3.7月、キャッスル・オン・アイス【前編】②
『キャッスル・オン・アイス』の名古屋公演は、土曜日の昼公演と夜公演、日曜日の昼公演の計3公演だ。次の週末に大阪公演も同じ日程で開催される。会場はモリコロパーク。それぞれのショープログラムの他に、オープニングとエンディングを始めとするグループナンバーがいくつか滑る。
2日間のリハーサルとグループナンバーの振付を経て、今日は名古屋公演の初日。アレクサンドル・グリンカのロシア民謡『カリンカ』からショーはスタートした。
さて。ショーの時、地味に待ち時間が退屈だったりする。
確かにウォームアップは必要だ。勿論、観客からお金を頂くわけだから、気の抜けた炭酸ソーダのような滑りは見せられない。だけど、競技と違って極限まで集中力を高めて点数を競うわけではないから、そこまでがっつりとやる必要もないのだ。
なので……
「うわ、杏奈、最近こんなの読んでるの?」
「こんなのとは失敬な! アイヌの文化が知れて面白いじゃないの!」
たまに、控室のモニターやリンクサイドからちらちらとショーの様子を見たり、杏奈と最近ハマった漫画をめくったりしている。スポットライトが当たっただけのリンクを端からみるのは結構新鮮だ。
私の出番は前半のラスト2番目だ。その次に、前半のトリの堤先生。後半のトップバッターが杏奈。キリル・ニキーチンを挟んで3番目にてっちゃんが滑る。なお、大トリを飾るのは日本女子のエース、里村さんだ。
出番までそんなに時間があるわけではないので、演技が近づくころに準備運動をし始めた。
今回の公演はエキシビションナンバーを滑ることにしている。衣装は、黒い模様が入った白いワンピース。丈は膝まであるから、ちょっと長めだ。前にアリエッティを滑った時も長かったから、丈の長いスカートで滑るなんて慣れている。慣れないとスカートが絡んじゃったり重くて気になったりするみたいだ。
持参したヨガマットを敷いて、背中をひねったりして体を温める。会場はかなり盛り上がっているようだ。滑り終わった顔でわかる。ウォームアップを控え室でやる人もいれば、廊下で行う人もいる。私は廊下でストレッチをやるのが好きだ。戻ってきた人の顔を見ると、私まで楽しくなってくる。ヨガマットの上で寝そべっていると、今度は会場の方からチャン・ロンが……じゃなかった。やってきたのは、二人分の楽しそうな声。特にハイトーンのディズニーヴォイスが。
戻ってきたのはてっちゃんだった。リンクサイドで演技を見ていたみたいだ。……もう一人のディズニーヴォイスは……。
慌てて私は、誰が通ったのか分からなかった振りをして、うつぶせのまま足を付け根からひねる。どうも私は、二人の……てっちゃんとジョアンナが二人でいるところに遭遇してしまう気がする。
ストレッチをしたままでも、感覚でわかる。私から少し離れたところで二人は立ち止まって、そのまま立ち話を始めた。
よくよく聞いてしまえば、何を話しているか分かってしまう。英語が上達しなければよかったと思うのはこんな時だ。てっちゃんが殆ど相槌打っているだけっぽいのが救いだ。
……無心、というわけにはいかなかった。ジョアンナのハイトーンはよく響く。それだけで、無と唱えたはずの心を、錐みたいなものでぐりぐりと抉られていった。特に「水族館」「一緒に行った」というようなフレーズが。
てっちゃんは私がいるのに気が付いているのだろうか。それとも、気が付いていないのだろうか。気が付いていたうえで、出番が近い私を気遣って何も声を掛けなかったのだろうか。
やがて話が終わったのか、二人が動く気配がした。やっと終わってくれた。ヨガマットの上から立ち上がると、てっちゃんの後ろ姿を確認する。その向こう側に、金髪の若いマリリン・モンロー。ジョアンナの深海の瞳と目が合った。
私を確認したジョアンナが軽く笑い……てっちゃんの手を引いて控室の方に歩いて行った。
*
脳みそが止まったような気がした。廊下に、私たち以外誰もいなくてよかった。温めたはずの身体も冷えて、石みたいに固くなっている。クラゲのストラップは、やっぱりジョアンナと行った水族館で買ったのか。なんで一緒に行ったんだろ。どうしててっちゃんは、一緒に行ってもいいと思ったんだろ。でも。でも。
話した内容よりも何よりも、最後の手が一番嫌だった。
なんで、あんな風に手を握ったりするんだろ。ジョアンナの白くて長い指は、てっちゃんの手に一本一本しっかりと絡まっていた。恋人同士がそうするみたいに。勝手に目頭が熱くなる。
ああだめだ。もうすぐ出番なのに。油断しているとぼろっと落ちそうになる。こんなことで泣きそうになるとか、私、頭おかしいんじゃないのか? なんでこんなにショックなんだろう。普通だって。大丈夫だって。
思考が暗闇に落ちていきそうだった。
「みーやーびーちゃーんー」
急に、能天気な声と共に、左肩に奇妙な重みがのしかかる。左頬に、自分ではない誰かの髪の毛が当たっている。背中には妙な圧迫感。
私の暗い思考をかき消すには十分な、軽すぎる声。
「へっ?」
誰だ? と思う暇もなく。
「ふっ」
「……ひゃあああああああ!」
左耳に微量な吐息をかけられた。瞬間、耳元から背中に伝わって、足の裏まで悪寒が走る。き、気持ち悪! こんな気持ち悪いことするの、一人しか知らない!
「堤先生、何するんですか!?」
さっと足を動かして、重かった左肩を解放させる。想像した通りの人物だった。背が高くて、すっきりとした端正な顔立ち。軽薄さが服を着て歩いているような雰囲気と、底知れない深さという、相反する二つの要素を併せ持った男。
「びっくりした?」
そんな私の兄弟子は、わざとらしく目を丸くして聞いてくる。
「び、び、びっくりしたも何も! 心臓に悪いです!」
「よかったー。雅ちゃんがびっくりしてくれて。ちょっと固い顔してたから、ちょっかいでもかければほぐれるかなーと思ったんだよ! これ哲也は慣れちゃったみたいで、『いい加減にしてください』って塩対応するだけなんだよ。ま、それはそれでいいんだけどね。成功して嬉しいよ」
よくない。慣れるほどてっちゃんの耳に息を吹きかけた堤先生も十分おかしいが、慣れるてっちゃんもかなり変だ。まだ体に寒気が残っている気がする。こんなの慣れたくないよ。というか。
「そんなに固い顔してましたか?」
「うん、かなり。緊張は分かるけど、俺が作ったせっかくのプログラムが台無しになっちゃう」
……バレてたかな。嫌な思いを抱えちゃったことに。さっき見たものに、勝手にショックを受けて落ち込んでいた事とか。気が付かれていたんだろうか。
「それにしてもこのショー、ちょっと俺浮いてない?」
いきなり話が変わる。
「そんなことないと思うんですけど」
堤先生の意図が分からないので、こう言うしかない。
「いやいや。だってさー、平均年齢20歳前後じゃん。俺最年長で、皆現役バリバリじゃん。彗やキリルとも結構年離れてるしさー。君ら世代からしたら、俺はおっさんじゃん。もう少しでアラウンドフォーティーよ? トリノ世代が10年前なら、ソルトレイク世代の俺は長老になっちゃうよ」
「そういうことですか……」
彗とはバンクーバー五輪の銅メダリストの紀ノ川彗のことで、キリルは、ロシアのキリル・ニキーチンのことだ。紀ノ川さんは堤先生の次の世代の、日本男子シングルのエース。また、堤先生は現役の最後の年、父の許可を得て少しだけロシアに行っていたことがある。その時にジュニアだったニキーチンの家にお世話になっていたみたいだ。
ショー自体、14年に引退した紀ノ川さんを抜けば、出演するのは現在世界レベルで活躍しているアマチュア選手だ。確かに年齢や経歴で言えば、この中で堤先生は浮いている。プロ10年、34歳。出場した五輪は98年長野大会と、02年ソルトレイクシティ大会。この中で、堤先生の現役時代とキャリアがかぶっている選手が殆どいないのだ。私なんてソルトレイクの頃は赤ちゃんだったし、長野の時は生まれてもいない。そもそもその時、両親は結婚してないし。
「ま、お呼びいただけるならそれでこそ地球の裏側まで行くけどね。お客さんが待ってるし、本物を見せなきゃね」
リンクに至るまでの道を、堤先生がしっかりと見据えた。いつも通りの余裕の笑顔。だけど、目だけは鋭く光っている。髪を後ろになでつけ、黒いシャツを第3ボタンまで外した堤先生からは、普段の軽薄さが消えていた。シャツの隙間から、よく鍛えられた肩と胸筋が垣間見える。
浮いているというか、際立っていると思うんだけどな。ルーティカを見るだけで「氷」という単語が連想されるように、堤昌親を表す単語は「スケーター」なのだ。プロ10年というキャリアは伊達じゃない。
急に、頭の上が温かくなった。大きな手のひらが頭の上に被さっている。そのままいう事を聞かない子供をあやすみたいに撫でられた。
「な、なんですか」
「よかった。さっきの顔に戻らなくて。あんな顔で滑ったら、お客さんに失礼だよ。俺たちはスケーターなんだから。どんな時でも一番綺麗な姿で滑らないとね。たとえ誰かに複雑な気持ちを抱いていても、ね」
「……バレていましたか」
まぁね、と堤先生は笑う。
「君の事は赤ちゃんの時から知っているから」
理解されていたと思うと少し恥ずかしい。でも、不快じゃなかった。
頭を撫でるのは、よく知った大人の手だ。ちょっと父さんに似ているかも。そう伝えると、今度は複雑な笑いを作った。そんな時に、私の前の前、カナダのステイシー・マクレアが充足した顔で戻ってきた。お疲れ、と堤先生とステイシーがハイタッチする。
「さ。もう出番だろう。次は俺なんだから。滑り出したら君は霧の城の中の、ちょっと不思議な女の子だよ」
裾から見ているからね。
堤先生に優しく見送られて、私はリンクサイドに向かった。
*
がらくたの山が泣いているかのような電子音と、彼方から届く太古の音。それらが重なり、暗闇から、パッと私に照明が当たる。滑り出し、そこで足元……氷の上に薄い霧がかかっていると初めて分かる。霧は、会場の人に頼んでわざと入れてもらったのだ。
3拍子のストリングスからヴォーカルが重なる。思わず抱きしめたくなるような哀切を含んだ、男の子のソプラノ。
ボーイソプラノは穢れを知らない無垢な天使の声。……だから私も、お客さんの為だけじゃなく自分が使うこの曲の為にも、演じる時に余計なことを考えたらだめだ。堤先生の言うとおりだ。
迷路のような薄い霧のヴェールの中、静かに私は滑り出す。
今の私は、霧の中の少女だ。
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