17.少女たちの饗宴【星崎雅の視点】 ――2015年3月8日 その7【前編】
「星崎雅ちゃんだっけ? 初めまして。私は安川杏奈。ほら、こっちおいで。こっち来た方が滑りやすいよ」
杏奈と初めて出会ったのは夏の合宿の時だ。私はその時小学4年生で、一つ年上の杏奈がとても大人びた綺麗な女の子に見えたものだ。初めての合宿で戸惑う私を、杏奈は手招きして私を空いている方に案内してくれた。
実際杏奈は、出会った時から容姿だけではなく滑りも綺麗だった。たとえば氷の上で円を描いてみても、全く力が入っていないで軽やかで、それでいて大きい。
そんな彼女の滑りに、私は素直に憧れた。身のこなしに品があって、あんな風に優雅に滑る女の子がいる。小学校5年生で、ほかに誰がショパンの「幻想即興曲」をぽろぽろと流れるように滑れるというのだろうか。私は思い切って、杏奈ちゃん綺麗、羨ましいと彼女に告げた。
「雅ちゃんだって凄いよ! どうやったらあんなジャンプ飛べるの?! すっごいかっこいい!」
かなわないなあと思った。私の発言を否定しないで、それでいて彼女は、彼女自身が感じた私のいいところを見てくれている。
そこから杏奈と私は友達になった。名古屋と横浜で遠いけど、今の時代はSNSもあればスカイプもある。杏奈はアジカンのほかにワンオクとNICSが好き。意外にロッカーだ。6月のアイスショーが終わった後ディズニーランドに行った。シンデレラよりもラプンツェルが好きで、でも一番好きなのは『ノートルダムの鐘』。「こんなの食べたら太っちゃうんだけど」と言いながらシロノワールは通用サイズでぺろっと食べる。
去年一足先にジュニアに上がり、その滑りはますます磨きがかかったように見える。
氷の上では尊敬するスケーター。氷を下りれば尊敬する親友。
大切な親友で、目標の女の子。
*
……目を疑った。
ベートーベンの悲愴ソナタは後半に差し掛かっている。
確かに顔は固かったけど、序盤のステップシークエンスよかった。安定した滑りで序奏を滑り切り――第一主題へ。
後半の入り、連続した4つのジャンプの最初。3回転+3回転のコンビネーション――それは3回転フリップ+3回転トウ――
ファーストのジャンプをふわっと飛び、次のジャンプのトウループをくっつけ――
――1コンマ。時間にしてみれば1秒満たない。その空中でのズレが生じた。軸が外に外れて――
誰かが息をのむ音がはっきりと聞こえた。今季ずっと着氷していた3回転+3回転のコンビネーションのセカンドのジャンプで、着氷を踏ん張り切れずに前のめりに転倒したのだ。
がつ! と膝と氷がぶつかり合った音を聞いた気がした。
止まっちゃ駄目、立って、と叫びそうになる。
誰だって転倒する。誰だって怪我をする。第三者が絶対に転倒をするな、怪我なんてするなって言うのはおかしい。絶対なんてありえない。
でも私にとって、杏奈が転倒した姿というのは、てっちゃんが怪我をしたまま滑るのと同じぐらい見たくないものだ。
一秒、二秒と音が氷の上の杏奈を置き去りにしていく。強く打った膝を気遣うように立ち上がり、次のジャンプのために助走する。いくつかのステップが省略され、長い助走の後の3回転ルッツはオーバーターンでの着氷。転倒しなかっただけでほとんどマイナスだ。
3回転ループ、3回転フリップとジャンプを重ねる。単独のジャンプをこなして、1楽章を象徴するような第二主題の旋律の中、スピン。
落ち着いて。大丈夫だから。
*
……それなりに大きい拍手に対して、演技を終えた杏奈が四方にお辞儀をする。
後半は中盤のミスを立て直した。転倒は前半のあれだけで、残りのジャンプはきっちり着氷した。2回目のセカンド3回転のコンビネーションのジャンプをループにしたり、2回目の単独ルッツで両手を上げたりと転倒のミスをリカバリーしていた。こういったとっさの判断が出来るのは本当に凄いとしか言いようがない。多分スピンはオールレベル4取れていると思う。
だけど転倒の後は、演技がどこか慎重になっていた感は否めない。スピード感のある展開部と最後は少し勢いが足りなかったような気がする。
「まぁ、スポーツなんだから、こういうこともあるさ」
飄々とした大人の声が、拍手をする私の耳に届いた。それが堤先生のものだと気付くのに時間がかかった。……この人の声、こんなに軽かったっけ? それとも、この軽さに理不尽な苛立ちを感じるだけ?
違う。杏奈の演技はこんなものじゃない。もっと綺麗で、スケールの大きい滑りを見せてくれるんだ。
そう叫びたくて仕方がなかった。
キス&クライに杏奈が座り、演技のリプライが映し出される。こういうリプライは、どうしてわざわざ転倒するところを選んで写すのだろうか。
表示された杏奈の点は辛いものだった。フリーだけなら現時点で2位。……総合順位はレベッカの上には立ったけれど、ジョアンナ・クローンの僅か下に行ってしまった。
受け入れがたい事実を、私は口の中にたまったつばと一緒に飲み込む。
スクリーンに暗い顔で何度も頷く杏奈の姿が映る。この演技ならこのぐらいの点で仕方がない、といった顔。
そして……最後の演技者の名前がコールされる。
今季ジュニア女子で無敵を誇った若きフランスのエースがあらわれた。
私から杏奈までほとんどの選手がクラシックを滑ってきたが、ディデュエールは違う。使用するのはディズニーの映画音楽だ。2014年に米アカデミー賞で長編アニメ賞を受賞し、日本でも大流行した「Let It go」をプログラムに使用する。
ディデュエールは映画に登場した雪の女王を演じる。日本での公開は去年の3月だったが、フランスでは4か月早い。そしてフランスでもこの映画はヒットしたはずだ。
……6分練習は見なかったからわからなかったが、衣装が、これまでの試合と違う。今までは、白をベースにした衣装だったはずだ。
今着ている衣装は紺色のベルベット生地で、品はいいけどどちらかというと地味だ。胸元にネックレスのようにちりばめられたスワロフスキーは、白い雪の結晶を象かたどっている。スカート丈は膝上二十センチとフィギュアスケートの衣装らしく短いけれど、パニエが入ったかのように膨らんで見えた。
黄金の髪はきっちりと編み込んでシニョンにまとめていた。
静謐にポーズをとる。
ここまで来たら最後まで見ないと。……見届けなければならない。
優勝候補筆頭。最終滑走のマリーアンヌ・ディデュエールが一体どんな演技をするのかと。
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