序その1 彼と彼女と彼らの事情 【星崎雅の場合】

 ――場所はフィンランドの首都ヘルシンキ。


 三月に入ってもなんのその。春らしい鮮やかな色彩は訪れてはいない。北欧は初めてじゃないけれど、この寒さは慣れないものだ。


 この2016‐2017シーズンに、私、星崎雅はジュニアからシニアに移行した。去年の世界ジュニア3位が評価されてのシニア入りだった。

 成績だけ見たら、GPシリーズは2戦連続表彰台。グランプリファイナルにこそ行けなかったけれど、全日本選手権3位。四大陸選手権2位と、表彰台から転がり落ちていないのだ。びっくりなことに。


 そして、今。初めてのシニアの世界選手権。平昌五輪前、最後のビックゲームだ。

 だが、そんな大事な試合で私を待ち受けていたのは――


「……拍手とまざって、アバズレとかイエローモンキーとか、そういうのも聞こえてくるんだけど」

「少なくとも僕は、他はいいとしてもイエローモンキーはいただけないな」

「アバズレは許容範囲なんだ、父さん的に。娘がそう言われてるってのに」

「人種差別的用語よりは確かにマシだろう」

「……それはそうかもしれないけどさ」


 ――まさかの全米からの大バッシング。


 氷上に乗ると、スクリーンにその様子が映し出される。私の姿を確認した一部の観客が、ブーイングを投げつけてきた。聞くに堪えない性差別用語もどうかと思うけど、わざわざ北欧くんだり――いや、例えばジョアンナ・クローンをはじめとする自国選手の応援もあるのだろうが――他国の選手のバッシングを行うなんて、凄いエネルギーだ。そこまで私のことを考えちゃってくれているのだろうか。


 同時にこうも思う。このワールドが、北米で開催される大会ではなくてよかった、と。……ヨーロッパで開催されていたから、この程度で済んでいるのだろう。もし開催地がアメリカだったら、放送禁止用語の大合唱だったに違いない。クソ女ぐらい言われていたかもしれない。そんな中で滑るなんて、死んでも嫌だ。


「その割に落ち着いているな。慣れたのか?」


 ショートの時の私は大変だったぞ。父さんは忘れたのか。堤先生がいなかったら、私は一体どうなっていたか。


 ……一か月半前に起こった出来事。それが引き金になって、遠く離れたアメリカから批判の嵐が届いた。


 確かに私は、彼女が苦手だ。彼女だって私が苦手なのではないだろうか。だけど、だからといって彼女が私の演技に対してあんなことを言うのは違うと思うし、場外であんなことをしてくるのだって理に反している。


 だが実際に、それが原因で彼女は褒めたたえられるべきヒロインに成り上がり、私はスポーツマンシップにも欠ける卑劣なアスリートに仕立て上げられたのだ。


 太平洋を渡って届いた記事は、確かに私を落ち込ませたし、断崖絶壁にまで追い詰められた気分になった。それを無自覚に盛り上げ煽りまくる日本のマスコミもどうかと思うけど。

 今だって決して慣れたわけではないのだ。


「だって悪役になった覚えもないし、なるつもりもないから」


 私をヒールに仕立てたいのは私の都合じゃない。私は、私の信念に基づいて競技を行ってきただけだ。やましいところなんて何もない。

 紫づくしの衣装。髪型も、このプログラムの為に変えてみた。だから紫色に染髪。さすがにマスクとマントは減点になるからつけられないけれど。恰好だけはアメコミ映画の最強無敵のヒロインに近づいている筈だ。無茶な要望に応えてくれた堤先生――てっちゃんのコーチにして私の兄弟子――には感謝しかない。まさかこんなプログラムを用意してくるとは思わなかったけど。


 現在順位は、ディフェンディングチャンピオンのロシアのエレーナ・マカロワがSP・フリーともに歴代最高得点を記録してトップ。次がフランスのエース、2年連続ヨーロッパチャンピオンのマリーアンヌ・ディデュエール。3位が全米女王ジョアンナ・クローン。4位に四大陸選手権優勝の日本の安川杏奈。5位カナダのベテラン、ステイシー・マクレア。6位にロシアのエカテリーナ・ヴォロノワ。19歳の彼女は今季トリプルアクセルを成功させて話題になった。7位スウェーデンのエンターティナー、レベッカ・ジョンソンと……現在の順位はこんな感じだ。


 ――私の名前がコールされる。SP4位で迎えるフリースケーティング。ある意味で逃げ場はない。私は最終グループ最終滑走。24人中24番目。つまり、女子シングルのトリを飾る。


 もしここで結果が出なかったら、ここで大きな失敗をしたら。……否。

 その暗い想像を鼻で笑う。


「全世界に見せてくる。私が一体どれほどのスケーターなのかね」


 ……今はそんなことは考えない。自分を鼓舞させる為に、父に言った。言ってやった、という方が適切な表現だ。

 スタート位置について口元を歪ませる。歯は見せずに、これからとんでもないことをするのではないか、とジャッジに思わせるように。


 見る側に悪寒を走らせるような不敵な笑み。


 私がこれから戦うものは、私が悪にならないことを認めてはくれない。だから私は、私を悪に仕立てる巨大なものとの戦闘を余儀なくされた。

 しかし。


 ――ヒットガールは自らの信念の為に戦うのだ。


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