4.7月、キャッスル・オン・アイス【後半】②


 2部のトップバッターは杏奈で、ロシアのキリル・ニキーチンを挟んで俺の出番だ。杏奈は今期のショートプログラムを滑る。クロード・ドビュッシーの「月の光」。ピアノ独奏版だ。小さい頃からメタリカが好きだ最近はワンオクがたまらないと言っている彼女は、氷の上ではクラシックが得意だ。趣味としての音楽と得意なもののバランスが最高にとれているのかもしれない。


 月の燐光に魅せられた少女が、月下の湖水で一人静かに踊っている。そんなイメージで作ったと言っていた。


 水の上では人は踊れない。しかし杏奈のスケートは、それすらも現実にしてしまうような美しさがあった。最小限の音でトリプルループ。針の針に糸を通すかのような繊細さ。細かいステップワークで流麗なシンコペーションを描いていく。最後のレイバックスピンは本物の三日月のような圧巻さだった。

 舞台袖から拍手を送る。これは正統派で美麗なプログラムを作ったものだ。



 さて……。



 今度は俺に、スポットライトが静かに当たる。

 紡ぎ出されるのは深い音色の一音。清涼な……箏の音だ。


 下が黒のボトムだが、上は和装をイメージして作った。色は白に近い淡い青からほとんど闇色の群青まで。さまざまな青を取り入れた。


 歌舞伎の演目にアニメ曲と、堤先生が「フィギュアでは馴染みがない曲」を渡すのは何度もあった。その度に驚いているのだから、俺もいい加減慣れろよ、というところなのだが。

 今回も例外に漏れず、目を丸くさせる羽目になった。


「箏の音色の懐の深さを舐めちゃいけない。俺の代表作はこれと同じ箏曲だよ」


 それは先生だから滑れたのではないか、と言おうとしてやめた。これでは俺が、自分では滑れないと認めているようなものだ。


「君は音を自分のなかに取り込む才能があるんだからさ。大丈夫。「藤娘」も滑り切れたんだし、いい加減、「これはフィギュアではダメ」とか「この曲はフィギュアでは王道」とかいう先入観を捨ててみなさいな」


 王道なんて自分で切り開くものだと先生は笑った。


 去年、「藤娘」という歌舞伎の演目をアレンジしてエキシビションで滑った。もともとこのプログラムは堤先生の作品で、先生を氷上のファンタジスタたらしめた一作だ。それを細かい振り付けは変えて譲り受けたのだ。ーー俺が初代なら君は2代目氷上の藤娘、さらにいえば俺は藤の花香り高い傾城の美女なら、哲也は藤の花開きたての清純な美少女だねーーというのは堤先生の言葉だ。……プログラムのイメージはその通りなので理解はできるし、色んなところで評価されたのは素直に嬉しいが、若干複雑な気分になった。


 歌舞伎は日本の伝統文化の一つだ。今回のショーナンバーはその「日本の伝統文化」の系譜を継いだものだろう。


 初めて披露するエキシビションナンバー。

 曲は「水の変態」。近代日本を代表する盲目の箏曲家、宮城道雄の処女作にして代表曲だ。


 曲名の「変態」は形態を変える事を意味している。時に荒れ狂う雹のように。時に深更の夜に静かに降り立つ霜のように。水が九つの形態に変えることを表す、緩急の激しい曲だ。人を潤す優しさだけではなく、人の命を奪う激しさも求められる。それでいて、一粒の音が濁りなく美しい。

 唄もある曲だが、あえて唄は入れなかった。唄が水が形態を変える事を歌っているのならば、それを滑りで表現すればいい。


音の激しいところは、その激しさを強調するために大仰な振り付けを。

 少しゆとりのあるリズムのところでは長めのイーグルで「伸び」を表現する。

 音が、変わる、変わる変わる。

 その度に水の形がかわる、変わる。


✳︎


……初めて披露したプログラムだが、お客様の反応は悪くはなかったように思う。ただ、戸惑いも感じただろう。前のニキーチンが滑った曲が、映画「ムーランルージュ」の「ロクサーヌのタンゴ」だったのも影響しているかもしれない。わかりやすくメジャーな曲と、取っつきにくい純邦楽のギャップが激しかったと思う。そこそこの拍手を頂きつつ、バックステージに下がった。


 そんな俺を迎えたのは、裾から見ていた堤先生だった。 


「まぁ、初演にしては上出来じゃない?」


 彼の「にしては」は、褒め言葉でもあるが向上の余地があるという事だ。ここで打ち止めだったら困る。

 実際にお客様の前で滑ってわかったのは、確かに箏の音は懐が深い。そして意外に、自分の滑りに「しっくりくる」のだ。

 ここをブラッシュアップしていくのは自分次第だ。先生とああでもない、こうでもないと暫く話した後、準備のために、控え室に戻ることにした。   


 次の出番は、最後から三番目のグループナンバーだ。先生の出番はもうフィナーレのみなので、暫く客席にいると言って別れた。


「あ、てっちゃん……」


 ……控え室に戻る途中、リンクに至るまでの廊下で、雅と顔を合わせた。 

 もう先ほどのプログラムの衣装ではなかった。次の出番の、女子スケーターだけのグループナンバーの衣装に変わっている。


「雅、お疲れ」

「うん、てっちゃんもお疲れ様」


 そこで雅は、さっと目を逸らした。

 ……最近、身長がそこそこ伸びたらしい。高校の身体測定で測ったら172センチだった。これは4月のことで、今でもたまに成長痛で膝が痛む時があるのでまだ伸びるかもしれない。

 一方で、雅は155あたりで止まったように思う。身長について、せめて160は欲しかったと彼女は嘆いていた。

 だから今、雅の顔は俺のアングルでは見えない。


「……どうしたんだよ」


 なんだろう、声のトーンが暗い。暗いトーンや全身から発せられる負の雰囲気から、元気がないのだけはわかる。あれだけいい演技をしてきたのに。

 元気のない雅は苦手だ。自分を責めたくなる。そして、彼女にこんな顔をさせている誰かに対して、理不尽な怒りを感じてしまう。


 ただ、いざ元気付けるとなると、俺が自分で何をしたらいいのか分からないのも現実だった。下手な慰めはしたくない。本心と違うことも言いたくない。


 不意に、先ほどの雅の演技が頭の裏側で浮かんだ。ボーイソプラノの声。宙に浮かび上がる頼りない音。電子音の山。霧の中で漂っていたものが、心の奥から蘇ってくる。

 そこには、たった一人で寂しげに滑る少女がいた。見ているこちらの胸が詰まるほど、寂寥感に満ちていた。

 伸ばされた右手は常に、誰かを探していた。


 ……もし本当にそこに霧の城に囚われた少女がいたのなら。


「雅、ちょっと右手を出して」

「なんで」


 声が固い。ハリがなくて、怒っているのか悲しいのか、自分でも分かっていない声だ。……いや、本当は何が原因なのか分かっていて、それを俺に悟らせまいとしているのかもしれない。


「いいから」


 不承不承、雅が右手を出す。

 差し出された手をーー俺の左手で握りしめる。

 びっくりしたように、雅が俺を見上げた。


「大丈夫、一人じゃない」


 かなり大胆だが、今の雅に対してぴったりの行動だと思えた。今ちょうど、周りに人がいなくてよかった。

 雅が滑った曲は、ボーイソプラノが歌う英語の曲だった。日本語訳の歌詞の一説にこういうものがあった。ーー君は、いた。そう、君はいた。この部分が曲の要だろう。


 そして、俺もいる。


 霧の中でたった一人で囚われていても、手を握り返す誰かはきっといる。


「てっちゃん……現実とプログラムの世界を混同してない?」

「そのぐらいにはお前の滑り、よかったぞ」


 それはお客様の反応にも現れていた。


「私はヨルダじゃないよ」

「俺だってイコじゃない」


 そもそも元のゲームをやったことがない。堤先生はどこからこの曲を仕入れてきたのだろうか。あの先生の音楽性は謎だ。


「てっちゃん、ひとつだけわがまま言っていいかな」

 なんだ? と目で聞いてみる。

「……握りかた、ちょっと変えていい?」

「ああ」


 雅は、俺の左の手のひらに、自分の右の手のひらを合わせた。ゆっくりと、一本一本指を降り重ねていく。

 ジョアンナが教えた、恋人繋ぎ。 


「ありがとう」


 そこでようやく、雅は笑顔になった。ほっとした。

 ……体の奥の、よくわからない部分が疼いた。指が細い。手が柔らかい。笑顔が眩しい。客観的に見て、それはジョアンナだって同じのはずだ。……同じの筈なのに、ジョアンナと手を繋いでも、こんな気持ちにはならなかった。

 そろそろ出番だから行くね。そう言って雅は俺の左手を解き、振り返らずに入り口まで走っていった。




 ……暫く俺は左手をじっと見つめてしまった。頭が軽く混乱している。演技の前じゃなくてよかった。もし出番の直前だったら、とてつもなく中途半端な演技になってしまっただろう。


 左手にはまだ雅の感触が残っていた。水かきにはまった彼女の指の細さが、重なったてのひらの温度が、生々しく冷凍保存されてしまった。このままでよかったのに。このまま握って……繋がっていたかったのに。

 頭にはまだ雅の笑顔が残っていた。すこし頰が赤くなって、口角が控えめに上がっていた。滑っている時と劣らない、しかしベクトルの違う魅力的な笑顔だった。今までこんな顔で笑ったのを、見たことがなかった。だから。


 誰にもその顔を向けないでほしい。

 この顔を知っているのは、俺だけであってほしい。

 ……なんでこんなことを思ってしまったのか、自分でもわからなかった。




 瞬間。

 背中に悪寒が走った。


 思わず後ろを振りむいたが、そこには誰もいなかった。いや……そこの曲がり角に誰かがいた気がする。

 半ば呆然としていた俺の意識を元にもどすには十分だった。

 嫌な汗が背中に滴り落ちる。そんな俺の横を、ジェイミーが通り過ぎていった。テツヤ、お疲れ。君のエキシビション、スゲエプログラムだったね。クールジャパンって感じで! でもそろそろ次の準備もしなよ。

 ありがたい雑な感想と、真っ当な忠告をいただいた。


「……次の準備しないと」


 気のせいだと言い聞かせるために、わざわざ声に出した。


 そうして初日が終わった。


 ✳︎


 キャッスル・オン・アイスは名古屋公演、大阪公演共に盛況で幕を閉じた。俺もエキシビションの他に、今期のフリーの抜粋部分とショートプログラムを披露した。


 ……その間、初日に感じたあの悪寒を、何度か経験することになった。気のせいではないはずだ。

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