17.少女たちの饗宴【星崎雅の視点】  ――2015年3月8日 その7【後編】

 ピアノのイントロ部分からしっとりと始まる。俯いて、歩くように進み――イディナ・メンゼルの歌が入る。


 長くて深いストロークを何度か繰り返して、短めの助走からの3回転フリップ+3回転トウループ。

 流れ。着氷。そして高さの全てが合わさった完璧な3回転+3回転のコンボだ。フリップはキッチリとインサイドエッジで飛んでいる。……私みたいに開き直ってアウトサイドで飛んでるフリップとは大違いだ。


 豪速だけど、この音楽にのって感じるマリーアンヌのスケートの印象は、深さだ。エッジ的な深さしかり。旋律とのシンクロ率の深さしかり。

 本当に、たった一人で氷の世界にいるかのような深さがある。


 ここを見ると、私はマリーアンヌ・ディデュエールとは本当はどんな女の子なんだろうと考えてしまう。私が知る限り、氷上での彼女はミスもなく、常に堂々と滑っていて、「私を見てほしい!」というしっかりとした目的意識さえも見える。


 だけどここのシーンは、完璧な3回転+3回転を決めていても自信がなさそうで、俯いている顔が妙にしっくりくるのだ。それが彼女の演技力がなせる業なのだとしたら凄いのだが。


 だがそこで少しずつ開き直って――単独の3回転ルッツ。


 ――二つのスピンは1回目のサビだ。サビの入りと共にフライングキャメル。足替えのシットスピン。

 スピンは粉雪の魔法だ。全身から雪が霧散するように。二つのスピンの後、優しく手首を返す。これが三つ目の魔法。


 ……返した指先に現れたのは、おじさん声の雪だるまかも。


 1回目のサビを終えて、ジャンプを決めていく。3回転サルコウ+2回転トウループ+2回転ループ。ダブルアクセル。……失敗する要素がどこにも見当たらない。そして、大柄な彼女は一つ一つのジャンプが非常に栄える。この見栄えだけでかなりの加点がもらえるんじゃなかろうか。


 俯いていた顔が前を向き始める。3つのジャンプを終えて、つなぎの要素の長いスパイラル。Sの字を豪速で描いていく。昔の既定要素のように、3つのポジションを目まぐるしく変える。最初はフォアでのアラベスク。体の向きと足を切り替えて後ろ向きでY字。

 そして最後は持ち手なしの後ろ向きY字ポジション。高く上がった右足は、自らの脚力のみで支えている。スピードは変わらない。この技術は本当にぞくりとする。一見地味かもしれないが、真似をしてみろ、と言われても絶対できない。支え手なしでフリーレッグを維持するのは、氷上どころか陸上でも難しい。簡単にバランスが崩れてしまう。


 フリーレッグは右足。滑っているのは左足。スパイラルを降りた雪の女王はその足でステップ。モホーク、スリーターン、カウンターをすべて左足で踏んで、二回目のサビの始まりと共に左足アウトエッジに体重をかけ――3回転ルッツ――だけではない!


「トリプル!」


 ここ一番の盛り上がりと共に、3回転ルッツ+3回転ループのコンビネーション。これまでだと単独の3回転ルッツだった。

 スパイラルの第2ポジションから3回転ループの着氷まで、すべてが左足だった。――一体どんな魔法を使えばこんなことできるのか!


 巨大な力を持った女王が、ストレートラインでステップを踏んで氷雪の城を作り上げていく。その力はあまりにも巨大だった。今まで溜め込んできたすべてを発散しているみたいだ。幾何学模様を描く繊細な雪の結晶のように。美しく咲いた氷の花のように。空に向かって伸びる階段を軽やかに上るように、左右のエッジが交互にエグいトレースを描いていく。深くエッジを押しても決して倒れないボディバランス。すぐに別のターンに切り替えられる繊細なエッジワーク。それらと上半身の動きが滑らかに融合していく。


 ヴォーカルの力強さに、ディデュエールのスケートが決して負けていない。


 巨大なステップに巻き込まれるかのように手拍子が沸き上がる。それを率先して行ったのは――


「レベッカ?」


 階段の踊り場から観戦していたレベッカだ。彼女が発信源となり、どんどんと電波していく。手拍子という熱量が、ディデュエールのスケートをより一層後押ししていく。

 マリーアンヌがこれで完璧に滑れば、レベッカは4位に落ちる。だけどレベッカの顔には、不安も焦燥もなかった。ただ笑顔で、ディデュエールの滑りに惜しみない称賛を送っている。心の底から、雪の女王の演技を楽しんでいた。


 本当に凄いものは理屈じゃない。

 その場の状況や各々の選手の出来不出来を越えて訴える力を持っている。


 ステップを終えた雪の女王がバレエジャンプを飛び、単独の3回転フリップ!

 よく出来たフランス人形のような美貌から笑顔がこぼれ出る。


 その直後、信じられないことが起こった。ルール上は大丈夫。前代未聞ではないけれど、堂々と行う選手もいないだろう。


「嘘」


 繰り返しの、3回目のサビ。

 隣に座るてっちゃんも、堤先生も目を丸くさせているかもしれない。雪の女王の衣装が――文字通り変わっていたのだ。


 紺色のベルベットから、透明度のある水色のサテンドレスに。ふんだんに散りばめられたクリスタルが、滑って角度が変わるたびにきらきらと乱反射して雪の女王のスケートの美しさを際立たせる。衣装の一部が落ちてしまったら減点になるけど、氷の上にそれらしき布やスパンコールは見当たらない。


 完璧なイリュージョン。


 現実と虚構が入り混じっている。氷の上で滑っているのは、マリーアンヌ=ディデュエールという豊かな才能を持った女子アスリートだ。


 だけど本当は、映画の人物がすり替わって滑っているのではないか。雪の魔法を駆使してエッジを自由に動かしているのではないか。

 最後のジャンプはアウトサイドイーグルから直接のダブルアクセル。そしてレイバックスピンに移行する。レイバックから、チューリップの形のビールマンへ。


 高らかに。

 そして無自覚に。

 雪の女王は自らの最強を歌う。


 最後のスピンを解いた瞬間――

 ――いくつもの雪の結晶が編み込まれた、美しくも巨大な氷の城が完成した。


 *


 演技が終わり、優勝候補にして最終滑走のディデュエールが顔を覆って氷に膝をつく。プレッシャーもすごかったのだろう。青い瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。


「うーん、すごかったねえ」


 のんきそうな堤先生の口調。それしか言う言葉が見当たらないというのが本音なのだろうか。

 私は立ち上がって雪の女王に拍手を送る。すべての状況を鑑みずとも、立ち上がらざるを得ない。今シーズン、表彰台の真ん中に立ち続けてきたディデュエールの神髄を見た気がした。完璧で――他を寄せ付けないほどの圧倒的な技術と美しさ。


 ……キス&クライから杏奈が立ち上がり、入れ替わりにディデュエールが座る。その位置は、点数を待つためだけではなく、ある意味最高の演技を見るための特等席だ。

 だけどその席は、今の杏奈にとって地獄だったのかもしれない。


 徹底した無表情で杏奈がバックステージに引き上げていく。


 ――それが出るのは時間がかからなかった。最終結果を知らせる電光掲示板。銅メダルは日本の安川杏奈。銀メダルはアメリカのジョアンナ・クローン。

 金メダルはフランスのマリーアンヌ・ディデュエール。


 金メダリストは史上初――女子シングルジュニア選手での、200点越えだった。


 *


 歓声が沸き上がり、スクリーンは涙を流すディデュエールを映し出す。

 私はすぐに席を立ち、隣に座るてっちゃんを置いて駆け出した。階段を下りてバックステージへ。

 日本代表の黒いジャージを着た背中に、丁寧な編み込みをされた頭をすぐに見つける。


「杏奈!」


 私の声に気が付いた杏奈が俯いた顔を緩やかに上げる。


「雅」


……黒目勝ちの真っ黒い瞳がぽっかりと空虚を描いていた。誰にも見つからない機材の影で、一人で泣いていた。


「悔しい。あんなところで失敗したくなかった。せっかくここまでこれたのに」


 瞳から、ぼろぼろと涙が落ちてくる。涙のあとが、しっかりと顔に残ってしまう。ファンデーションが剥がれ落ちる。杏奈のもとに行きたくて来たけれど、こんな時になんて声をかければいいかわからない。大体、私は杏奈に何を言うつもりだったんだ?


「私も哲也君の演技を見て、すごいなって思って。雅がトリプルアクセル飛んだのを見て、すごくうれしくて。――私も頑張らないと。みんなが凄かったから私も完璧に滑らなきゃ。大丈夫。大丈夫。ここまで来たらきっと優勝できるかもしれないって」


 やらなければ。ミスなく滑らなければ。

 ――その想いが膨らんで膨らんで、杏奈の心を押しつぶした。


 スポーツは試合中だけじゃない。目標に向かって、ひたすら練習している時間のほうが試合よりも長い。それを目指して努力することこそがスポーツなのだとは思う。


 だけど結局、それまでの全てが表にでるのが演技中なのだ。どういった練習をしてきたか。試合の前日、ちゃんと眠れたか。体調は。今までの自分はどうだったか。何か不安なことを考えていないか。プレッシャーは感じていないか。その時の自分の精神状態、体調、練習の豊富さの有無がもろに現れる。


 演技の前はどんな些細なことにでも神経質になる。その中でやるべきことをやったものが真の強者になれる。


「杏奈」


 私は試合で始めてトリプルアクセルを飛んだという経験を得た。そして杏奈は、「優勝できるかもしれない」というプレッシャーの中、演技を行い、転倒したという経験を得た。

 これまでの練習。そして今回の試合は絶対に無駄じゃない。


「次。次だよ。誰よりも強くなって、また戻ってこよう」


 だから私は杏奈の手を握る。さっき、杏奈が私の手を握ってくれたように。慰めるなんて、それは懸命に滑った選手に対する冒涜だ。

私は杏奈の演技を絶対に否定しない。

 杏奈は顔を上げて涙を拭いた。ナチュラルに塗ったアイシャドウのラメが目の周りにまとわりついている。


「そうね。……次は、負けないわ」


 表情筋を駆使して、ぎこちない笑顔を作る。……ぎこちなくても、笑顔が生まれたのが嬉しかった。


「表彰式行ってくる。その前にテレビ局のインタビューね。表彰式は、雅、ちゃんと見ててね。そして、明日のエキシビションは笑顔で一緒に出て、そのあとはミッフィーちゃんの形のゴーダチーズを買いに行きましょう」


 笑顔を残して、杏奈は私にぴんと伸びた背中を向けた。顔を上げた杏奈は、真っすぐに次を見つめている。

 そう次だ。

 私たちは、これでもっと強くなれる。


 ……ん?


 さっき杏奈、一緒にエキシビションって言ってなかった? でも私は関係ないのでは? だって、エキシビションに出る順位になると思わなかったから、ショー用の曲持ってきてないし。

 改めて順位を頭で確認してみる。


1位、マリーアンヌ・ディデュエール。

 2位、ジョアンナ・クローン。

 3位、安川杏奈。

 4位、レベッカ・ジョンソン。

 5位……。5位!


「……やっば!」


 気が付いたひどい事実。それは、5位まに入賞した選手はエキシビションに出なくてはいけない。5位以内。……5位以内!


 走りたい衝動を抑えて、私は表彰式を見にリンクに向かう。ああ、杏奈の表彰式は見なきゃ。そのあと父さんと堤先生に相談して……。


 頭をフル回転させてどうするかを考える。辞退するとどうなるんだ? GPシリーズみたいに罰金になったりするのか?

 誰か教えて!


 *


 ――2015年世界ジュニアフィギュアスケート選手権女子シングル。星崎雅、最終結果。

 ショートプログラム8位。フリースケーティング5位。

 総合成績、第5位。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る