14.彼の思い出 ――2012年10月26日 【後編】

 堤先生と知り合い、師弟関係を結んでから5年以上経っていた。だからそれなりにも堤昌親という人間の性質を知っていると俺は自負している。

 先生はコーチで且つプロスケーターでもあるから、現役選手ほどでなくても練習は必要だ。あの先生は一人でこっそり滑るのが好きで、人に自分の本気の練習を見せたがらない。だから何かと理由をつけて、予定がなかったり営業時間が終わったリンクに行って、夜中に一人で滑っているのだ。

 この時もそうだった。


「……君も悪いこと覚えたね」

「最初に教えてくれたのは先生ですし」

 俺も本当にたまに、夜中先生に引っ付いて練習に来ていたりする。

「それは俺がいつも一緒だからでしょ。さすがにこの時間に子どもだけで歩くのはちょっとねえー」

「そこは謝ります。……雅が一人で出歩くのはいいんですか」

「一応さっき来たとき、女の子がこんな時間にふらふらしちゃだめだよって言ったよ。昼間のことがあったからあんま強く言わなかったけどね」


 この人にしては珍しい、苦い顔。先生は俺のコーチであるとともに、保護者だ。遠すぎてめったに横浜に来れない両親の代わりに学校の主要行事――保護者面談とか授業参観とか――に来てくれたりする。

 指導者としてはいいけれど、保護者代わりとしては複雑、といった顔だ。万か一俺に何かがあったら、という不安もあるだろう。様々なことをトータルして、その上で頼み込んでいる。

 結局、折れてくれたのは先生だった。トイレから出てきた雅の顔を見て、やれやれと嘆息する。


「いいよ。俺は外でコーヒーでも飲んで待ってる。少しは滑れたしね。製氷もあるし、なにより星崎先生にも連絡しなきゃならんから、終わったら電話くれ。なるべく遅くならないようにね」


 飄々と去っていく先生に深々と頭を下げる。夜の時間帯、このあたりでコーヒーが飲めるところなんて、コンビニのイートインスペースしかない。それかうすら寒いロビーで立ちっぱなしで缶コーヒーでもすすっているか。


 ……先生に感謝しつつ、俺は靴を履き替えた。


 氷に降り立って、ぐるぐると準備運動を始める。着ているものは普段着だが、ユニクロのストレッチジーンズでも割と滑れることを俺は知っている。あちこちに先生が滑ったえげつないトレースが残っていた。

 遅れて雅がやってくる。俺と違って自分の靴がない雅は、貸靴スペースからひとつ勝手に拝借してきたのだ。


「雅」


 彼女の格好も普段着だ。上はオレンジの長袖シャツ。下は黒いタイツに、冬用のチェック柄のショートパンツを合わせている。練習着や衣装と比べては動きづらいが、滑れないことはない。

 改めて俺は彼女に向き合った。


「今なら誰もいない。連盟の人も。マスコミも。星崎先生も。雅が滑りたいように、自由に滑れるよ」


 照明は最小限。スポットライトしか当たらないアイスショーやエキシビションに慣れていれば、これぐらいでも十分滑れる。

 ぼんやりとした暗さの中で、氷の白さとその上に立つ少女だけが浮かび上がっていた。


「今、ここで何をするのも自由だ。ジャンプしてもいい。かっとばしてもいい。スピンで回ってもいい。――もちろん、滑らないで帰るのだっていい」


 俺はそれだけ言って滑り出した。右足のインサイドエッジ。左のインサイドエッジ。エッジを切り替えながら前向きでまず滑る。コーナーのところにまで行って、フリーのステップシークエンスを始める。

 その横を雅が通り過ぎていく。


 殆どスピードスケートのような速さだった。前向きに滑ったまま体を切り替えて、力任せにジャンプする。飛んだのは三回転――サルコウ。それにセカンドに三回転トウループもついでにくっつける。再び回って、今度は三回転ルッツ。中央に行ってコンビネーションスピンを実施すれば、面白いぐらい形を変えた。


 ひたすら飛んで、回って滑ってまた飛んで。

 俺は動くのをやめて雅のその様子を眺めていた。


 やけくそ、という単語が頭に浮かぶ。いっちゃ何だが雑なスケートだった。リンクの表面を見れば酷いぐらい氷の破片が飛び散っているし。スピンを回るたびにガリガリと大きい音を立てる。ステップに至ってはジャッジが評価したらレベル1しか取れない。

 ――昼間の動きよりもだいぶ生き生きしていた。やる気なさそうに回るスピンじゃなくて、竜巻でも起こせそうなほどの勢いでドーナツポジションで回る。男子のジャンプじゃないのかと思うぐらいの大きさでトリプルを飛ぶ。堤先生が「俺のジャンプに似ている」といった理由がよくわかった。水を得た魚みたいだ。


 ……十五分ぐらいノンストップで滑っていただろうか。滑り疲れた雅が氷の上で大の字になった。シニアの選手がフリープログラムを4分半滑ると、1500メートルを全力ダッシュしたぐらいの疲労だ、と聞いたことがある。小学生の雅が感じている疲労はそれをはるかに上回るだろう。

ぐったりとした雅の額には、玉の汗がびっしりと浮かんでいた。


「すっきりした?」

「大分……」

「自由に滑れた?」


 苦い笑いを雅は返す。


「昔は幸せだった。でももう、昔の私には戻れないんだよね」


 ……競技を始める前は確かに幸せで、誰も何も気にせずに自由だっただろう。だけど、自由というのは意外に身動きが取れない。大きいジャンプも、三半規管が悲鳴を上げるほど早く回るドーナツスピンも、すべて「競技をやる」と決めた後からできるようになったものだ。


 あの頃とは何もかも違う。


「てっちゃんはたまに意地が悪い。私にこんな事自覚させるなんて」


 氷の屑を払いながら、雅が立ち上がる。


「ねえてっちゃん。私はまだ、何を目指せばいいのかわからない。スケートは楽しくて、競技会は楽しくて。でも、誰かより勝っていたいとか、表彰台に立ちたいとか、五輪に行きたいとか。今はあんまりそういうこと思わない。杏奈にだっていつか追い付ければ、と思うだけだもん」


 スケーターの娘として生まれた雅がスケートを始めた理由は俺だった。そこには他者に対する対抗意識や、何が何でも這い上がりたいという強靭な精神はない。周りと自分の意識があまりにも違い過ぎて、身動きが取れなかったのかもしれない。

 だけど。


「今はまだそれでいいんじゃないのか?」


 言って、俺は滑り始めた。力を抜いて、一本のトレースがきれいに映るように。その足でスリーターン、ブラケット。


「続けていけば自分の思い描く理想や目標ってものが出てくるだろ。多分。それまでは今のままでやっていけばいいんじゃないか。……少なくとも、俺はそう思う」


 スケートをやっていて、目指すものや願望は人それぞれだ。五輪を目指す人もいれば、世界一綺麗な氷で滑りたいと願う人もいる。すべてのクワドを試合でクリーンに決めたいと努力する人もいれば、アイスショーで世界中を回りたいと胸を弾ませる人もいる。

 雅はまだその門をくぐっていない。スケートの中のいろいろな門が彼女の前に開かれたまま……雅は何も決められないのだ。


 でもそのうち、何かを決められる時が来る。大体、無理に掲げた目標のもとにやっていても続いてはいかない。

 何も難しく考える必要はない。


「また、父さんのこと聞かれたらどうすればいい?」

「両親は両親、雅は雅だろ。コーチは確かに星崎先生だけど、お前には関係ない」

「誰も何も悪くないのに、恵まれてるって妬まれる」

「そこでお前が罪悪感を覚える必要はない。たまたま父親がスケーターで、指導者だった」

「でもたまに、きっついこと聞かれたりしない?」

「マスコミは自分の仕事をしているだけだ。お前もその仕事に、競技に出ている人間として少しだけ付き合えばいい」 


 大切なことはシンプルだ。そして残酷なことも大抵シンプル。物事を単純化できれば、大抵の場面でも切り抜けられる。


「……また辛くなったら、こうやって一緒に滑ってくれる?」


 ――それでもきっとまた、どうしようもなく動けなくなる時が来るかもしれない。


「当たり前だ」


 つらい時でもそうでなくても、練習ぐらいいくらでも付き合ってやる。

 言葉にしない想いを込めて、俺はその時のために一番シンプルな答えを雅に返した。


 雅は俺の答えに、ありがとうといって少し笑った。


「もうちょっと滑る。そういえばさっきから三回転ばっかりで、アクセル飛んでなかったや。見てて」


 再び彼女は滑り始める。声が明るくなったから安心した。バックで滑って、前向きに切り替える。アクセルの起動だ。

 ――助走が今までと少し違う。雅のスケートは確かに速いが、それでいて、さっきみたいに力んでいる感じがあまりない。


 彼女の身体が一瞬、沈んだかに見えた。



 その一瞬、彼女は鳥になった。



 鷹ほど眼光が鋭くなく、白鳥のように優雅なものじゃない。タンチョウのように湖畔で踊るものでもなく、カワセミのようなかわいらしさもない。

 ただひたすら、雄大で力強かった。

 着氷しようとして――右足を踏ん張り切れずに、氷の上に倒れこむ。


「あー、失敗しちゃったー。せっかくなら成功させたかったんだけどなぁ」


 再び大の字になった雅がけらけら笑う。


「お前、雅……」


 開いた口がふさがらなかった。驚きで、声が出ない。

……こいつ、今、何を飛ぼうとした? 自分で気づいていないわけじゃないよな?


「何、てっちゃん。何を驚いてんの? たまに父さんが見てないところで、このジャンプ練習してるんだよね。バレたら止められそうだから。もう、悩んでるのがバカバカしくなっちゃったよ」


 いつものような呑気な声。……調子を取り戻した雅の様子を見て……俺もなんだか心配して損したような気分になり、少しだけ笑った。



 その後、またしばらく滑って互いに疲れた頃、堤先生に連絡した。

 すぐに先生は星崎先生を連れてリンクにやってきた。星崎先生は怒っていたが、それ以上に夜更けに家からいなくなった一人娘を案じていた。


「馬鹿娘。あまり心配させるな」

 一言だけ言って星崎先生は、雅の頭を抱きしめた。


 それから雅も、たまに人目のつかない時にこっそりリンクに入って練習することを覚えてしまった。早朝が多かったようだが、夜の時もあった。夜だった時は、その度になぜか星崎先生からメールが入り、俺や堤先生が迎えに行く羽目になった。

 多分そういう時に、あのジャンプを練習していたのだと思う。



 *


 だから俺はこういったのだ。

 どうせ不調だったら、ダメ元でもう一回転してトリプルアクセルにしてしまえ、と。



 *


 ……満ち足りた表情でアメリカのジョアンナ・クローンが演技を終える。ショート7位で最終組に残れなかったが、彼女も実力者だ。今季ジュニアGPファイナルの銅メダリスト。昨日転倒したルッツも、三回転+三回転のコンビネーションも今回は綺麗に決めてきた。……昨日話した時は大分ナーバスになっていたが、それを克服してのフリーだった。

 アメリカ人らしい、柔軟性と素直さが入り混じった好感の持てるスケートが特徴だ。彼女の滑りは基本に忠実で、すべての技術をバランスよく備えている。ノーミスで滑ればかなりの得点になる。

プログラムは映画「ピンクパンサー」。コミカルでひょうきんなプログラムを見事に滑り切った。


 入れ替わりで雅がリンクイン。


 ……男子の表彰式が終わった後、医務室で右足の手当てをしてもらった。エキシビションはドクターストップが入ってしまった。


 包帯で厳重に巻いた足のままですぐに関係者用の応援席に向かい、女子シングルのフリーを俺は第一グループの第一滑走から観戦していた。


 ジョアンナの得点が表示される。……得点は、かなりいい。暫定1位に躍り出た。これがメダル獲得のボーダーになるだろう。

 次滑走者の名前がコールされ――雅が、赤い衣装、黒のパンツスタイルで最初のポーズを決める。卵の形みたいだ、と、このプログラムを初めて見たときに思った。

 ――まるで孵化する直前の卵みたいだと。



 第三グループ最終滑走、星崎雅。

 曲はI.ストラヴィンスキー、バレエ音楽「火の鳥」――


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