12.竜の少年  ――2015年3月8日 その3【後編】

 曲調ががらりと変わる。その切れ目と同時に中央に戻り、静止する。

 ヴァイオリンから一転して、主旋律がピアノにとってかわる。ハープは落ちる音。ヴァイオリンはうねる音。そしてピアノは、落ちた後に広がる音だと思う。

 ……最初に滑りだしたところと同じ位置。両腕は体に沿って下に落とす。親指をたたんで、他の指はまっすぐに。その両腕をゆっくりと、上に持ち上げる。

 右の指先は顔の正面。左手は、右の袖を抑える。膝を曲げ、前に出した右足に重心を乗せ――そのつま先を軸に左のエッジで円を描く。指先を先に動かし、目線がそれを追う。

 このプログラムは少しだけ、日本舞踊っぽく見せる。手首の返し、指先の使い方、腕のしなり方、目線の流し。すり足。曲の雰囲気を壊さないように、そして、どの角度から見ても綺麗にみられるように。

 流れている曲そのものは、和楽器の音はない。ただ、神経の繊細な部分を刺激し、純日本的に見せるのが正しいとさえも感じさせる。……人工的に作られた曲が、不思議と自然から湧き出た音にも聞こえてくる。

 後ろ向きのスネーク。すり足をイメージして、一歩、二歩とたっぷりとエッジを使って、ステップを踏み――バッククロスで加速。十分スピードが付いたところで、後ろ向きに滑らせたまま、右足だけを高く上げる。

 演技は後半に入る。

 右足が、少しだけ気になった。まだ。まだ大丈夫。痛くない。


 *


 あまりに暴力的な鉄の塊が、無遠慮に浸食していく。その度に、のみで身を削られる痛みを覚える。

 工事が始まってからも、少女は姿をあらわさない彼の元を訪れる。見つからない彼を探し、鉄の塊を凝視する。時折水面を覗いてくる。透明な水の鏡――自分自身に映った彼女の顔。――彼には、その表情が分かる。今にも泣き出しそうだった。彼女は何も痛くはないのに。自分自身が傷を負ったかのような痛々しさを感じる。

 こんな無様な、醜い姿を見られたくなかった。同時に、彼はこうも思う。こんな彼女の顔は見たくはないと。

 ずっとこんなところにいてはいけない。早く帰りなさい。

 その痛みを、自分で癒そうとしてもどうにもならない。癒す術を持たないから。

 今の彼に出来るのは、自分が埋め立てられていくのをただ見つめていることしかないのだ。



 *



 ダブルアクセルから、ハーフループで三回転フリップ。助走のスピードが足りなかったので、最初のジャンプをトリプルの予定からダブルに。

 右の足首、そして、数か月前の傷が、痛みから発生した熱を帯び始める。

 無茶しすぎたか。だが、4回転が無い今の俺の極限の構成はこれしかない。ダブルアクセルを2回飛んででも、セカンドに3回転を付けるコンビネーションジャンプを2回。それも、なるべく加点の尽きそうなものを。そうしないと、ダブルアクセルを2回飛ぶ意味が生きてこない。

 痛みが顔に出ないように気を付ける。演技は後半になった。ここからはジャンプが続くのだ。

 単独の三回転フリップ。

 三回転ループと二回転トウのコンビネーション。

 流れるように。音に逆らわないように。曲がシンプルな分、流麗なピアノの一音が際立つ。滑りの流れを壊してしまったら、それだけでプログラムの見栄えが悪くなる。

 一つ一つのジャンプを丁寧に決めていく。フリップ、ループは得意だ。大技を決めるのも大切。だが簡単なジャンプで失敗しないのも、勝利の条件の一つだ。

 その度に、右足の痛みが増していく。捻挫をした足首は熱を持って、切り傷のある足の甲は……覚えがある。一昨日の6分練習。ルッツでトウを突いた時に感じた、鋭い痛み。

 次のジャンプは……。ああ、そうだ三回転のサルコウだ。ループ、スリーターンでつないで足をハの字にして……。コンマ一、二秒。空気を裂く音がしたから、ちゃんと飛んで、ちゃんと回りきって着氷出来たのだろう。

 変だ。確かに終盤に来れば、足に溜まる乳酸と荒くなる呼吸からは逃れられない。つまり、慣れきった疲労の筈だ。

でも今は。目の前が白い。視界が狭まって、霧の中で当てもなく滑っているようだ。音は確かに鼓膜に届いているが、耳を何重にも覆った上で聞こえてくる。……遠い音だ。自分の身が冷たく削られていくような気もする。

曲が鳴っている以上、プログラムは終わらない。終われない。

 完璧に滑りたくて仕方がないのに、怪我になんて負けたくないのに。――あの化け物に一矢報いたいのに。痛みで右足に力が入らない。声に出さず、頭の中だけで呟く。――こんなところでふらついている場合じゃない。もっと、もっと。勝つために何かしなければならない、と。

額から、頬を伝って汗が氷上へと流れ落ちる。リンクを形成する一部と成り代わる。


 ……そこで。


 あり得ないものを見た。

 かすんだ霧の向こう。その向こうに、いる筈の無いものがいる。首の長い、優雅にも見える神鳥。

 あれはタンチョウだ。最後のジャンプを実施する場所で、羽を休めて氷を啄んでいる。柔らかくなった氷。神鳥。……この光景は見覚えがある。一度、スケーターとしての俺が死んだ時だ。

 演技中だというのに、思わず目を剥いてしまう。俺の頭はおかしくなったのだろうか。ここはハーグのアイスリンクで、釧路の湿原じゃない。あれは、彼方へと羽ばたいて、二度と戻ってこないものだと思っていたのに。


「――てっちゃん!」


 幻覚の次は、幻聴。

 ……幻にしては、はっきりとした声だった。おさなくて、舌足らずで、聞いているこっちが不安になる。


「大丈夫。絶対、絶対大丈夫だよ!」


 その声は、誰かを本気で案じている。


 ……ああ、そうか。

 タンチョウがいる。その向こうに、あの子がいる。昔出会ったままの――何も出来ないころの雅がいる。

 最後のジャンプはダブルアクセルの予定だった。さっきやったコンビネーションを、ここで実施するつもりだったのだ。

 透明な膜が耳を覆う中、ひときわ荒く聞こえる音があった。目立って聞こえるのは、自らが発生させているから。

それは氷を抉る醜いエッジの音。

 ――昔、ずっと昔に聞いていた自分の音は、こんな、表面的なものではなかった。いつからこんな音になったのだろう。いつの間にか、今発しているものの方が耳に慣れたものになっていた。

 そうだ。スケートは、もっと美しいものだ。自分のスケートは美しいと、見ている観客に伝えるものだ。それだったら、こんな音を発している今の俺の滑りは、見ている人間――雅の目にどう映っているのだろうか。

 例え幻でも、今この場にあいつがいるのなら。これ以上みっともない演技なんて見せられない。

 頭の霧が晴れる。一歩、一歩と滑らせる。オーケストラが加わった曲が、右足を後押しする。今できる、極限まで速く。気を抜くと立ち止まりそうになる右足を叱咤する。動け。動け、右足。フェンスに当たるぎりぎりまでリンクを使う。あのタンチョウがいる、その先に。

 体の向きを切り替える。左足バックアウト、軽くカーブを描いて前向きに。



 ――あまりにも明確に映る幻の鳥と共に跳んだ。



 ……何を何回回って、どう跳んだかは覚えてない。

 分かったのはコンビネーションを付けたこと。氷を捉える右足のエッジと、そこから描かれるトレースが完璧だったこと。



 哀切を孕んだ美しい旋律が飛散していく。プログラムの最終盤。リンク全体を使ったステップシークエンス。オーケストラが解かれ、ピアノだけが穏やかに零れ落ちる。

 蒼穹を舞った雪。タンチョウが戯れる沼の透明さ。呼吸をする苔から生まれる気泡。陽光を浴びて、跳ねあがった水の粒。

 それまで聞いた全ての音。完璧だと思った瞬間。

 死の時間が近づいている。崩壊の手は止められない。ならばせめて、その瞬間まで美しく在りたい。そのために、彼は細胞に刻まれた全ての時を抱えて、その姿を公に表わす。

 夜明け前。川の底から外の世界へ。舞い上がった彼の姿を見るのは――黒髪の小さな少女。目の前に現れた白い竜。

 彼の出現と共に、大気が踊る。それに合わせて木の葉が舞い上がり、彼女の黒髪が風のかたちをかたどった。

少女は強い確信を持って、彼の鼻先に触れた。彼女の指先は冷たくて、罪悪感を覚えずにはいられない。長い時間――その時を待っていた。ずっと前から知っていたのに。

「やっぱり、ここにいたのね」

はじめて聞く少女の声は、彼の想像した通り、幼くて、舌足らずで甘かった。竜の頬に手を添えて、頭を優しく掻き抱く。

「ずっとお礼を言いたかった。助けてくれて、ありがとう」

 あと少しで果てる命。掟ももう、何も気にする必要はない。おさない少女を背に乗せて、彼は空へと舞いあがる。

 ひとつ一つの音を抱きしめるようにステップを踏む。

スピードに乗ったターン。左足を回すループを描いてモホーク。片足でくるくると回るツイヅルの連続で無造作にうねって、チョクトウのワンフットスケーティングで優雅な軌道を描く。ブラケット、スリーターン、そのまま後ろに進むトゥステップ。指先を氷に付けて、水を救う動作。銀盤を、川から天空に変えて、自由自在に駆け巡る。……右足は、もう何も訴えてこなかった。

 連なった音は、己から剥がれ落ちる鱗だ。舞い踊るたびに、彼の体から、鱗がはらはらと秒速で散っていく。

皮肉にもその鱗は、光の粒のように彼の周りを飾った。

 体の限界が近い中、それでも彼は誰よりも自分を想ってくれた少女の為に天空を巡った。

 背中に乗せている少女に、何時も彼女が眺めているのとは、少しでも違う美しい景色が見えるように。



 長いステップシークエンスを終えて彼女を地上に下ろす。最後の要素。バネをつけてバタフライを飛んで、キャメルスピン。

 ……このスピンが終わったら、彼の存在は消え失せる。雲間からのぞく朝焼けが、ぼろぼろになった彼と少女を照らした。彼の体は、半分以上が消えて、光の粒子にと変わっていた。少女は顔をゆがめて喪失を理解する。

「消えちゃ、やだ」

 やっと会えたのに。またあなたの背中に乗せて欲しい。そう、彼女は泣きながら言いつのる。なんて顔をしているんだろう。彼が消えるのを、本気で恐れていた。

 消えかかる右手を伸ばし、彼女がしたようにその頬に触れる。指先は透明で、彼にはどういう感触かわからなかったけれど、心のうちに何ともいえない疼きを感じた。

 ずっと一緒にいてくれた、たった一人の大切な女の子。

 その子を安心させたかった。泣き顔じゃなくて、最後に笑った顔が見たかった。

「大丈夫だから。俺はずっとここにいる」

 ――だから彼は嘘をついた。

「本当に? 本当に、また会える?」

「うん。きっと」

 彼女は涙を浮かべて、それでも笑顔を向けてくれた。

 これで彼は――俺は、安心してさいごを迎えられる。背中を弓なりに反らせて、フリーレッグを掴んで回転速度を上げる。

 全ての音と思いが、スピンの中に溶けていく。

 透明な名残。最後に浮かんだのは、声に出さなかった彼女への言葉だった。


 ――本当に大丈夫。この身が朽ち果てても、ずっとそばにいる。



 *



 腰に手を当てて呼吸を整える。早鐘を打つ心臓と、荒い息が耳をつんざく。

 場内のアナウンスが演技の終了を告げ――虚脱状態のまま顔を上げると、観客が総立ちして拍手を送ってくれていた。

 今まで見たことのない喝采。

 少し頭がぼんやりしているのが、もったいないかもしれない。だが、演技が終わった今、己の心から湧き上がるのは。

 極限まで攻めきれた達成感。ノーミスに滑れた充足感。役になりきれた幸福。そして――

 音が、徐々に戻ってくる。鳴り止まない拍手が明瞭になってきた。

「お疲れさん、凄かったよ」

 リンクサイドに戻って、先生と右手をかわすと、ただそれだけ言って相当の無茶をした俺を迎えてくれた。

 先生の顔を見て、やっと意識が現実に戻ってきた。



 *



 点数が出るまで時間がかかっている。キス&クライに座って、水を飲みながらその時を待つ。

 得点は楽しみもあるが、採点に手間取っているとなると少し怖い。

「もしかしてザヤッた、とか?」

「それはないから。最後のバカみたいなジャンプ、ちゃんと綺麗に決まってたし」

 ん? バカみたいなジャンプ?

「……先生。俺、あの時、何飛んでたんですか?」

 あの時、幻のタンチョウと一緒に跳んだ――絶対に口には出さないが――前向きに踏み切ったから、アクセルを跳んだのは知っている。ただ、それがシングルなのかダブルなのか、はたまたトリプルだったのかはその時は意識していなかった。コンボを付けたけど、多分ダブルかと。

「何。自分で分かんなかったの?」

「はあ……。まぁ、疲れていて」

「今分かるよ。ホラ、スクリーンに映し出された」

 得点を待つ間、スクリーンでは実施した演技が映し出される。丁度最後のジャンプを跳ぶところで……て。

 まさか。自分でも驚きだ。

「……こんなジャンプ飛んでたのか?」

 最後のジャンプで、アクセルを跳んだのは分かっている。……だけどまさか、トリプルアクセルと3回転トウのコンボを実施していたとは。

 ……そして、最終結果が表示される。



 メダルには届いた。だが、一番上には……。

 ……不満は全くない。寧ろすがすがしい気分さえある。

「いやー、よかったよ。ここまでいい演技なんて初めて見た」

「俺も……」

 何だったんだろう。この4分間は。

 意地でも攻めきってやろうと思った。結果として持てる全てを出し切った。それ以上に、あの最後の時間。

 滑っていて、自分が造った架空の物語が、自分自身と重なる。自由にエッジで物語を描き、物語にも、音そのものにもなりきれた4分間。

「俺も振付けた甲斐があったよ。絶対似合う自信があったもん」

 先生は呑気に笑ってくる。……初めて聞いた時、なんの冗談かと思ったが……。

「ありがとうございます」

 今だったら素直に、感謝の言葉が言える。――ようやく、音をよく聞きなさいという言葉の一端が分かった気がしたから。

 改めて、目を細めて電光掲示板の点数を確認する。納得の点だ。



 2015年世界ジュニアフィギュアスケート選手権、男子シングル。鮎川哲也、最終成績。

 ショートプログラム5位。フリースケーティング2位。

 ――総合成績、第2位。

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