5.今日のドイツは荒れ模様 ②


 9月のドイツはうすら寒かった。日本より早く気候変動が訪れるらしい。秋物のジャケットを着込んで会場に向かう。日本ではまだまだ残暑がきびしい時期だが、オーベストドルフの空は高く澄んでいて、風はもう冬のものに近かった。

 始めての訪れるリンクは、自分を受け入れてくれるのではなく、立ちはだかってくるものだと思う。馴染みがなくて、よそよそしい。女子シングルは、日本は私のみのエントリーだ。

 初日は滑走順を決めるくじ引きと、練習で終わった。標高の高いオーベストドルフの氷は、いつも滑っている横浜のリンクのものよりも透明に感じられた。そして、……。


「……?」 


 なんだろう。……滑りやすいというより、滑りすぎる。すこしの力でスーッと滑っていく。気のせいでは……ないはずだ。




 翌日。

 ショートのために会場入りすると、男子シングルのショートプログラムが行われていた。今日の日程は、アイスダンスのショートダンス、男子ショートプログラムの次に女子のショートプログラム、最後にペアのショートプログラム。

明日は全てのカテゴリーのフリーが行われる。順番は、アイスダンスのフリーダンス、女子フリー、男子フリー、ペアのフリーだ。


 だからかもしれないが、今、女子のロッカーは人が少ない。扉付近のロッカーが開いていたので、そこに荷物を置いていると、音もなく妖精が入ってきた。


 白皙の肌。腰までの伸びる、艶やかで癖のない金髪。透明感のある青い瞳。華奢すぎるラインにすらりとした長い手足。小さすぎる顔。妖精王に愛されたかのような、人間離れした美貌。


 ベラルーシのエフゲーニャ・リピンツカヤ。マスコミがつけたあだ名はとてつもなく失礼なことに……火の女。可憐な容姿に反して、インタビューや発言の率直な激しさからだろうか。バックステージで日本のカメラが向いただけで、ひと睨みして「鬱陶しい」と呟いたのは有名な話だ。私はその意見に対しては同意しかないのだが、彼女の場合は時として、他の選手や採点に行くこともしばしばあった。


 私は今回のジャッジには不満を感じています、とか、そんなにジャンプが得意なら高跳びの選手にでもなればいいのに、とか。……ちなみに後者の発言は私に対してのものだ。2015年の世界ジュニアで、順位が私の下にいった時に、ぽろっと出てきた言葉だ。当時私は殆ど無名だったので、よっぽど悔しかったのだろう。


 そんな大層失礼な言葉を頂いてしまったが、私自身、リピンツカヤに対して悪感情は持っていない。柔軟性と滑らかなスケーティングが融合した彼女の演技は素晴らしいし、私は今以上にジャンプだけの選手だった。

 なので……


「こんにちわ」


 目があったので、英語で簡単に挨拶してみる。返事は何も来なかった。リピンツカヤは私のロッカーがある別の列のロッカーを開ける。試合前に余計な話をかけて欲しくなかったのかもしれない。挨拶ぐらい普通だと思うんだけど……。

 ……まぁ、いいけど。


 30人の出場選手中、第4グループの最終滑走になった。エフゲーニャ・リピンツカヤが最終組の四番滑走。

 ほかにめぼしい選手は、ロシアから2名。エカテリーナ・ヴォロノワとアデリーナ・ステパノワだろうか。現在ロシアの女子シングルは、エレーナ・マカロワという世界女王がいるが、ここ1、2年でロシアの女子選手が台頭してきている。ヴォロノワはジャンプのポテンシャルが高く、近くトリプルアクセルを飛ぶのでは? と噂されている。それから中国の李蘇芳。彼女は今年私と同じくシニアに上がった。


 ーー現在、第2グループの四番滑走の選手が滑っているところだろう。私はロビーにヨガマットを敷いてストレッチをしていた。少しずつ、少しずつ心臓を打つ音が速くなっているのがわかる。ガチガチで何も考えられないほどじゃないけど、余裕という余裕はない。


「そんなに神経質にならないで。ジュニアでもシニアでも、試合は試合。同じなんだから」


 ……今回、帯同するのは父ではなく、母だ。父は他の受け持ちの選手が別の大会に出場するため、そちらに帯同している。


 滅多に表情を崩さない父がいるのと、菩薩のように微笑む母がいるのではちょっと違う。そういう環境の違いが、緊張を増長させているのかもしれない。ただそれを母に伝えるのも嫌なので、別の言葉ではぐらかす。 


「滑り慣れない氷だからさ。なんか気持ちが悪くって」


 これも事実ではあるし。慣れない氷でうまく滑れない、なんて言い訳はしたくない。でも、氷に合う、合わないがあるのも事実だからだ。


 スケートリンクの氷にも、固い、柔らかいが存在する。気温が上昇すれば、氷が柔らかくなり、スピードやジャンプの高さが出にくくなる。最終組の最終滑走で滑る場合、会場の熱気でだいぶ柔らかくなっている、なんてこともあるのだ。


「たしかにここは滑りすぎるわよね。私もここでパートナーの足を蹴ったことあるわ」

 うんうんと頷きながら母が返す。……ストレッチで伸ばしていた足が止まった。予想しない答えだったから。


「母さん、ここで滑ったことあるの?」

「あるわよ」


 さらっと言われた。……母が国際大会に出たという話は、少しだけ聞いたことがある。まさかこの大会にも出場経験があるとは思わなかった。


「今もだけど、昔はアイスダンスは層が薄かったから。結構簡単に国際大会に出させくれたのよ。結果は聞かないでね。ネーベルホルンも出場したことあるわ。氷の質は昔から変わらない。すっごい綺麗な氷よね」

「うん……。なんかスピード出過ぎちゃうんだけど。なんでだろ」


 昨日の練習で、ここの氷の滑りやすさは十分にわかった。問題はいつものように滑ると、スピードが出過ぎてしまってジャンプのタイミングがずれてしまう事だ。昨日の練習でも、何度か危ないシーンがあった。 


「ああそれはね。ここの氷は純水で作られているからよ」

「じゅんすい?」


 ……平仮名に開いたかのような発音で、鸚鵡返しに尋ねる。


「要するに不純物がないの。滑りを邪魔するものがないって言えばいいかな。日本の氷は、水そのものに残留塩素とかミネラルとか入っているから、ちょっと白いのよね」

「知らなかった……」

「でもこんな、天然の水で滑れる機会なんてあんまりないから。楽しんで滑ってらっしゃいな」


 鏡のように透明な氷を思い出す。自分の拙い滑りで、傷を付けるみたいで怖い。滑らなければそのままだから。怖いけど……。


「さあ、もうすこし体を温めましょ」


 ーー怖いからって、必要以上に恐れる意味はない。

 ヨガマットから身を起こしてランニングを始める。少しだけ、心臓の鼓動が遅くなった。

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