序その2 彼と彼女と彼らの事情 【鮎川哲也の場合】

 曇天だが、幸いなことに今日は雪も降っていなければ路地も凍っていなかった。


 会場では今女子シングル最終組の6分練習だろうか。今回の2017年世界選手権は、女子シングルのフリーを行った後、男子シングルのフリーが行われる。アイスダンスもペアも結果が出ているので、男子シングルフリーが全日程の最後だ。女子の最終滑走は……。余計な思いを振り払う。

 会場入りにはまだ早い。今の自分に、試合前に別の競技を見られるような余裕はないので、フリー前の公式練習が終わった後一旦ホテルに戻った。一休みして、それでも落ち着かないのでホテルの中庭でiPodに入れたフリーの曲を聴きながらイメージトレーニングをしている。


 フランツ・リストの思い出のために。冒頭にはそんな言葉が入る、サン=サーンスが心血注いで作曲した傑作。パイプオルガンが入ったこの曲は、交響曲なだけあって音の広がりが豊かだ。静かに始まる序奏部。循環主題はグレゴリオ聖歌の『ディエス・イレ』と音形が一致している。

 イヤホンを付けたまま垂直飛びを行い、四回転のイメージトレーニングをする。ループはキレよく飛び、サルコウはワンテンポ遅れるイメージで飛ぶ。

 四回転をプログラムに組み込み始めたのは前シーズンから。その時はサルコウ一種類だけだった。本当はトウループを覚えた方がいいのは分かっているけど、どうも俺は単独で飛ぶトウループジャンプが苦手だった。


『クワドで必要なのってさ、筋肉と体幹ももちろん大事なんだけど、俺が思うに体の中のリズムとイメージなんだよね。リズムのない人がクワドを飛ぶのって無理なんだよ』


 これは四回転サルコウが得意だった俺の師匠、ソルトレイクシティ五輪代表の堤昌親先生の言葉だ。


 時代は空前の四回転時代だ。2014年ソチ五輪の時は「四回転トウループ、もしくは四回転サルコウを1回入れるか、もしくは2回入れるか」の勝負で、その勝負の頂に立ったのが現在の日本のエース、菅原出雲だったのは記憶に新しい。


 ソチ五輪から早3年経ち――男子シングルの流れは大きく変わった。


 四回転を「トウループかサルコウを、一回飛ぶか二回飛ぶか」ではなく、四回転を「何種類飛び、何回飛ぶか」の時代になってきたのだ。

 2015年まで、フリーで四回転を3回入れる選手はそれまでの男子シングルの歴史の中でも両手あれば足りた。菅原出雲が世界最高得点をマークした時も、3回入れたプログラムだった。

 2017年現在では3回クワドを飛んで表彰台争いに絡めるかの土俵にやっと立てるのだ。

 その中心に間違いなくいるのが――


「テツヤ」


 ソプラノとアルトの中間の声は横から届いた。イヤホンをしていても意外に人の声は聞き取れる。

 耳からイヤホンを外し、練習をやめる。横には予想通りの人物が立っていた。金髪のボブカットに、男子選手としては小柄な165cm。シニアに上がってから、少しずつ彼も背丈が伸びているようだ、

 ――現在の四回転時代の象徴ともいえる存在の一人。ロシアチャンピオン。ヨーロッパ選手権2連覇中。前年世界選手権は銀メダル。

 若干16歳の氷の化身。


「アンドレイ」


 愛称ではなくそのままの名前で呼んだ俺に、アンドレイ・ヴォルコフは緩やかに首を振る。

「ルーティカ、だよ。テツヤ」


 俺と氷の化身との関係は、シニアに上がってから少し変化した。少なくとも、ジュニアの頃の俺に名前で呼び合う仲になると言っても信じられなかっただろう。


「わかったわかった。……一体どうしたんだ」

「テツヤを探してた」


 フィギュアスケートの世界の共通言語はやはり英語だ。俺もアンドレイ――ルーティカも国際大会を通じて英語が達者になり、それなりに意思の疎通ができるようになった。

 そんな彼は、英語でさらりと返答に困ることをのたまう。ジュニア時代と変わらない瞳、変わらない美貌がそこにある。ソプラノとアルトの中間のような独特の声もそのままだ。


 唯一変わったのは氷の上における実力だけだ。


「アレーナがマスコミさんもうるさいし、落ち着かないなら外に行ってきなさいって。それにぼくは、君がいないとつまらない」


 氷から降りると結構子どもっぽい。そんな彼が、ロシアの第一エースであり、堂々たるSP1位通過の選手だ。


 くじ引きの結果、SP6位の俺は最終グループ4番滑走。その後に、SP5位の日本の菅原出雲。最終滑走にロシアのアンドレイ・ヴォルコフと続く。菅原さんは俺と同じくショートが苦手だ。ちなみに一番滑走が中国のクワドマスター、前回大会3位にしてSP2位のチャン・ロン。2番滑走がSP4位のアメリカのジェイミー・アーランドソン。 3番滑走がSP3位のフランスのベテラン、世界選手権優勝経験のあるフィリップ・ミルナー。


 ……俺と一緒に世界ジュニアに出場した選手は、今シーズンそこそこ苦戦をしている。カナダのアーサーはクワドを転倒してSP11位と大きく出遅れたし、ドイツのシューバッハもノーミスのわりに点が伸びなかった。四回転とセカンドマークのバランスに苦しんでいるのだ。


 4分半のフリープログラムの時間内でやらなければならないことは多い。魅力的なプログラムを魅力的に滑り、かつ四回転を複数種類・複数を回転不足なく完璧に飛び、スピンステップでもレベルを取り、わざと技のつなぎも密なものにしなければならない。


 今シニアのトップグループで戦えるのは、その条件をすべてクリアした猛者たちだ。


 SP6位スタートは自分でも悪くないと思っていた。無難に滑れば、メダルは無理でも入賞はできるだろう。来年の平昌五輪の出場枠「3」の可能性も限りなく近いものになる。

 再びイヤホンを付けながら息を吐き出す。


 ――俺は今季、一回もフリーを満足に滑れていない。滑りこんでも、曲が体に染みている気がしない。自分の滑りが、曲を思うように描けているような気がしないのだ。俺がそう思っていることはジャッジも感じているらしく、PCSにも微妙に影響している。


 俺の未熟さといえばそれまでなのだろうけれど。


 どうやったらこの曲が振り向いてくれるのか。もし曲が理解しきれなくても、演技が始まるぎりぎりまで理解する努力だけは忘れたくない。

 正直、ルーティカの相手をしている余裕はなかった。残り僅かな時間も聞き込みにあてて――


 すぽっとイヤホンが取れた。


「だからテツヤ。今からミーシャの演技を見に行こう」


 イヤホンのコードを持っているのはルーティカだ。

「はっ?」

 鳶色の瞳が俺を見上げてくる。


「君はミーシャの心配をいつもしている。ぼくもミーシャは友達だから、今のミーシャが少し気になる」


 このロシアのエースは、星崎雅のことをミーシャと呼ぶ。ミーシャって男性名ミハイルの愛称ではなかっただろうか。前にそう尋ねたら「ミーシャは男らしい。それにミーシャにエスコートしてもらったことあるから」とぼんやり答えた。……よくわからない理屈だ。


 思い出される昨日の女子ショート。雅はハートウォールアリーナに集まりし星条旗を掲げた偉大なる市民から大ブーイングを浴びせられていた。

 滑り出す前は遠目から見ても顔が真っ青だった。それでも見た目ノーミスでSP4位に食いつけたのは、驚くべきか。それともリンクサイドに一緒にいた堤先生の功績か。……俺の師匠は、肝心なところで妙な発言をする悪癖がある。

 SPを無事に滑り切ったとはいえ、フリーは最終組の最終滑走。その直前の5番滑走が、アメリカのジョアンナ・クローン――一連の出来事の口火を切った人物だ。

 ……不安や心配がないのか、と聞かれればそれは嘘だ。今回の出来事の大まかな流れは把握しているけれど、全米メディアが何故雅を悪役に仕立てたのかわからない。それなのに雅は、全米からの悪意を再び一心に浴びて滑らなければならないのだ。しかし……。


 不安よりも、彼女に少し期待している自分がいる。彼女なら、あの悪意の中で完璧な演技ができるのではないかと。その為のプログラムは新しく用意してあった。

 プログラムの内容を知っているのは4人だけ。俺。星崎先生。星崎先生の奥さんの涼子先生。そして、堤先生だ。


 彼女に対する期待に負けて頷く。

 ルーティカは少しだけ口角をあげた。嬉しい時、彼はこんな顔をする。

「じゃあ行こう」

 するりと踵を返した彼の背を慌てて追いかける。

 iPodの曲をひとまず停止させる。

 プログラムに対する自分の滑りが今から劇的に変わる、なんてことはきっとない。だからこれから滑るフリーも、曲と振り付けに対して誠実に滑るだけだ。



 ……このヘルシンキの世界選手権が終われば、次は平昌五輪シーズンへと突入する。あまりにもハードなシーズンだったが、平昌シーズンは多分もっとハードだ。


 シーズンで残された時間が僅かな中、俺は友であり最強のライバルと共に、幼馴染の演技を見に会場に向かった。

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