4.7月、キャッスル・オン・アイス【後半】①


 その人がスポットライトに当たるだけで、氷の上の空気が変わる。どことなくふわふわした空気から、パリッという音と共に引き締まる気がするのだ。それはきっと、その人が培ってきた技術と自負が成せる技だ。

 ……曲は少しグルーミーなイントロから始まる。


 スローパートを滑る動きは最小限。

 舐めるようなスケーティングから、なんの前触れもなく三回転サルコウ。普段のその人のジャンプは「完璧な放物線」と言われるほど大きいのだが、今のジャンプは薄暗い曲調に合わせて、軸を細く狭めてささやかに飛んだ。曲に合わせてジャンプの質も変える……俺を含めて大多数のスケーターがやりたくても出来ない芸当だ。

 ブルースの哀愁を、最上級の技術でシリアスに滑りあげる。そして……。


 かき鳴らされるギターから曲調が変わる。

 同時に氷上が、フラメンコのタブラオに変わった。


 その人の事は、時にこう評される。

 氷上のファンタジスタ。氷の上で変幻自在に何かに「成る」スケーター。


 そんな俺の師匠、堤昌親が演じる曲は、イーグルスの「ホテル・カルフォルニア」。日本人のギターユニットがアレンジした、フラメンコギターバージョンだ。



 このプログラムで強調されるのは「キレ」、それから「抑制された色気」だ。エッジを深く使いながら、その深さを感じさせないほど細やかに切り分ける。深さとスピードの同居は案外と難しいのだが、一杯一杯なところは全くなく、寧ろ余裕さえ感じさせた。


 男性のフラメンコダンサーの特徴といえば、無駄のない動きから成される熟練の色気だろう。熟練のダンサーはたとえ老いたところで、座ってポーズを取るだけでその場を支配出来る。同じように、今滑っている先生は、上半身が全くブレていない。そして、その色気が下品じゃない。


 大部分をステップとエッジワークで締めるこのプログラムは、特に後半は少しの休みどころがない。ひたすら踊りっぱなしで、滑りっぱなし。その気になればトリプルアクセルもまだ飛べる先生だが。このプログラムは四回転やトリプルアクセルなどの派手なジャンプはない。


 だが、見ていて「なんだそれ」という小技はたくさん散りばめられている。両膝で回った後、立ち上がって逆回転のツイヅルをしながら軽いタッチでダブルループ、ダブルループ、ダブルループと3連続。パーカッションがわりにギターのボディを叩く音と同時に、両足トウを使ってピタッと静止してポーズ。再びステップを踏み始めたと思ったら、縦横無尽に滑りまくる。後ろ向きに滑って、リズムに合わせて右足でイン、アウト、イン、アウトとエッジを切り替える。ホップして半回転した後、今度は左足でイン、アウト、イン、アウト。基本的なエッジワークだが、それだけでも物凄く「魅せて」くる。リンクの半分以上を片足でステップを踏んだと思いきや、その足で三回転ルッツ。


 何時もは必要以上にへらへらしている先生だが、その雰囲気は全く見せていない。

 原曲が持つ「哀愁」と、フラメンコに欠かせない「情熱」を、見事に氷上で融合させていた。

 相変わらずえげつなく滑ってくれる。



 ラストはスピン。

 連続のアラビアンから高く舞うフライングキャメルスピン。そのまま足を変えて再びキャメルでまわって、チェンジエッジした上で加速。足を変えてシットスピン。スピードを落とさずにたっぷり回って……回ったまま立ち上がる。


 バックスクラッチスピンだ。両足で回るベーシックなスピンが、漆黒の衣装をより細く絞っていく。そのまま、3秒過ぎ、5秒過ぎ、10秒過ぎ……


「……いつまで回るつもりだよ」


 あまりにも長いスピンに、観客席から驚愕の声が上がった。そこま長く、速く回るのかよ。15秒、20秒……。

 最後のギターと先生がスピンを解いたのは同時だった。



 先生がアマチュアを引退して10年。その間に俺はスピードスケートからフィギュアスケートに転向し、世界選手権に出場するにまで至った。

 それなのに全く差が縮まった気がしない。ヴォルコフとはまた別の、高い壁を感じる。

 鳴り止まない喝采に先生が笑顔で手を降る。9割のお客様がスタンディングオベーションしていた。


 ✳︎


「やーっぱり堤先生はすごいわー」

「変態なんだよ、あの先生は」


 このショーに出ているスケーターの大半は現役のアマチュア選手で、お客様もそのファンの方が多いだろう。ここ数年でスケートファンになった方は、ショーに来ない限り、堤先生の演技を知らないかもしれない。俺の指導者、と認知されているだろう。

 その中で、この演技。

 この演技で、新しいファンを増やした気がする。


「それじゃあ哲也君はその変態から教わる優秀な生徒ってわけね」


 俺のとなりに立つ人物は、私から見たらあなたも十分変態よと静かに笑った。……もちろん、この場合での「変態」は褒め言葉だ。


「でも呼んでよかったわ。哲也君、あのまま雅の演技も見ないところだったもの」

「それは……ありがとう」


 隣で演技を見ていたのは安川杏奈だ。雅の演技が始まる前に、裾で一緒に見ないかと声をかけてくれた。……正直、助かった。デトロイトで彼女に付き合って以来、なにかと距離が近い気がする。だけどジョアンナとは友人として適切な距離を保っていたい。それが本心だった。


 杏奈と俺は同い年だ。名古屋で生まれた彼女は4歳でスケートを始め、俺とは夏の合宿で知り合った。ノービスで試合に出るのもジュニアに上がるのも、出場する大会も殆ど同じだったので、彼女に対して俺は勝手に同世代意識を強く持っている。友人は友人だが、戦友という単語が一番しっくりくる。


「ねぇ哲也君」


 15分のインターバルを挟んで、第2部が始まる。ストレッチのためにバックステージに戻ろうとしたところ、杏奈に呼ばれた。


「あなたから見て雅の滑りってどう思うわけ?」

「どうって……どういうことだよ」


 随分と輪郭のない質問だ。


「色々あるでしょ。一番近くで見てるんだし、例えば、格好良くなったとか綺麗になったとか。艶が出てきたとか。技術的な事じゃなくて、どんな滑りがいいなとか思ったのか知りたいのよ」


 ……しばし押し黙る。雅の滑り。何故いきなり、杏奈がそんなことを聞いてくるのかわからない。わからないのだが。


「そうだな……。」


 技術云々を抜きにして、考えてみる。ジュニアの時のロビンフッドと火の鳥。韃靼人の踊り。借りぐらしのアリエッティから、二億四千万の瞳。

 ロビンフッドは勇ましく火の鳥は雄大だった。だけどアリエッティではどうだろう。無理のない、14歳の少女がありのままの姿でワルツを踊っていた。韃靼人の踊り。オリエンタルさはやや欠けていたけれど、苦手なステップも楽しそうに滑っていた。堤先生が作ったものが躍動感を重視して作っていたからかもしれない。二億四千万の瞳。リンクサイドから声をあげて笑った。


 そして、今回のエキシビション。


 一言でこう、とは言いづらい。杏奈のようにどんな動きをしても根底的に所作が綺麗だと言い切れたり、マリーアンヌ・ディデュエールのように絶対的な存在感があるわけではない。ジョアンナのようにスポーティさと柔軟性が同居しているわけでもない。


 それでもどのプログラムも、見た後に思う感想は「いいものを見たな」という静かな余韻だ。窓を開けた時に流れてくる風のような心地よさ。アグレッシブな火の鳥を見たあとも、リリカルなアリエッティを見たあとも同じ感想を抱く。


「……ということだと思うんだけど、なんなんだよ、その顔は」


 尋ねてきたのは杏奈のくせに、何とも形容しがたい微妙な顔を作った。


「哲也君に聞いた私がアホだったわ」

「どういう意味だ?」

「見過ぎていて聞くまでもなかったってことよ」


 ますます意味がわからない。俺は何か、間違ったことでも言ったのだろうか。

 なおも重ねて聞いてみようとしたところ、演技を終えた堤先生がやってきた。


「やーあ哲也、杏奈ちゃん。二人揃ってどうしたのさ。そこからみててくれたわけ?」


 杏奈は堤先生がやってくるなり、その微妙な顔を引っ込めた。彼女は堤先生のファンでもあるのだ。


「素敵でした! いつもより色気が凄くて!」

「ニンニクマシマシな感じ?」

「そう、それです! それ以上ニンニク入れなくてもいいのに、多分に入れてさらに美味しくなるあの感じ! 本当にもうたまりません」


 言いたいことが微妙にわかる分、反応に困る会話だ。何だこの、ニュアンストーク。


「ありがとう。杏奈ちゃん。で、哲也。どうよ、惚れた?」


 ……そして、どうしてこういうことを言うかな、この人は。


「惚れはしませんが、凄かったです」

「もっと素直に言ってくれてもいいんだよ」

「今の俺は十分素直です」

「老骨に鞭を打って滑ってきたんだから、もっと褒めてよ」

「これ以上何を言えばいいんですか」


 そう、十分素直だ。言葉以上に、スケーターとして、表現者として素直に尊敬はしている。言うと調子に乗るから言わないけど。


「さ、次は君らだよ」


 力強く送り出される。次は俺たちの番だ。インターバルの時間はそんなに長くない。自分の演技の準備をしなくてはならない。

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