12.竜の少年 ――2015年3月8日 その3【前編】
全てはイメージと、音に対する感性の問題だとはじめに先生は言っていた。振り付けを自分のものにするための作業は、先ず曲を捉えなくてはならない。だから、もとにある作品の先入観を捨てて、音を視覚的にとらえてみることが大事だ。
……その川の様子を思い描いてみる。
どんなに時が流れても、よどみなく流れ続ける。当たり前の世界。構成される音も、色も、単純なものだろう。水が跳ねると、その雫は太陽の光を浴びて輝くのだ。つかみどころがなくて、潤すか触覚を刺激するかのどちらかしか役割がなくて。そんな当たり前な光景は、きっととても美しい。
海へと向かう間には小さい沼があって、多分、タンチョウが戯れている。
「タンチョウ好きだねぇ」
先生に苦笑される。好きなわけではなくて、タンチョウは一番馴染みのある鳥だ。多分、自分が持っているべき大切な何かを、俺の代わりに彼らが持っていると思っているだけで。だから、いないよりもいてくれた方がいい存在だ。
「まずは、音をよく聞きなさい。今の君の場合は、それからだ」
音はよく聞いている。自分の細胞に染み込むほどに。フィギュアは、音と共に進んでいくスポーツだから。……それまでの俺の滑りに、何かを感じての発言だったのだろう。
だから俺は、先生がこういった意味を必死で考えている。
小さな町と小さな沼に沿った、小さな川。
その川の神は、白い竜の少年だった。
*
先ずは動き出さずにワンフレーズ置いて。大体10秒静止。腰をぐっと落とし、右足を軸にしてその場でターン。肩の位置から水平に伸ばした右手の指先に目線を送る。ハープの音は弦からはじける音だ。はじけて、ひとつの音が明確な輪郭を持つ。
……空から降ってくる光る音の粒を逃さないように。 そこから簡単なターンをはさんで最初のジャンプに向かう。
フォアに向きなおす。離氷の際は雄大に、見たことのない、伝説の生き物が美しく舞い上がるイメージだ。……硬質に落ちてくる最初のハープの音と共に、細すぎる曲線を迷いなくなぞっていく。
曲の大波が加わっていく直前に――トリプルアクセル。
着氷と共にパーカッションの迫力とヴァイオリンが主旋律にとって代わる。フリーレッグを高く上げ、ジャンプの時に絞めていた腕をふわりと広げる。手のひらは天に向けて。そして着氷したその足でループターン。
すぐさま次のジャンプ。少し長めの助走から、左足のアウトエッジにぐっと体重を乗せて3回転ルッツ。
……着氷に詰まったが、何とか見た目は成功。とりあえず今は、エッジ判定と回転不足については考えない。転倒か否か。気にしたのはそれだけ。危険は相当にあるが、プログラムには必要と感じたため外さなかったのだ。決めたのはついさっき。正確に言えば、最初の音が始まる前。
引くなら引けばいい。ジャッジにはその資格がある。
少なくとも、今はそんな心境だ。……何という開き直りだろう。
先生は、登場人物の一人をイメージしてプログラムを造り上げた。
だが、同時にこうも言っていた。
あくまで俺の感性に任せる、と。
余計な力を入れないように。ただ演技と音にだけ神経を研ぎ澄ませる。音が誘う方向へ足を伸ばし、音が紡ぐ曲線を描いていく。
今この曲でもって、何を表現しようが俺の自由だ。
*
神は決して人前には真の姿を表わさない。仮にとっている少年の姿もまた然り。何があっても人間とは関わらない。それは、人間と人間でないもののあいだにある、暗黙のルールのようなものだ。いついかなる時も、川の流れそのもので在り続けた。
――川端に、一人の少女が佇んでいる。小柄なのではなく小さくて、殆ど幼女と言っても差支えが無い。丸顔で、黒髪。たった一人でいるからか、どこか不安そうな顔をしている。
彼女はじっと、川の底を見つめている。水面に映った自分の顔。生き物らしい蛋白質と、それらが発する気泡という名の呼吸。苔がへばりついた岩。水底の――その先を通り越した目線。まるで、何かがいることを、信じて疑わない瞳。
誰がいてもいつもなら全く気にしない。たとえ、その少女が足を滑らせたとしても。それほど深くもない。だが、幼い少女だったら溺れてしまってもおかしくない。必死で手足を動かしていた。
彼はその時、初めて不文律を破った。川の流れを操って、かりそめの人間の姿から、本来の、川底に棲む白い竜の姿に戻る。
沈んだ少女を、掴むのではなく水に逆らわずに優しくすくいあげる。
沼のほとりに助けたあげた少女は、暫くの間意識を失っていた。命に別状がないことを確認し、彼は姿を消して、もとにいた水底へと戻っていく。これ以上掟を破るわけにはいかない。
目を覚ました少女は顔を横に動かして、自分を助けた何かを探す。人らしい人の影はない。あたりを見渡しても、探しものは見つからなかった。
その日から、少女は毎日その川を訪れた。沼のほとりに座り込んで、ある日は夜明けに訪れ、ある日は昼間から夕方まで飽きもせずに透明な川を眺めていた。
それが日常になった時。彼は彼女が訪れるのを心待ちにするようになっていた。彼女はなにも話さなかった。ただじっと、佇むだけ。それでも誰かが近くにいる喜びを、彼は初めて知った。
*
パーカッションが薄れてヴァイオリンの響きが強調される。完全なレガートではなく、曖昧なスタッカートでヴァイオリンが主旋律を演じる。
バックエントランスから入るキャメルスピン。たっぷり回って、足を変えてさらにキャメル。
スピンの最中でも細かく腕を使う。先ずは大きく広げて。指先を翻して、足替えと共に水平にしてT字に見せる。顔を上に向けて、体に付けた右腕を、半円を描いて左腕にくっつける。
ヴァイオリンは水の中の白い竜を描き出す。軸のぶれない回転と、右手の使い方。水のなかに生まれる渦のうねり。そのさまを、スピンだけで表現する。
足替えのキャメルスピンを解く。左足バックインから、体とブレードを傾ける。つま先を180度開く。
ゆったりと半円を描くアウトサイドイーグルから、直接ダブルアクセルを飛んで再びスピン。
シットスピンから始まるコンビネーションスピン。右手を伸ばして、コマのようなシルエットを作る。そのシットスピンから立ち上がって、今度は大きく背中をそらせる。レイバックスピン。レイバックだって、工夫方一つで、並みのビールマンよりもきれいに見せることだって出来る。片足を引き付けて、速度変化。
二つ目のスピンを解く。銀盤は川。白い竜は俺自身。複雑に描くエッジも、広げた両腕も、さらに伸ばす指先も――音に寄り添って繊細に動かす。
*
崩壊はいつだって唐突に訪れる。
なんてことはない。川の埋め立てが決まったのだ。その場所は、新しく道路が造られるのだという。
自然物にも思いは宿る。長い時間を世界と共有したものは、意思を持つことが出来る。そしてその意思は更なる長い時間をかけて、神へと深化する。
……世の中の中心は、神ではなくて人なのだと思い知らされる。こうして人間は、無意識のうちに神を殺すのだ。
*
曲調ががらりと変わる。その切れ目と同時に中央に戻り、静止する。
ヴァイオリンから一転して、主旋律がピアノにとってかわる。ハープは落ちる音。ヴァイオリンはうねる音。そしてピアノは、落ちた後に広がる音だと思う。
……最初に滑りだしたところと同じ位置。両腕は体に沿って下に落とす。親指をたたんで、他の指はまっすぐに。その両腕をゆっくりと、上に持ち上げる。
右の指先は顔の正面。左手は、右の袖を抑える。膝を曲げ、前に出した右足に重心を乗せ――そのつま先を軸に左のエッジで円を描く。指先を先に動かし、目線がそれを追う。
このプログラムは少しだけ、日本舞踊っぽく見せる。手首の返し、指先の使い方、腕のしなり方、目線の流し。すり足。曲の雰囲気を壊さないように、そして、どの角度から見ても綺麗にみられるように。
流れている曲そのものは、和楽器の音はない。ただ、神経の繊細な部分を刺激し、純日本的に見せるのが正しいとさえも感じさせる。……人工的に作られた曲が、不思議と自然から湧き出た音にも聞こえてくる。
後ろ向きのスネーク。すり足をイメージして、一歩、二歩とたっぷりとエッジを使って、ステップを踏み――バッククロスで加速。十分スピードが付いたところで、後ろ向きに滑らせたまま、右足だけを高く上げる。
演技は後半に入る。
右足が、少しだけ気になった。まだ。まだ大丈夫。痛くない。
*
あまりに暴力的な鉄の塊が、無遠慮に浸食していく。その度に、のみで身を削られる痛みを覚える。
工事が始まってからも、少女は姿をあらわさない彼の元を訪れる。見つからない彼を探し、鉄の塊を凝視する。時折水面を覗いてくる。透明な水の鏡――自分自身に映った彼女の顔。――彼には、その表情が分かる。今にも泣き出しそうだった。彼女は何も痛くはないのに。自分自身が傷を負ったかのような痛々しさを感じる。
こんな無様な、醜い姿を見られたくなかった。同時に、彼はこうも思う。こんな彼女の顔は見たくはないと。
ずっとこんなところにいてはいけない。早く帰りなさい。
その痛みを、自分で癒そうとしてもどうにもならない。癒す術を持たないから。
今の彼に出来るのは、自分が埋め立てられていくのをただ見つめていることしかないのだ。
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