16.少女たちの饗宴【鮎川哲也の視点】 ――2015年3月8日 その6
15年世界ジュニアも大詰めに来ていた。
女子シングルの最終グループの滑走順は、スウェーデンのレベッカ・ジョンソンが一番滑走。その次にベラルーシのエフゲーニャ・リピンツカヤ。日本の安川杏奈は5番、最終滑走にフランスのマリーアンヌ・ディデュエール。
氷上では今、レベッカが愉快に滑っている。かなりいい出来だ。
曲はP.デュカスの交響詩『魔法使いの弟子』。
フランスの作曲家、P.デュカスは完璧主義者で、現在残っている彼の曲はわずか13曲。そのデュカスの、代表曲中の代表曲だ。
交響詩の内容はこうだ。ある高名な魔法使いが、弟子に自分の留守を任せた。弟子は水汲みの仕事を、箒に魔法をかけて自らの仕事の身代わりをさせる。だが弟子の魔法は未熟で、やがて床一面を水浸しにしてしまう。止めようにも魔法を止める方法を知らない弟子は、さらに事態を悪化させる。洪水のようになった時に魔法使いが帰ってきて、弟子を叱りつける。
レベッカの『魔法使いの弟子』は基本的にコミカルで、場面によっての役柄を完璧に演じ分けられていた。俺もシーズン通して何度か見ている。気さくな彼女に相当似合っているプログラムだ。
最初は魔法使い。次に魔法を使う弟子になり、今度は暴走し始める魔法。それによって慌てふためく弟子、歯止めのきかない洪水へと変わっていく。最後は魔法使いに戻り、魔法とぴたりと止めてフィニッシュ。……勢いとコミカルさが求められるプログラムに作ってあるため、スピードがなくなると魅力が半減してしまう。
今日のレベッカは完璧だ。スピードが落ちる事なく演技を実施してきている。最初の大技、3回転サルコウ+3回転トウループのコンボをきっちり決めると、あとは彼女の世界だった。持ち味の、キレと速度のあるスピンでひたすら魅せる。
演技は終盤に差し掛かってきている。
このプログラムの最大の見せ場は、終盤のステップシークエンスだ。大洪水を表現したステップシークエンスが、容赦なく氷上で展開されている。
……疲れを感じさせるどころか寧ろ勢いを増していた。ツイヅルを倍速で回っていたり、上半身の動きが派手になったり、ロッカーが2回連続から3回連続になっていたり。
このステップシークエンス一つとっても、彼女の基礎力がいかに高いか分かるのだからたまらない。
即興でステップやターンの数を増やしても、音と動きのズレが生じないのだ。それどころか増えたことによって、勢いを増したトランペットの主題と見事に調和し、彼女のエッジ使いの明瞭さが際立つ。どんなに滑っていてもターンやステップが不明瞭になることがない。彼女のステップは、見ていてとても勉強になる。
ノーミスで、思い切り滑りきったレベッカが四方にお辞儀をして引き上げた頃。
「てっちゃん」
演技を終え、ジャージに着替えた雅が隣に座った。演技の為に施していた化粧もすっかり落とされている。剥きたてのゆで卵みたいで、年相応になった肌がほっとしているように見えた。晴れやかな顔だ。……あれだけの演技ができた後だ。当たり前か。
「お疲れ。……ちょっと惜しかったな」
惜しいのは演技ではなく、現在の順位だ。
雅は現在2位だ。ショート7位で現在1位のジョアンナは抜かせなかった。
氷上では、次滑走のエフゲーニャ・リピンツカヤが体を慣らしていた。
キス&クライに座ったレベッカの顔がモニターに写された。彼女は隣に座る金髪の男性と談笑している。彼はコーチだ。ビョルン・アルカッセン。トリノ五輪スウェーデン代表。教え子がいい演技をしたので、彼も嬉しそうな顔をしている。
「見たかったなあ、このプロ大好きなんだもん」
誰ともなく雅が呟いた。
演技を見なくても、レベッカの満足そうな顔から悟ったことだった。……あれだけ滑れれば満足だろう。今日は、昨日みたいな細かいジャンプのミスもなかったし。7つのジャンプは全て回りきっていた。2回のセカンド3回転も。
総合得点では雅の上に行き……だが、アメリカのジョアンナ・クローンを抜かすことは出来なかった。暫定で2位。雅はここで3位に落ちる。残り4人のうちショートの1,2位が残っている。そう考えると、レベッカと雅の表彰台はきつくなった。
「点数知ってるしあんまり見ないようにしていたけど、やっぱりすごかった?」
「誰が」
「ジョアンナ・クローン。」
雅はただ疑問に思っただけだろう。自分の私情と相手の演技は無関係。そういう割り切りが出来るやつだ。……スケーターとして、どのぐらいすごい演技をしたのか知りたいだけなのだ。
アメリカのジョアンナ・クローン。一昨年の世界ジュニアで知り合い、今では顔を合わせればそこそこ長く話し込む。ディズニー映画から抜け出したような容姿。カラッとしたアメリカンガールの模範解答のような少女だ。
ジョアンナの滑りを思い出す。スポーティで、好感が持てる基本に忠実な滑り。3回転フリップ+3回転トウループ。3回転ルッツ+ハーフループ+3回転サルコウ。ジャンプはすべて完璧だった。完璧な形のビールマン。プログラムも面白く、悪戯好きの小僧が逃げ惑っているような楽しさがあった。
演技後の満足度は、レベッカの表情に匹敵する。そういえばプログラムの方向性も、コミカルという点で今回は似ている。ただ同じコミカルなものでも、ジョアンナのは悪戯好きのちょっかい、レベッカのは困り果てた末のユーモアという個性の違いはある。
雅がジョアンナのフリーをどこまで把握しているかは知らない。だが、少なくとも、会場にいて演技を見ていた人間なら、ジョアンナがレベッカを抜かしても文句は言わないだろう。レベッカが2回飛んだ3回転は、トウループとフリップ。そしてジョアンナが2回飛んだ3回転は、フリップとルッツ。ステップは明らかにレベッカの方が上だったが、実施したジャンプの難易度はジョアンナの方がランクが上だ。
「……うん。今日の彼女はすごかったな」
昨日ホテルの廊下で彼女とは話した。話題は世間話から嫌でも大会について移行する。その時のジョアンナは失敗したルッツに対してナーバスになっていた。演技自体も不本意な出来で、それもショックだったのだろう。……俺はルッツが苦手だから、彼女がナーバスになるのも理解できる。
昨日の失敗をきちんと克服してきたのだから、それだけでも称賛に値する。
俺の話を、雅は頷きながら聞いていた。
「別にいいや。誰が誰でもいい演技が出来たなら、それに越したことはないよね」
すべてを聞き終わった後、雅は晴れやかな顔で笑った。
点数が表示された後も、レベッカは笑顔のままだった。順位や点数よりも自分の演技に納得、と言ったところだろうか。
レベッカの演技以上に、ジョアンナの話よりも。俺にはどうにも気になることがあった。
「なぁ、雅」
「ん? 何?」
それを聞こうとして……思いっきり戸惑う。今の彼女は至って普通だ。普通の反応が返ってきたので、逆に俺が何も聞けなくなってしまう。
決して本人に言うつもりはないが、あの演技は、今まで見た雅の演技の中で一番……なんというか、かっこよかった。熱く燃え盛る炎とどこまでも遠くまで飛んでいけそうなほどの勢いが入り混じっていて、見ている側が炎にぐいぐい引き込まれていく。現在順位こそジョアンナとレベッカの下だが、技術面を差し引いても二人に負けないぐらい魅力的な滑りだった。
そして……。
あのトリプルアクセルの時、一瞬、俺は雅と目があったような気がする。
少なくとも、俺ははっきりと雅の目を見た。が……。
「いや、何でもない」
……やめよう。これじゃ俺が変に意識しているみたいじゃないか。
*
第二滑走、エフゲーニャ・リピンツカヤ。手足がすらっと長い、16歳のベラルーシ期待の新星。最近ベラルーシは世界レベルの選手――チャンピオンシップの試合でメダルが獲れる選手という意味での世界レベル――が、長らくいなかったため、久々にジュニアと言えどメダルの色が見えた彼女にかかる期待は大きい。ジュニアGPシリーズは2戦連続金メダル。ファイナルこそメダルを逃しているが、初出場した1月のヨーロッパ選手権では4位と健闘している。
ヨーロッパの選手では、シニアとジュニアを掛け持ちしている選手が多い。彼女もその一人だ。聞くところによると、3月末の世界選手権も出場するらしい。
……出場する大会が多い、というのも考えものだ。彼女は1月のヨーロッパ選手権の後、ドイツ開催の競技会、イタリア開催の競技会に参加と連戦した。そのうえでの世界ジュニアだったのだ。平日に練習し週末に大会に出る、というのをほぼ毎週続けた。
連戦の疲労が抜けていないからか、それともショート3位につけた緊張からか。リピンツカヤは出来が不本意なもので、総合順位はフリーで好演技をした雅の下になった。
柔軟性のある奇抜なポージングや軽やかなスピンは確かに見応えがあったが、今日はジャンプの調子がおかしかったようだ。転倒こそなかったものの、ステップアウトやオーバーターンが多かった。そのせいか、P.チャイコフスキーのバレエ音楽『白鳥の湖』が少し重そうに見えた。その割にPCSが稼げたのは流石というべきか。
青い瞳が電光掲示板の点数をひと睨みする。演技にも、そして現在の順位にも納得していない顔だ。レベッカやジョアンナはともかく、まさかほとんど無名の雅の下にまでくるとは思わなかったのかもしれない。華奢で、窓辺に座る儚げな美少女といった容姿のリピンツカヤだが、意外に気が強いことでも有名だった。
杏奈の出番は刻一刻と迫っていく。だんだんと雅の顔が険しくなっていった。
その後、三番滑走に中国の李蘇芳、四番滑走にロシアのニコル・スミルノワと続いた。李の曲はロシア民謡『黒い瞳』『赤いカチューシャ』『二つのギター』をつなげたメドレー。スミルノワはF.リストの『愛の夢』だ。意外にリストは、ロシア人になじみの深い作曲家だと聞いたことがある。
二人とも客席から見て、見た目はノーミスだ。だが、見た目のノーミスが必ずしも高点数に結びつくわけではない。李はジャンプこそダイナミックだったが、それ以外はレベッカを見た後だととりわけステップやスピンの幼さが目立つ。ロシアジュニア選手権優勝のスミルノワは、今回のフリーで2回飛んだルッツがもしかしたらエラー判定もらっているかもしれない。……このあたりはスコアシートが出ないとわからないが。
その他細かいところでレベルが取れていなかったり、ジャンプがアンダー判定をもらっているのかもしれない。
点数の差はわずかだが、残り二人を残した時点で雅は3位のままだ。
*
5番滑走、日本の安川杏奈が氷上に現れる。芽吹き始めた若葉のような爽やかな衣装。ドレス調で、背中が大きく開いている。胸のあたりを飾るのは幾何学模様に描いた、深緑のスパンコールと真珠だ。長い黒髪はサイドを編み込んで後ろにたらしている。
俺と同い年の彼女は、去年一緒にジュニアに上がり、去年の世界ジュニアにも出場し、その時は5位だった。……その一つ上の順位が、今回優勝候補のディデュエールだった。
曲はL.V.ベートーベンのピアノソナタ18番、第1楽章。別名『悲愴ソナタ』として有名。ベートーベンの初期を代表する超王道の名曲だが、フィギュアで使われることはあまりない。そして3楽章から成立するベートーベンの悲愴ソナタで、一番人気が高いのは2楽章だ。
ノービスの頃から杏奈がプログラムで好んできたのはクラシックだ。昨シーズンのジュニア1年目は、SPはジャコモ・プッチーニの歌劇『ラ・ボエーム』から『ムゼッタのワルツ』で、フリーはC.サン=サーンスの『序奏とロンド・カプリチオーソ』。一昨年のノービスAはD.ショスタコヴィッチの『ロマンス』だった。
だが、これらの曲は今までいろんな選手が滑ってきた曲でもある。
利用する選手が少なかった有名曲を持ってきた彼女の意図はこうだ。
これは私の曲だ、と。
スクリーンに大きく杏奈の顔が映り……なんだか固い気がする。それに顔色も。気のせいだといいが、心なし青ざめているような。リラックスしようと表情を作ろうとして、引き攣って格好がつかない感じだ。
……いや、気のせいじゃない。
杏奈が好演技をすれば、最終滑走のマリーアンヌ・ディデュエールにもプレッシャーを与えられるだろう。何よりも彼女はSP1位でフリーを迎えている。メダルの一番いい色をどうしても意識してしまう位置だ。
去年の俺と、少しだけ状況が似ていた。
横に座る雅が、指を組んで祈るような姿勢をとっている。
*
曲が始まる。
このプログラムはフリーの構成でも珍しく、一番最初の要素がジャンプではなくステップだ。社交ダンスのスローフォックストロットをイメージして作ったらしい。序奏の、嘆きのソプラノのような旋律を、ディープエッジを使ったステップで進む。水平線をすっと漕ぐような落ち着いたステップだった。
コンビネーションスピンを解いた第一主題の始まりと共に、一気にスケートがアグレッシヴなものに変わる。ここから4つのジャンプが続く。
杏奈の顔が硬いまま続いていく。ステップは完璧だが、まだ体がほぐれていないのか。
大丈夫。このまま。このまま無事に滑り切れ――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます