ増えることになる。よって合計12個。
演技実施時間の延長と演技要素が増したことで、求められるのはまずは体力だ。4分滑ってもスピードが落ちないスタミナ。そのために必要なものは、無駄な力を使わないスケーティング。結局プログラムの大半の時間は、飛んでいる時間でも回っている時間でもなく、エッジで滑っている時間だ。
「もっとスピードを出して! それじゃPCS8点台は難しいわよ」
ーージュニアからの推薦枠で、シニアの全日本選手権に出場したことはある。そのときは30秒長いシニア用のプログラムで滑った。特段疲れたと思ったことはないけど、4分の演技に慣れているわけではない。
「スパイラルの時、足をもっと伸ばしなさい。手の振り付けもおろそかになってるわ」
午後2時。約束通り、母にショートとフリーの振り付けを確認してもらっている。
コレオグラフィックシークエンスは、簡単に説明すれば、「スパイラルやイナバウアーなどのムーブスインザフィールドを駆使して、氷の上で自由に滑って表現する」というものだ。
自由度がありそうでいて、曲者な要素だ。ステップやスピンのようにレベル判定がなく、基礎点からいかに加点が稼げるかにかかっている。魅力的に滑ればその分付いてくるが、きちんとプログラムや振り付け、音楽とあっているか。また、それら合致するように滑れているか。振付師もスケーターも頭を悩ませるところだ。
ーーフリーは、6月頭に母とカナダに渡り、有名振付師のノーマン・マイヤーに振り付けてもらった。はじめての海外の振り付けだ。ノーマンが「シニアにふさわしい滑りを身に付けるように」と選曲したものだ。
「ちょっと雅、足が伸びきってない! シェヘラザードはそんなスピンやらないわよ!」
先ほどから、少しの狂いも見逃されない。その度に、厳しい叱責が飛んだ。流石は星崎総一郎の妻。独特な言葉で罵ってくる。
「今度そんな風に滑ったら煮干しと炙りゲソの豆腐ピーナッツバター和えを作るわよ!」
……あんなもん二度と食べたくない。なんの罰ゲームだ。
8月になると、今シーズンに対する緊張感が出てくる。下旬になれば私も去年まで出ていたジュニアグランプリシリーズが始まるし、来月はもう私の初戦だ。
今期の初戦はチャレンジャーシリーズだ。これがシニアに上がって初めて戦う試合でもある。大会は、ドイツはオーベストドルフで開催されるネーベルホルン杯だ。そこからグランプリシリーズに参戦する。エントリーはアメリカ大会とフランス杯。
8月のリンクは活気に満ちている。その活気は、殺気に近いかもしれない。プログラム練習をする私の横では、てっちゃんが殺気に満ちた顔で四回転の確認をしていた。
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