11.彼女の思い出 ――2009年8月10日

「……ねえ、哲也君何話してるのかな」

「さあ」


 塀を境にして、てっちゃんと堤コーチが向き合っている。遠くからしか分からないけど、どうも何か、言い争っているようだった。訝しんだ杏奈が私に尋ねてきたが、あのコーチの事だから、変なことを……いやいや、まさか。


 何かてっちゃんの緊張をほぐすようなことを言っている。そう私は願いたい。

 コールに半歩遅れて、ゆっくりと時間をかけてスタート位置に付く。


 平安時代の狩衣を模した、ゆったりとした白い上衣に、黒のボトム。手足が長くて小顔のてっちゃんによく似合う衣装だ。彼自身が持っている色を合わせて白と黒のみのシンプルな色彩が、清冽な印象を与えている。

 滑るのはアニメ音楽。2003年に、米アカデミー賞で長編アニメ部門賞を獲った、日本製アニメのサントラから。……振り付けの堤先生が言うには、作品に出てくる竜の少年をイメージしたのだという。散々二人の間でもめて(何せ氷上練習の間でも口論していたのだ)、最終的には、


「君が選んだ曲はキャリアを積んでからでも滑れる。でも、今でしか滑れないものだってあるんじゃないの?」


 という堤先生の一言でてっちゃんが納得したのだ。


 ……リンク中央に佇んだてっちゃんからは、焦りも緊張も感じられなかった。ただそこに立ちすくむだけ。少しばかり視線を斜め下に向けているので、私の位置から顔を確認することは出来ない。なのに。

 指先から背中の姿勢、足に至るまでの立ち姿が、驚くほど静謐な空気を纏っていたのだ。

 急に、昔を思い出した。

てっちゃんと出会った頃の私。私と出会った頃のてっちゃん。

 ……それは彼の滑りに魅了された、原初のころの思い出だ。



 *



 何歳から氷の上にいたのか、私は明確に覚えていない。随分と小さい時分のころで、それが4歳なのか5歳なのか。もしかしたら2歳だったのかもしれないが、そのあたりはとても曖昧だ。

 氷の上にはいつも人がいた。私一人のときは勿論なくて、少なくても10人。多くて50人以上ごった返したリンクで、轢かれないように怪我をしないように、自分なりに気を付けて自分なりの楽しみを見出し、ほかの人の邪魔をしないように、一人で遊んでいた。


 そして、必ずと言っていいほど誰かの指導をする父の姿があった。


 ぼんやりと覚えているのは、背の高い男性にほぼ毎日、同じトレースを描かせているところだ。少しでもずれると厳しい父の声が響き、少しでもやる気のなさそうな素振りを見せると父が手近のパイプ椅子を投げていた。普段温厚そうに見える父が、氷上ではあのように変わるのかと少なからず驚いたし、とても怖かった。おさない頃の私には鬼か悪魔か修羅かに見えた。


 ……競技の事を全く知らなかったと言えば、それは嘘だ。大会には何度か見に行ったし、その中でも一番大きかったのは、東京で開かれた世界選手権だ。たくさんの国の、たくさんの選手が、四方八方を観客で埋め尽くされたアリーナで滑るのは、プレッシャーもあれど楽しみの方が強いのかもしれない。でも自分自身があんなふうに滑ることに関しては。


 ――正直、あんまりぴんと来なかった。


 今のままでいい。たった一人でも、氷の片隅にいられるだけで、私は満足していたのだ。父の怖い姿もまぶたに重なっていたし、滑るだけであんなに怒られるのなら、別にやらなくていい。


 無理に競技に行く必要はない。

 氷の上でただ一人で遊ぶ。その現状に、私は満足しきっていたのだ。



 小学校に上がり、2年生になった夏。横浜のリンクがにわかに騒がしくなった。耳に入ってくるのは、どこか遠くのクラブの選手たちが、強化合宿で横浜まではるばる練習に来ているらしいということ。

 一方の私は夏休みに入っていて、何時もよりリンクにいる時間が長くなった。一日中、横浜のリンクで、適当に遊んでは休んで、また適当に遊んで。父の仕事が終わるまで端のほうにいた。

 その日。にぎわったリンクには、北海道と仙台からやってきた選手が、先ずは思い思いに体を温めはじめていた。

 その中に彼がいたのだ。

 ――その子は黒髪で色白。少し頑固そうな、スッとした細い立ち姿がきれいな男の子だった。私よりすこしばかり年上。氷上をざっと見渡すと、その子と――私と同じぐらいの年の子は、あと5,6人はいた。同世代の子と比べても、ひときわ小柄だったから、余計目についた。……が。

 氷上にいる同世代の子と、当時の私でも分かるぐらい滑りが違っていた。するすると人と人の合間を滑って、簡単そうにジャンプを決めた。その頃はジャンプの種類なんて分からなかったけど、それだけは分かった。ただ唯一前向きで飛び上がるジャンプだったから。

 綺麗に二回半回って降りてくると、すぐにまた複雑に足を動かして、リンクの端から端まで移動していく。



 心臓が跳ねた。

 人間のかたちをもった、人間ではない何かが全ての音を従えて氷上に舞い降りた。



 私はその子から目が離せなくなった。

 自分のなかで、強い、今まで湧き出たことのない欲求が生まれた。

 あのおにいちゃんと同じことがしたい。あのおにいちゃんみたいにするすると滑りたい。――もっといえば――

 一向にリンクを出ようとしない私に父がたしなめる。


「雅、邪魔になるから出てなさい。またあとで滑らせてあげるから」

「……やだ」

「いいから。いうことを聞きなさい」

「やだっ!」

「雅!」


 叱責の声が、だんだんと大きくなる。でも、それでも。


「――あのおにいちゃんと一緒に滑りたい!」


 その欲求を抑える術を、私は持っていなかったのだ。

……父の言うことはもっともなのだ。今は、スケートクラブの練習時間で、しかも今日は何時も以上に氷の上に人が密集している。


 だけどその時は、どうしても氷上から出たくなかった。


 あのおにいちゃんよりもきれいに、上手に滑る人はいっぱいいる。だけど。

 鋭い足さばきのステップに、姿勢のいいゆったりした後ろ滑り。人の合間を縫って、跳んで回って、ステップステップステップ……。重なりあった人の声、鋭く氷を削るエッジの音、体から発生する風のうなり声が、彼の滑りに従者として加わっていく。

 ただ前向きに滑るだけじゃないんだ。私には彼の滑りから、全ての音が生まれているような気さえもした。

 私が言うあの子の姿を、父が確認する。それでも答えは同じだった。


「早く出なさい!」

「……なんでわたしは、今みんなと一緒に滑っちゃいけないの?!」


 本当はこういいたい。何で皆に教えるように、私には教えようとはしてくれないの? と。氷の上にいさせてくれたけれど、父さんがしてくれたのはそれだけだった。


「まーいいじゃないですか、星崎先生。テツ、ちょっと雅ちゃんと一緒に滑ってあげな」


 私のわがままに本気で父が怒りそうになったころ、一人の若い男性が近づいて、軽く言葉をはさんでくれた。よく言えば明るく響いて、悪く言えばしまりのなさげな声でもって。背が高くて、端正な顔立ちの人。……見覚えが、あるような、ないような。……なんで私の名前を知ってるんだろ。


「君は余計なこと言わないでよろしい。それに、この子のわがままで哲也君の時間を割いてはいけません」

「あー先生、その辺は大丈夫。後でその分、俺がみっちりやらせるから。俺に免じて滑らせてやってください」

「……今回だけですよ」


 仕方がない、という体で父が引き下がった。


「雅ちゃんだよね? しばらく見ないうちに大きくなったなぁ。俺がいたころは年少ぐらいだったもんね。覚えちゃいないか」


 わしゃわしゃと大きな手で頭を撫でられる。

 そんなことを言われているうちに、あの子がやってきた。女の子みたいに綺麗に整った顔をしているのに、立ち姿や醸し出す雰囲気は間違いなく男の子のものだ。女の子特有の、柔らかくて甘ったれた感じが微塵もない。


「こんにちは」


 やっぱり甘さのふくまれない、氷、もしくは、ぴんと糸が張られた弓のような、凛とした声。落ち着きがあって、姿勢が良くて、妙に堂々としている。


「こ、こんにちは……」


 急に、頭が冷えてくる。さっきまでの自分が恥ずかしくなってきた。聞かん坊のようにわめいて父を困らせている私の姿を、彼はどう思っただろうか。

 冷静になれば、私がどれだけ願っても、彼の意思が伴わなければどうにもならない。そしてその可能性は低いようにも思われた。ちゃんと習ったことがなくて、前向きにしか滑れない私に、どうして合わせて滑ってくれるのだろう。

 だからびっくりした。


「滑るんだろ。あんまり時間ないよ」

「で、でも。わたし、前向きしかできないよ……」

「最初はだれだってそれしか滑れなかったよ。俺も、堤先生も、君の父さんも」


 ――内心はどうであれ、嫌な顔せずに手を出してくれたことに。


「滑るの、滑らないの。早くしてくれ。俺だって暇じゃない」

「――滑る!」

「じゃ、行くよ」

「え。ちょっと待っ……!」


 私の手を取って、彼は駆け出した。一歩、二歩、三歩目でトップスピードに。



 周りの景色が変わった。



 速い。当然だけど、こんな速さで滑れたことなんてなかった。

 運動神経と体力にはそこそこ自信がある。短距離走はクラスで一番早かったし、冬のマラソン大会では学年で5本指にまで入った。

 でも、この速さは陸上でのそれとは全く違う。足を動かすごとに、つるつるした氷が少しばかり力を貸して、初めての景色を見せてくれるのだ。目の前のものが、あっという間に後ろに通り過ぎていく感覚。自分が滑る音と、周りの雑音の全てが溶け合う。凄い。本当に、自分が風になったみたいだ。見慣れた60×30メートルのスケートリンクが、大きいもののように感じた。その広すぎるリンクを目いっぱいつかって、銀色の世界を駆け抜ける。


 これがみんなのいる世界。

 これが――彼のいる世界。

 ひとつの滑りが、全ての景色を作り出す世界。

 全ての音が、ひとつの滑りから生まれるような錯覚を生み出す世界。


 握ってくれた手のあたたかさを意識する。

 ――このときだけ、わたしは皆と同じになれたのだ。

 嬉しくて嬉しくて、同時に――とても悲しくなった。

 今の私にとって、この手は、この世界にいるための唯一の魔法だ。氷の上で、何一つ満足に出来ない私は、この手を放したらもういられなくなってしまう。


 そんなの嫌だ。

 もっと速く滑りたい。もっと、もっと長く滑っていたい。もっと――


「あっ!」


 その考えがいけなかったらしい。意識が思考へとシフトしていたら、削られて出来た氷の溝にはまって、前のめりに盛大に転んだ。その瞬間にするっと離してしまった。

 しっかりと握ってくれていた彼の手を。

 頭を打つのは避けられたけれど、代わりに右ひざを強く打ってしまった。


「立てる?」


 なかなか起き上がれない私に、さっき握っていた手と同じ右手を彼が差し出してくれた。涙が出そうになる。……膝の痛みよりも何よりも、私自身の現状に。


 あの景色は全て消えて、現実の世界に戻された。

 もう一度その中に入ろうとしても、私にはその力がないのだ。


 それでも泣きたくなくて、必死にこらえた。みっともない顔なんて見られたくない。大丈夫だよ、と彼に向かって呟いて、慌てて立ち上がった。


「膝、見てもらった方がいいよ。一緒に行こう」

「これぐらい大丈夫」

「泣きそうな顔してるのに」

「これは……違うもん」


 何でもないし、心配されるほどのことじゃない。ただ何も言えず、押し黙っているうちに、


「ほら、行くよ」


 再び彼が私の手を取った。さっきよりは冷えてしまっていた手で、やっぱり離さないように、しっかりと。

 ――その手を感じながら、私の中にひとつの決意が生まれたのだ。



 その日の夜。


「本当にやるの?」


 思い切って父に言った。私もフィギュアがやりたい。だから、私にも教えて。

 ――私をあの世界に入れてくれたあの子に、もう一度会いたい。あの中の住人に、わたしもなりたい。リンクを目いっぱい使って、常人にはわからないあの景色を見ていたい。……勿論、これは父には言わなかったけれど。


 反対されるだろうかと恐れていた。だが父は、やるの? と何回も確かめたけれど、駄目だとは言わなかった。ただ私の意志が、どれだけ固いかを確認するだけだった。


 昼の、私のわがままには一切触れず。


「わかった。だったら父さんは止めない。やろう。そのかわり、練習の時父さんは鬼になるよ。知っているよね? それでもいい?」


 大きく頷いた。

 もう一回、あの子にあいたい。競技会に出れば――スケート選手になれば、絶対に叶う筈だ。

 最初は滑ることから根本的に直された。先ずは前向きで、綺麗な円を描くところから。片足を上げたままもう片方の足で滑り、そしてバッククロスで後ろ向きの練習。スリーターンから始まる簡単なステップ。同じ図形を描くコンパルソリーを、一日2時間はやった。


 鬼になる、というのは比喩ではなく、少しでもずれるとすぐに叱責が飛んできた。パイプ椅子は投げられなかったけれど、態度が悪いと問答無用にリンクから上がらされた。どのスケーターにもいえる事だけど、滑るほどに体にあざと凍傷が刻まれ、足の裏に至っては外反母趾気味に変形して、遊んでいた頃とは比べ物にならないぐらい固くなった。


 でも、それでも。

 あの子と同じ舞台で滑れるなら。またあの子に会えるなら。だれが鬼になってもかまわなかったのだ。



 *



 ……私が競技会に出場する前に、その機会はやってきた。初めて彼と出会った頃から、2年が経過していた。


「釧路のリンクには思い入れがあるから」


 そうつぶやいた父に連れられて、横浜から東京羽田空港に向かい、一路釧路空港まで。父が言うには、父が最初に乗った氷だったらしい。

 釧路空港のシンボルのタンチョウが迎える中、タクシーで目的地へ。


 ……アイスリンクだった場所はもう、建物は崩されていて、青々とした空の向こうが見える。湖のような、だけど湖にしては底が浅すぎる。薄い膜がおおわれた透明な何かが地面に広がっている。



 そこにただ一人、彼がいた。



 半壊され、氷が外にむき出しになったスケートリンクを、一人の少年がいつまでも見つめている。黒髪に、線のほそい体。少し大きくなったけれど間違いなく彼だ。ただじっと。何も言わず。

 まるで自分自身が痛みを負ったような痛々しささえも感じられた。

 その姿にかける言葉なんて、何も見つからなかった。

 氷にタンチョウが集まっていた。白と黒のタンチョウは、氷の上で戯れては、再び空へと飛び去っていく。羽を羽ばたかせて、何羽も、何羽も。

 最後の一羽がひときわ大きい音で飛び立った時。



 ようやく彼が顔を上げて、私の眼をとらえた。



 *



 ……堤先生の提言と父の助力もあり、育った氷を奪われた彼――鮎川哲也は、神奈川県横浜市にやってきた。フィギュアスケートを続ける。ただその為に。


 横浜に来たてっちゃんが先ず驚いたのが、リンクでの人口密度の高さ、そして体育の授業でスケートがないことだった。当たり前に滑れていた環境がなくなり、滑れる環境はあれど自由度は激減したのだから、当然と言えば当然だった。


 横浜にやってきたてっちゃんのスケートは、悠長に瞬きをしていたら置いて行かれるほど、上達していくのが速かった。トリプルアクセルの習得には彼も苦戦をしていたが、数か月でキレのある着氷を手にしていた。


そしてそのシーズンに、世界ジュニアのタイトルを獲ったのだ。

生まれ持った豊かな才能に、それを上回る本人の努力。技術力でも、シニアで通用していけるものになっている。


……何故だろうか。彼が滑るたびに、私は、あの、最初に出会った頃の、雑音すらも滑りと調和してしまうような何かが、失われてしまった気がしたのだ。


 私はてっちゃんのジャンプが好きだ。高くて、流れのある着氷に綺麗に伸びたフリーレッグ。初めて見たダブルアクセルから、あんなふうに飛びたい、あんなふうに美しくジャンプを決めたいとずっと思ってきた。ジャンプだけじゃない。スピンも、ステップも。


 でも。本当は。

 自由に楽譜を描く作曲家のように。鍵盤を綺麗なパッセージで駆け巡る、光る音の粒のように。……本当は、もっともっと、音に寄り添い、一体化できる選手なのだ。


 ただ勝ちに固執する選手に、あれだけ惹かれるものなのだろうか……。



 もしかしたら、あの氷と共に奪われたものだったのかもしれない。

 あの瞬間から、彼の中で、スケートに対する意識が明確に変わったのだ。



 *



 ――だから今の――これから演技を始めるてっちゃんの立ち姿を見て、

 内心の闘争心は隠しきれていないのに、原初のころに感じた美しさが、余すことなく宿っている気がしたのだ。



 ……そして。

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