終.これから未来の話をしよう ――2016年2月25日、再び
――タンッ! という音と共に舞い降りる。
その瞬間、背中とフリーレッグを伸ばし、両腕を広げる。
「どうだったー?」
「大丈夫、回り切ってる」
リンクの外のてっちゃんが頷きながら教えてくれる。
トレースを見るとグリってない。完璧な着氷の――トリプルアクセルだ。
今は2016年。初めてトリプルアクセルを降りた世界ジュニアから、1年の時間が経過していた。
大会後、父に内緒でトリプルアクセルを練習していたことを打ち明け――案の定、怒られた。ただ、父としては辞めさせられると思っていたことが心外だったらしく。その怒りは、「自己流で練習して変な癖がついたらどうする! 怪我をしたらどうする!」という教え子の技術に対する不安と怪我の有無が入ったものだった。
まぁ、フリーで回り切って飛べたことを褒めてはくれたが、最終的に父に言われたのはこの言葉だ。
「自己流だとそのうち絶対にボロがでる。基本もまだまだだ。トリプルアクセルのために、全部の技術を叩き直してやる」
その言葉通り、今季は滑りからジャンプの癖まですべてを叩き直された。フリップのエッジ。余計な力を使わないで綺麗に深く滑る方法。氷を無駄に削らない。ストロークが単調にならないように。……父はまだ、鬼ではなかったのだ。そして今も、恐らく鬼ではない。コンパルで手を抜くとすぐに「下手くそ!」とか「そんな滑りは時間の無駄だ!」とか飛んでくるけど。流石に堤先生みたいにパイプ椅子が飛んできたことない。
すべての技術は基本から。どんなに難易度の高いことをやっていても、基本が出来ていないと台無しになる。
……そのおかげで、今季の私がある。
JGPシリーズチェコ大会優勝。
全日本ジュニア2位。
JGPファイナル2位。
全日本選手権5位。
昨シーズンはJGPシリーズで優勝できなかったし、ファイナルにも出場できなかった。それを考えると……自分の技術に対する、確かな成長を感じている。
もちろん周りの選手も強くなっている。去年、世界ジュニアで私の下だったスミルノワや李蘇芳も、去年とは比べ物にならない。かなりの強敵だ。初出場のメーガン・マーフィはJGPシリーズのクロアチア大会では彼女が表彰台の真ん中で、私は左隣だった。
杏奈は……尊敬する親友は、去年のディデュエールの位置にいて無敵を誇っている。
なんとなくまだ滑り足りない気がして、私は再び足を滑らせる。いいイメージでトリプルアクセルが飛べた。だからもうジャンプは飛ばずに、ステップの確認。さっきはショートだったから、今度はフリーで。ショートは持ち越しのロビン・フッド。フリーはボロディンの『韃靼人の踊り』で、堤先生に新しく作ってもらった。
この氷の世界は今、私だけのものだ。どうしようもなく去りがたい。氷の上で、誰かにしがみつくしか出来なかった私は、今は……こんなにも自由だ。
「雅」
一通りのステップを踏み終えた後、世界の外からてっちゃんが呼びかける。
そうだ。さっき、もう上がれって言われたばっかりだ。いい加減、待たせてしまっては悪い。てっちゃんは優しい。呆れた顔でいても、絶対に待っていてくれる。
「今のお前は、どんなスケーターになりたい?」
立ち止まった氷の中心で、私はその問いを聞く。
――もう3年も前だ。周りと自分の意識のギャップが激しくて、いやなことも結構言われて。不安で辛くて仕方がなかった。そんな私をてっちゃんは何も言わずにリンクに連れ出して……彼なりに、励ましてくれた。
今は何も目指さなくていい。無理に目標を掲げる必要はない。それでも続けていくうちに、何かが見えてくる。
……その言葉に、私はどれだけ助けられただろうか。
あれから時間が経って、少しずつ意識が変わっていった。
一年前の世界ジュニアの時、やるからにはやっぱりてっぺんを獲りたい、と私はてっちゃんに言った。そして、飛べるところまで飛んでいきたい、とも思った。それが私の天命なのだと。その時からだろう。私なりに、勝負に対する欲が出てきたのは。競技は楽しい。競うのは楽しい。――もっと強くなりたい。負けたくない。もっと大会に出たい。もっと、もっと――
この世界の住人でいたい。
60×30メートルのリンクはとてつもなく広大だ。……この氷の世界なら、私は何にでもなれる。音の力と自分の技術を使って、自由に思いを描いていける。表現にも技術にも終わりはない。
だから。
「――自分の限界を決めないスケーターになりたい。だから私は、この氷の世界で私らしく滑る」
そうすればきっと、今は手の届かない頂きも見えてくる。
「じゃあてっちゃんは、今は何を目指したいと思ってる?」
世界の外にいるてっちゃんに、今度は私が問いかける。
真っすぐな黒髪。ぴんと張った弓のようにスッとした綺麗な立ち姿。少女漫画に出てくる理想の男の子みたいに整っている顔立ち。手足は長くて顔は小さい。細身だけど、今年シニアに上がって四回転を練習し始めてからは少し筋肉が付いた気がする。背も結構伸びた。
少し頑固そうに見えて――とっても優しい男の子。
てっちゃんは勝負に拘っている。ヴォルコフの背中を懸命に追っている。負けず嫌いで、誰よりも高いところに立ちたいと思っている。だから、あなたに聞いてみたい。
あなたは一体、何を目指しているのか。
てっちゃんは黙っている。私もそれ以上何も聞かず、無音の時間が訪れる。私はてっちゃんの曇りのない黒目を、てっちゃんは私の瞳を真っすぐに捉えている。てっちゃんとの間に言葉が何も生まれなくても、私もてっちゃんも平気だ。今までそれで気まずくなることなんてなかった。
そしててっちゃんはゆっくりと口を開き――すべらかな音で言葉を紡いだ。
私はてっちゃんの言葉に、笑顔で頷いた。私にとっても凄くうれしい答えだったから。
「世界ジュニア、表彰台に上がってくる。それで来年は杏奈と一緒にシニアにいくよ。だからてっちゃんも、世界選手権頑張って。……宇宙人の背中は、案外遠くないよ」
再びてっちゃんは、そうだといいけどな、と弱く笑った。ヴォルコフの事を考える時、てっちゃんは自分に対して控えめになる。もう少し、あの天才に対しても自信をもっていいと思うのに。
「今回はちゃんと、エキシビ用の曲と衣装持っていけよ」
「……もう、郷ひろみは滑らないからね」
そう苦笑しながら、私は氷の外に出た。
明日は戦いの場所に行くのだ。
*
――数日が経った。
今は2016年の3月5日。午後の練習の休み時間だ。観客席で水を飲んでいたところ、iPhoneが鳴り、メッセージの着信を知らせていた。差出人は雅だ。ソフィアでは今シーズンの世界ジュニアの日程が、エキシビションやバンケットまで消化されたところだろう。
全部の日程が終わったら結果を報告すると雅は言った。その気になれば大会の結果はネットで簡単に知れるのだが、調べることをせずに彼女の報告を待つことにした。
iPhoneに送られてきたのは、動画だった。
動画は、ユーロスポーツで放送されたものらしい。スポットライトが付いたスケートリンクに、赤いドレスを着た一人の少女が真ん中に映る。すべての髪の毛を頭の上で結い上げている。高い位置のポニーテール。後ろには一輪の白い、可憐な花を持っていた。
「あ、アリエッティ……じゃなくて、雅ちゃんだ」
顔の真横ににゅっと首を伸ばしてきた堤先生が、俺のiPhoneをのぞき込む。名前が呼ばれて、動画の中の雅が滑り出す。3拍子。ワルツを踊るようにスリーターン、チョクトウ、ツイヅルでくるくる回る。堤先生が振り付けたショーナンバーだ。フランス人ハーピニストが作曲した、日本製アニメ映画の主題歌。
「せっかくなら2年連続郷ひろみで滑ればよかったのに」
「……もう滑らないって言ってましたよ」
「なーんだ」
……去年のエキシビションは大変だったのだ。エキシ用の衣装とテープを持ってこなかった雅は焦りまくって堤先生に相談。振り返れば曲さえ手に入ればどうにかなるとは思うのだが、そういう発想がなく、堤先生なら即興でどうにかしてくれるとでも思ったのだろう。……どうにかはなった。ただし、かなり間違った方向で。
先生はその場で「じゃあメシでも食いながら曲を決めよう! 振り付け? その場でやっちゃうわ!」と言い出し、まず夕食の場で星崎先生・俺・杏奈・門田先生を巻き込んで選曲。あれがいいこれがいいと決まらないところ、偶然、同じレストランでレベッカがコーチと一緒に夕飯を食べていたらしい。通りかかったレベッカが「お願い! ヒロミ・ゴウの『2億4千万の瞳』で滑って!」と懇願。
数年前、個性派と言われるスウェーデン人スケーター――レベッカのコーチである――がショーで滑ったのだ。そのプログラムが余りにノリがよくかつパワフルでコミカルどころか爆笑を誘うもので、今でもファンの間では語り草になっている。
そしてレベッカは郷ひろみの大ファンである。
それに、堤先生が悪乗りしたのだ。
「あれはあれでケッサクだったと思うんだけどなぁ」
と後日堤先生は語った。
確かに見ている方は異常に笑い転げるほど楽しかったのだが、演じる方は相当恥ずかしかっただろうとは思う。頼んだ本人は相当喜んでいたようだが。
今エキシビションを演じている雅は、その時のはっちゃけ具合を微塵も感じさせないほど可憐にワルツを滑っている。ジャンプは3回転ループをアクセント程度に一回。
――この氷の世界で、私は私らしく滑る。
ハープの音。フランス語の瑞々しさを含んだ歌。そして雅のスケートが重なる。手は花を持ったまま。足はアラベスクのスパイラル。
「……どんなスケーターになりたいか、か……」
「ん? 何々?」
ぼそっとした俺のつぶやきは、先生にしっかり聞かれていたらしい。
「世界ジュニアに行く前、雅に聞いたんです。どんなスケーターになりたいかって。そうしたらあいつは、自分の限界を決めないスケーターになるって言ったんですよ。それで、逆に聞かれたんです」
「へぇ、いいね。真っすぐで。で、テツは何て答えたんだい?」
……言っていいものか、悪いものか。言葉に詰まる。
「い、いいじゃないですか、俺の答えは別に」
少しばかり恥ずかしい言葉だから、はぐらかしたい。
「えー、教えてよー。教えてよー。師匠命令だ、教えろ。教えてくれたら、君の大好物の中村屋の肉まん奢っちゃるよ」
「……その前に去年の約束がまだじゃありませんか?」
「あれー、そうだったっけー? んじゃあ、去年の分、プラス教えてくれたら肉まん10個で。勿論冷凍じゃないから」
「すみませんが流石にそんなに食べられません」
パリの世界選手権は3週間後に迫っているのだ。いくら好物とはいえ、体重が変わってジャンプが飛べなくなる。しかも冷凍じゃないって、嫌がらせか。
「俺はですね」
観念して俺は口を開く。教えないと多分この人拗ねるから。
「うん」
誰にも負けたくない。頂を目指したい。……あの宇宙人に追いつくだけではなく、追い抜きたい。
でもそれ以上に。……去年の世界ジュニアから湧き出た欲求だ。あの瞬間、自分の中で何かを取り戻した気がする。昔、飛び去って行ったタンチョウが持って行った何か。
氷の上で、何者かになりたい。別の世界を構築したい。見ている人間が別の世界を想起するような滑りをしたい。その為には――音の輝きを大事にするスケーターになりたい。
「滑る楽譜になりたい」
ぼそりと、数日前と同じ呟きを返す。
……動画の中の雅が演技を終える。最後のスピンは得意のドーナツポジションで、花を手放さずに滑り切った。動画が終わるのと同時に、再びiPhoneが新しいメッセージを知らせた。正しくはメッセージではなく写真だった。
先生の顔は見えない。一体どんな反応をするのかと思ったら、頭をぽんぽんと叩かれる。
「君が前を向いて何にも妥協をしない限り、それを目指す資格はある」
――それを目指していれば、いつかたどり着きたいものに手が届くと言うように。
先生は俺の肩から顎を外し、ぐるっと首を回す。
「さあ、もうちょいやろうか」
休み時間は終わりだ。世界選手権まで、あまり時間はない。
俺は頷いてiPhoneを椅子の上に置き、再び氷の上に降り立った。
iPhoneの中では、はじまりの物語を終えた二人の少女がカメラに向かってピースしている。金メダルを下げた杏奈と、銅メダルを下げた雅の姿だった。
シーズン1 終
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