15.火の鳥は人事を尽くして天命を知る ――2015年3月8日 その5
ストラヴィンスキーの音楽は鋭角的だ。ペトルーシュカは高音のスタッカートがからくり人形みたいだし、火の鳥はホルンの音がエネルギーの塊みたいだ。前衛的で刺激的。だけど時に繊細だ。
――私がこれをやりたい、といったとき、父はまず反対した。曲が持つ力が半端ないから今の私がやるのは早計だと。曲の力に伴った滑りがないと、プログラムとして成り立たなくなってしまうと。
始める前に多少は「火の鳥」について調べてみた。バレエでの火の鳥は、主人公であるイワン王子の冒険物語だ。最後には、イワン王子は火の鳥の力を借りて魔王カシチェイを倒し、カシチェイに捕らえられたツァレヴナ王女を救い出し、彼女と婚礼を挙げる。主人公はイワン王子であり、ツァレヴナ王女がヒロインのはずなのだ。
火の鳥のストーリーは、いくつかのロシアの民話をつなぎ合わせて作られた。共通点は火の鳥は主人公ではないこと。火の鳥は主人公に手を差し伸べる重要な役割を果たしていること。主人公にとって届かない存在であること。……それはバレエにも反映されている。火の鳥とイワン王子は互いに助け、助けられる。バレエでの一番有名な踊りは、イワン王子と――ツァレヴナ王女ではなく火の鳥とのデュエットなのだ。
イコール、火の鳥は人を――イワン王子を力強く魅了してやまない永遠の存在だ。
音楽の力強さ。火の鳥の本当の意義。……父に反論できない。確かに今の私にとって荷が重いものだろう。
だけど……。
*
ティンパ二の連打から音楽が始まり、膝を抱えた姿勢で一回転回る。真っ暗だった目の前が白くなり、ゆっくりと立ち上がる。
ジャッジ席に向かって、ばさりと腕を――翼を動かす。エネルギーの塊のような音楽の中、いくつかのターンを挟んで最初のジャンプに向かう。
真っ直ぐに飛び――思わず悪態をついた。
「くそっ」
――最初のダブルアクセルはステップアウトしてしまった。氷にはじかれて姿勢が崩れる。……それでも転倒しなかっただけマシだ、と思うことにする。切り替えは大事だ。
イーグルを挟んですこし長めの助走。主旋律の金管楽器が甲高い咆哮を上げる。
三回転サルコウ――から、三回転トウループ。簡単なステップを挟んですぐさま次のジャンプ。今度は三回転ルッツからの――三回転トウループ。ここは二回転の予定だった。
ダブルアクセルでステップアウトしても、滑りの調子は悪くないからの判断だ。それからどうやら、私は単独のトウループよりもセカンドジャンプにつけるトウループの方が得意のようだ。単独で飛ぶと……どうも回りすぎてしまう気がして。
トウループを飛び上がり、すぐに着氷。回転がちょっと微妙かもしれないが、気にしない。
高く舞うデスドロップでキャメル姿勢。じっくり回ってすぐに太ももをぴったりとくっつけるシットスピン。足を変えて同じポジション。そのままの足で立ち上がって、今度は大きく背中をそらせて、キャッチフット。
スピンの途中でも基本的に滑っている時でも、ところどころに、腕の動きに鳥らしい振りが入る。
「このプログラムでバレエのストーリーは追わないから。とりあえずバレエの先入観は捨てて。翼の動きは荒々しく見える方がいいかな。その方が雅ちゃんっぽい」
……これはコレオグラファーであるてっちゃんの師匠、私の兄弟子の堤先生が言っていた言葉だ。渋る父を説得できたのは堤先生の力が大きい。――今の雅ちゃんのままのプログラムを作れるよ、と。
「肩の姿勢や腕の動きは気にしつつも、変に優雅にすることを意識しないで。背伸びしているっぽくなって逆に印象悪くなることあるから。それよりも、滑りや動きがジャッジから大きく見えることを意識しなさい。情熱的にアグレッシヴに」
言われた通り、私はこのプログラムで暴れ続ける。二つめのスピンはレイバックだ。背中を大きく反らせてチェンジエッジ。足を引き付けて、さらに速度を上げる。
シーズン前に、どうしてこの曲を、と堤先生に聞かれたことがある。
理由は簡単。ただ滑りたかったから。この曲の強さが、私を呼んでいる気がしたから。
私の答えに、堤先生は納得したように笑った。
「このプログラムで、君は飛び立とうとしているかもね」
……この言葉の意味はその時分からなかった。しかし、確実に言えることが一つある。
今の私は、確かにスケーターとして非力だ。綺麗なスケーティングでじっくりと美しい演技を行ったり、見ている人にストーリーを喚起させるような演技は出来ない。まして、火の鳥は設定から音楽まで壮大過ぎて私の手には負えない。
それでも誰よりも高く、大きく飛ぶことはできる。
あらゆる面で足りない今の私が、「火の鳥」の音楽に付いていけるものが三つだけある。
基本スケートのスピード。スピン。そして、ジャンプだ。
とにかく大きなジャンプを。誰もが綺麗だと納得するような、ジャッジ全員がGOE+3点を与えざるを得ない完璧なジャンプを跳ぶのだ。
レイバックスピンを解き、ぴたりと静止。……ここから演技は後半に入る。
曲調ががらりと変わる。凶悪で激しい音楽から、一転。少しだけ穏やかになった。大きく翼を広げて旋回するように、ゆったりとしたスケートを心がける。
緩んだ旋律の中、つなぎのスパイラルで進む。
ポジションはY字。軸足は左足で右足を大きく上げる。しかも後ろ向きに滑る。スパイラルと共に 自分の今いる世界をじっくりと見まわす。
今できることは、一つ一つのエレメンツを確実にこなすこと。
バックインサイドスパイラルでリンクを半周し、そこから左足でカウンターを踏んで――直接、二度目の三回転ルッツ!
右足を突いた瞬間、氷の破片が飛び散った。
着氷と同時にこぶしを密かに握る。二回ルッツを決めたとはいえ、ここからのジャンプも油断できない。先ほどよりも基本スピードを落とす。
三回転ループ+二回転トウ+二回転トウ。
イーグルからの三回転フリップ。
ジャンプはあと一つ。最後は得意――だけど、どうしても調子の上がらない2回目のダブルアクセル。イナバウアーから、ジャンプのための助走に向かい――
――どうせ不調なんだったらそのアクセル、ダメ元でもう一回転してトリプルアクセルにしてみたらいいんじゃないの?
どこからかそんな言葉が聞こえてきた。
私の声じゃない。演技の最中、誰かの声が聞こえるなんてことはありえない。私の記憶に残った誰かの声。
てっちゃんだ。昨日廊下で話して、ふらっと言ってくれたのだ。ほかの誰かにはできないけど、雅だったら絶対にできると。
その声に従って。
私は躊躇いなくスピードを上げた。
そのジャンプを一回も決めたことはなかったが、不思議と不安は感じなかった。がりがりと削る音が、徐々に高まっていく「火の鳥」のオーケストラとかぶさる。削れて、抉れて、削れた分だけ私のスケートは速くなっていく。フォアランの状態で極限まで。
そうだ。
私は飛び立つのだ。
「うわああああああああ!」
喉元から、今まで出したことのない類の咆哮が発せられる。
前向きに飛び上がって、
一回。
二回。――否。
――もう一回!
視界が開ける。
360度、全てが見えた。
その一回だけ、スローモーションで回ったように思えた。
キス&クライには、まだジョアンナがコーチと共に座っている。アメリカンな美貌が、少しだけ大きく見開かれるのが分かった。
入口付近には最終グループの面々が集まってきている。残り演技時間は、もう一分切っているから。……レベッカと杏奈が一緒にいる。さすがにもう喋ったりはしていない。二人の後ろにフランスのマリーアンヌ・ディデュエール。その隣で、ベラルーシのエフゲーニャ・リピンツカヤが神経質そうに立っている。
私は今、どれだけ高く飛んでいるのだろう。
外界を全て睥睨する。まばらな観客席、整列したジャッジ席、無機質な電光掲示板。
――関係者用の観客席に座る、見知った大切な男の子と目があった。
着地をする右足が、真っ直ぐに氷に吸い込まれる。右足は確かに綺麗なトレースを描いていた。……回りきっていると、エッジが教えてくれている!
フリーレッグがぴんと伸びて高く上がる。自分でもわからない、静かだけど、確かな興奮がある。
こんなジャンプを私は知らない。こんなに高く飛び上がるジャンプを私は知らない。こんな――本当に飛んでいるのかと錯覚を覚えさせるジャンプを私は知らない。
……未開の地へと足を踏み入れた時の高揚に似ていた。
最後のアクセルジャンプを終え、その足でストレートラインでのステップに入る。フィナーレに向かって盛り上がる曲が、私の身体を駆り立てる。
体がとても軽い。本当に鳥になったみたいに。
……ああそうか。
今の氷上は、現実世界ではないのだ。
ここは天空だ。未知の存在だけが足を踏み入れることのできる永遠の庭。人々が、イワン王子が憧れる火の鳥が本当に住まう未知の領域。あのジャンプを決めた瞬間から、私はその空間の中を自由自在に飛び回っている。
プログラムの最終盤。体力的にもきついのに、まして、さっきのジャンプの影響があってもいいのに全然疲れていない。いける。いける。このまま駆け上がっていきたい。レベルが取れているかとか、エッジの深さなんてどうでもいい。走れ、走れ。ここ(・・)よりも遠く。どこまでも遠くまで。
スピードに乗ったステップをとどめのツイヅルでしめて、最後の要素へ。でもその前に……。
空中で、180度足を開いたバレエジャンプ!
スリーターンを挟んでもう一回バレエジャンプ!
さらにもう一回バレエジャンプ!
リンクの中央に帰還し、3回目のバレエジャンプで着地した足でフライング。そのままスピンに入る。「火の鳥」のフィナーレに負けない、大きな音楽にふさわしい速度で回る。キャメルスピンの姿勢からだんだんと背中を弓なりに反らせて、フリーレッグを掴む。
高く上がった手が太陽を掴む。誰よりも速く、誰よりも長く回り続け――
彼方へ。
私は飛び立った。
音楽と同時に最後のポーズを決めた私は、遥か彼方から地上を見ているような錯覚を覚えていた。
*
……ようやく終わった3分半。私は両手を腰に当てたまま、下を向いて呼吸を整えていた。
ステップの時の全然疲れていない、というのは、アドレナリンが分泌されまくった状態での心理状態だ。現実にはそんなことは全然ないと思い知った。今は体中のすべての体力が失われ、ただただ荒い呼吸を繰り返すしかできない。
自分の呼吸音だけが体に大きく響く。脳に酸素が足りない。
それでも何とか顔を上げると観客が……皆立ち上がっていた。
歓声。鳴り響く拍手。フラワーガールがちょろちょろとやってきて、投げられたぬいぐるみや花束を拾っている。
こんなに拍手をもらうの、生まれて初めてだ。
アナウンスが私の演技の終了を告げると、拍手が一層大きくなった。
私は一番近くに投げられた花を拾う。厳重に袋に包まれているそれは、一輪の、火の鳥の羽みたいな真っ赤なカーネーションだった。
誇らしい気分になって、赤い花を振りながら、観客に笑顔を向ける。
いくつかのミスはある。ダブルアクセルはステップアウトで、三回転ルッツに付けた三回転トウループは回転が足りているか怪しい。スケートは幼いしステップなんてスピードを重視し過ぎていくつかのターンをすっ飛ばした。
……だけど、これが今の自分のすべてだ。
酸素の足りないぼやけた頭で、歓声と拍手に包まれながら私は思う。
これから私は、どこまで飛べるかわからない。
それでも行けるまで。
――飛べるところまで、飛んでみよう。
*
リンクサイドに戻るために足を滑らせる。その向こうでは、父が喜びと驚きが入り混じった不思議な顔をしている。多分……驚きの方が勝っているだろう。
とりあえず父に向ってにやりと笑ってみる。
父は、私がトリプルアクセルを練習していたのを知らない。こっそりと何度も何度も練習したけど、最終的にハーグに入るまで一度も決まったことがない。加えて、ハーグに入ってからはダブルアクセルが絶不調だった。
昨日のてっちゃんの言葉が引き金だったのだ。ホテルの廊下で、ジョアンナが来るまで話していた時。どうせならダメ元でトリプルアクセルにしてみろ、と。
勿論、最初は、まさか冗談だろうと思ったのだ。てっちゃんも悪い冗談を言うものだと。
『だって今まで通りに飛んでたら回転しすぎて転倒するんだろ? だったら、今よりスピードを上げて思いっきり飛んだら、トリプルアクセルが出来るんじゃないのか?』
『出来るよ、多分。保証はないけど。ほかの選手は無理かもしれないけど、雅だったら大丈夫』
氷から上がり、父と抱き合って、ようやく人心地が付いた。足ががくがくする。……あ、やばい。変に力が抜けてきた。
「よく滑ったな」
開口一番の父の言葉に少し驚いた。責められるかと思ったのだ。無謀なジャンプを飛ぶなんて、と。
……褒められた、と思っていいのだろうか。
「いろいろ言いたいことはあるが、まずはあの最後のジャンプについて。どういうことか後でじっくり説明してもらうからな」
それはそれとして、突っ込みたいところだらけなのだろう。技術的にも、内容的にも。父はそう言って、柔らかい笑みを私に返した。
少し怖いけど、点数が待ち遠しい。
――キス&クライが特等席のように待ち構えていた。
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