18.はじまりの始まり ――2015年3月8日 その8
フリーに進んだ24人の女子選手中、最後の最後に登場したディデュエールの演技は、これまで見たすべての選手の演技をかすませるほどの輝きを持っていた。勿論、レベッカもジョアンナも……そして雅も、いい演技をした。
だがディデュエールの演技は。そこから一線を画していた。ヴォルコフの神の演技とはまた違った迫力があった。
今は女子シングルの表彰式中が行われている。ゴールドメダルをかけたディデュエールは比喩ではなく号泣している。左隣にいるジョアンナがちょっと引くほどに。
そして右隣の杏奈は控えめにブロンズのメダルを下げている。
杏奈は気の毒だった。タラレバはスポーツにおいては厳禁だが、中盤のジャンプのミスがすべてを変えた気がする。ただ、去年、ミスってズルズルと引きずった自分を思い出し、終盤に立て直した杏奈は素直に凄いと思う。
駆け出した雅は、杏奈のところに行ったのだろうか。下手な慰めなんて出来ないやつだから、多分問題はないだろうけど。
「いやー、いい大会だった。見ごたえがあったなー」
右隣に座る堤先生が率直な感想を口にする。
確かに凄い大会だった。フリーに進んだ24人のうち、20人は3回転+3回転のコンビネーションを常備していた。ビールマンは当たり前。スピンもオールレベル4の選手が多いだろう。ステップに関しても、レベッカやディデュエールは最高評価をもらえているんじゃないだろうか。
ここまでレベルの高い大会は初めてなのではないか。
ただし……。
*
表彰式もたけなわな頃、観客席から先生とバックステージに出た。すると思いがけない人物を目にした。
アレーナ・チャイコフスカヤの迫力満点の顔と……アレーナの半分以下ほどに見える体積の男子シングルの金メダリストがいる。
そういえば、氷上ですれ違ったり、写真や映像越しに見たりはしたが、間近でじっくり見るのは初めてだ。改めて彼の姿を見ると、雅の言う、人間離れという単語が確かに的を射ていることが分かる。
ヴォルコフは髪の長い、日本人記者と思われる人物のインタビューを受けているところだった。英語でのやりとりで、隣のチャイコフスカヤコーチが通訳の役割を果たしている。終わりが近かったようで、その日本人記者は簡単なロシア語で挨拶をして、すぐに去っていった。
痛む足を労わりながら不器用に動かして、何事もなくすれ違おうとしたが――
「テツヤ・アイカワ」
ソプラノとアルトの中間の、独特の声に呼び止められる。
隔絶された向こう側から聞こえてくるようにも、恐ろしく舌足らずなようにも聞こえる。声の主は――氷の化身。
アンドレイ・ヴォルコフが静かに近づいてきた。
彼と俺では、俺の方が背が高い。彼は下から俺を見上げる形になる。ヴォルコフの口が小さく、それでいてすばやく動いた。
「ええっと」
流石にたじろぐ。
ネイティブなロシア語。俺も反応に困る。……ロシア語で話しかけられても、何もわからない。せめて英語で……。
「君の演技、リンクサイドで見ていた。素晴らしかった。だってさ」
……思わず、ヴォルコフのハシバミ色の瞳を見返した。
興味がなさそうにぼんやりしているように見える。だが、嘘を言っているようにも見えない。まさか先生が誤訳して……って。
「先生、ロシア語出来たんですか?」
「言ったことなかったっけ?」
今日は先生に驚かされてばかりだ。ロシア語って確か、日本語の次ぐらいに難しい言語ではなかっただろうか。
再びヴォルコフが言葉を紡ぐ。堤先生の通訳越しに、その意味を知る。
「来季、シニアの試合で会うのが楽しみだ」
それだけ言い残して踵を返した。少し離れたところで細い背中を待っていたチャイコフスカヤコーチを伴って去っていく。
彼らの様子は、師弟関係を超えた何かに見えた。子供といってもまったく差支えの無い少年に、太めの初老のコーチは笑顔を浮かべて労りの仕草を見せている。どこかの国の王子を赤子から育て上げた乳母のようだ。
名匠アレーナ・チャイコフスカヤ。数々の世界王者、五輪王者を育てた彼女が手塩に掛けて指導する天才児。今大会でも別次元の演技を披露した。
余りにも完璧な彼の滑りは、みずからの技術に対するコンプレックスと闘争心に火をつけさせる。そんな彼にそんなことを言われるのは、何よりも意外だ。他人の演技なんて興味も欠片もないように見えるし、見ていたとしても心にも留めない気がしていた。
思わぬところから意外さと――それよりも大きい嬉しさが沸き上がる。
しかし……。
「来季、か」
彼にとって、もうこの試合は過去のものになっている。確かに彼の実力を鑑みると、来年はジュニアカテゴリーにいる必要もない。言葉通りシニアに上がるのだろう。
今季の俺はルッツの矯正やら怪我やら、結局は目の前の課題をこなすのがやっとだったような気がする。今までも、このシーズンの後のことなんて考えていなかった。
「そうだねー! 来季の事をもう考えなきゃいけないねー!」
「うわ!」
ぬっと堤先生が俺の真横に顔を出す。……この人のやることは、本当に、心臓に悪い。
「君の実力と実績を見れば、来年ジュニアに残る必要なんてないでしょ。高校生になるし、来年はシニアに上がって、上位選手の首を取りにいくよ」
結構苦しい体勢のまま会話を続ける。苦しいって主に、首のあたりが。苦しいのは百歩譲っていいのだが、どちらかというとハズい。
「さらっと言いますけど、現状的にかなり難しいですよ」
「それぐらいでひるむような君じゃないでしょ。大体、宇宙人の背中は怪我をしようが素っ裸で躊躇わずに追いかける癖に、エベレストの山脈を重装備で登り切るのは無理だっていうのかい」
「……変なたとえですね」
「詩的なたとえと言ってくれたまえ」
はたから見ると奇妙な格好のまま、考えてみる。
シニアに上がるとしたら来季、何が必要になるか。まずは体力だ。4分半滑り切る体力。ジュニアよりも30秒長くなるしステップも一つ多くなる。
それから必要なのは4回転。今回、優勝したヴォルコフのみ飛んでいたジャンプは、シニアの世界では当たり前だ。このジャンプを身に着け、なおかつシニアでも通用するような滑りをしなければならない。
ジュニアでクリアした課題。そして、シニアでこなさなければならない条件。シニアで通用するための課題。
あらゆる課題を考えると……。
「そうですね。来年はシニアに上がりましょう」
俺を含めたこの大会に出場した選手が、今後どうなるかはわからない。
この大会でハイレベルな試合を見せた女子選手も、誰もがシニアの階段を着実に駆け上がれるわけではない。トップ選手に食い込めるか。苦戦を強いられるのか。それとも早々に辞めてしまうのか。怪我をせずに競技生活が続けられるのか。
結局はすべてこれからなのだ。
だから俺はもう、ジュニアにいる必要はない。
俺の返答は先生を満足させるにたるものだったらしい。つむじのあたりを手のひらでぽんぽんとたたかれる。横でしまりのない笑顔を作っているに違いない。
「いやー、わくわくするねー。シニアに上がった後のことを考えると。君はもっと強くなれるし、君よりももっと凄い選手がいっぱいいる。覚えることが多くなれば、出来ることも多くなる。表現の幅も増える。スゲー楽しいよ。だから、今日はもう試合が終わったから、星崎先生や雅ちゃんや杏奈ちゃんも誘って、うまい飯でも食いに行こう。門田先生も来るかな。俺が奢っちゃうわ」
「……絶対に酒、飲まないでくださいよ。それから先生、言いたいことがあるんですが」
「何だい。改まって」
「顎、重いんですけど。どけてください」
それは失礼と言って先生は、俺の左肩に乗せた顎をひっこめた。
「堤先生! 助けてください!」
そんな俺と先生の元に、慌て切った雅が駆けてきた。
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