9.群浪と牧神 ――2015年3月8日 その1【前編】
今、目の前で最終グループの1番滑走、カナダのアーサー・コランスキーがノーミスで演技を終えた。引き上げる彼と入れ替わりに、2番滑走のジェイミー・アーランドソンがリンクイン。……アーランドソンの青い衣装が、妙に目立つ。というか、笑える。正統派に王子様仕様のコランスキーとは大違いだ。
コランスキーのショートはニーノ・ロータの映画音楽『ロミオとジュリエット』。そしてフリーは、Pピョートル・チャイコフスキー作曲『幻想序曲 ロメオとジュリエット』。同じテーマのものを、違う作曲家の曲で滑った。
昨日パンクさせたルッツジャンプも、今日は両手を上げて綺麗に着氷した。スピード感あるスケーティングに、軽いフットワーク。そして豪快で滞空時間の長いジャンプ。
均整のとれた体に高い身長、そして甘いマスクに目が行きがちだが、高い基礎力に裏打ちされた技術――特に、大きいジャンプや、フェラーリが走っているのではないかと思ってしまうほどのスピードは特に注目したい。
同じロミオとジュリエットというテーマを選んでいるが、ショートとフリーできちんと演じ分けられているのが凄い。ショートではジュリエットに愛をささやくロミオ、フリーでは愛に暴走したロミオと表現すれば分りやすいか。曲の特性を考えれば妥当な表現法だ。
……隣に座るコーチは父親だ。ウラジーミル・コランスキー。アルベールビル、リレハンメルの二大会五輪の、ロシアのペア代表、そして95年世界選手権金メダリスト。こうして並ぶと確かに、コランスキーは父親に似ている。……シングルでも勿論やっていけるだろうが、高い身長からしてペアにも十分向いている気がしている。そしてペア転向の噂もちらちらと。
「……あれだけ見に行かない方がいいって言ったのに」
隣の杏奈が不満そうにつぶやく。
「杏奈は練習してなよ。私に付き合う必要ないって」
……私は私で、ずっとそう言ってるのに。
「……朝2時間練習したし、今更何か変わることなんかないわ」
あまりにも気になった私は、女子の試合が直後だというのに男子フリーの最終グループだけ見に行った。……やめろという杏奈の言葉も聞かないで。
そうしたら何故か、杏奈まで「私も見に行く!」と言いだしてしまった。この状態を見たらコーチはおろか、一緒に来たスケート連盟のお偉いさんも青筋を浮かべる事だろう。朝の練習は杏奈と同じようにやったけど、アクセルがやっぱり……という感じだった。
昨日のてっちゃんとの最後の会話を思い出す。……てっちゃんが言っていた可能性とやらは、私には感じない。夢のまた夢だろう。ダブルでさえ満足にとべないのだから。第一、そのジャンプは練習してはいるけれど、本番では試したこともない。練習で一度も成功させたことがないものを、どうして本番で入れることが出来る?
コランスキーの点が出る。最終組第一滑走で、暫定1位。
――ヴォルコフの滑走は5番。てっちゃんの滑走は……その次だ。
あの噂自体を知っている人間は少ないだろう。一部の記者と――私たちを含む、ごく一部の選手。
この眼で確かめたい。
今大会、そのジャンプを準備している選手は一人もいないのだから。
*
2番滑走アメリカのジェイミー・アーランドソン。
ショートでヴォルコフに次ぐ2位だった彼は、一歩一歩の滑りが大きく、力量を感じさせるスケーティングが特徴。ジャズの定番曲の『SingSingSing』に乗せて滑った昨日のショートでは、プログラムコンポーネンツの「Skating Skill(スケート技術)」の部分で、ヴォルコフを押さえて1位だった。
元々スケーティングには定評があったが、このシーズンはコンパルソリー(規定)を重点的に練習してきたと耳に挟んだ。よく見るとエッジが去年より、より深く、それでこそ倒れそうになるぐらいの角度で滑っている。
だが、冒頭に予定していたトリプルアクセルはタイミングが合わなかったのか、ダブルになった。……今まで見てきた感じでは、元々苦手なジャンプっぽかったけど。
他にも比較的優しいジャンプのサルコウでステップアウトしたり、ルッツからの3回転+3回転がダブルになったりなど、こまごまと失敗はあった。
……失敗してもスピードはそのままに。その他の失敗は、後半の1.1倍されるトリプルアクセルや、3回転+3回転+2回転のコンビネーションなどでリカバリーされていた。
跳び直しや再チャレンジが許されるのがショートとの違いだろう。前半に多少ミスっても、後半次第でマイナスをひっくりかえせることもある。今回がまさにその例だ。
最後の要素はダブルアクセル――から直接シットスピン。額を腿にぴったりとくっつけ、足替えでさらにシットスピン。オーソドックスだが足替えがスムーズで、一つ一つのポジションは非の打ちどころがない。お手本のように綺麗だ。
曲は『スパイダーマン』。アメコミ原作の映画音楽に乗ってノリノリに踊りまくった。
フリーはノーミスに滑ったコランスキーに軍配が上がったが、ショートの差もあって総合得点では上に出た。
コランスキーにせよアーランドソンにせよ。シニアでも十分通用していけるだけの得点を頂いている。――シニアに上がった後、ヴォルコフだけではなく、この二人もてっちゃんの強敵になるだろう。
アーランドソンの後は、ショート6位イタリアのマウリッツォ・ポールマン、3位ドイツのミハエル・シューバッハと続いた。二選手とも、ノーミスのコランスキーはともかく、ミスが散見されたアーランドソンと比べても滑りが重い。ポールマンに至っては2回転倒した上にザヤッた。
ザヤるというのが俗語だが、意味はこういうことだ。同じジャンプ――今回のポールマンの場合はダブルアクセルを3回飛んでしまって、最後のジャンプがノーカウントされた、ということ。ダブルアクセル以上の難度の高いジャンプは、ひとつのプログラムにつき2回までしか飛べない。
……恐らく最初のアクセルを転倒した時、フリーのジャンプ構成が頭から飛んでしまったのだろう。
二人が本来の演技ができなかった理由はそれぞれ違うと思う。ポールマンは昨日のショートと今日の演技をみたところ、どうも彼は極度の緊張しいのようだった。今回もそれが現れてしまっただけだろう。シューバッハは……初出場でなまじショート3位と成績が良かった分、襲ってくるプレッシャーが強かったのだ。
4人終わった時点で、アーランドソンのメダルが確定。コランスキーは残りの二人――ヴォルコフとてっちゃん次第だ。
*
真っ黒の衣装。純白と透明のビーズ、もしくはスパンコールがただシンプルなだけではなくさせている。杏奈のショート、『ムーラン・ルージュ』の『ボレロ』と似たような衣装だ。薄い胸板や華奢すぎる足など、成長途中のボディーラインが浮き出ている。全身タイツと言った方が正しい。……見てはいけないものを見てしまったような未成熟な色気がある。
というか……。
――得体のしれない、何か。
ジュニア離れ? 王者の風格? それとも……。
『On the ice……』
氷の化身か。
リラックスしきった顔ではなく、普段通りの表情。
名前のコールと同時にまばらな拍手。四方の観客席からは、苦くてあまい飴玉を口の中に含んだままじっと見つめているかのような緊迫感さえ感じられる。おとといのショートから、今日はいったい何を見せるのか。
そんな緊張と、期待。
……私の口にも、その見えない飴玉があるのかもしれない。
スクリーンに使用曲が表示され――目を疑った。
ジュニア離れしているっていう話じゃないだろう。
その飴玉をばらまいた少年がゆっくりとリンク中央に向かい、最初のポーズをとる。
一瞬の静寂から。
柔らかいフルートの音色と短く円を描くイーグルが重なる。音を紡ぎだす指先。
……湖のほとりで、夢の中で戯れていた牧神がまぶたを開きだす。――そんな光景を想起させる。
右足のバックアウト、スリーターンなどの細かいステップから、バッククロスでトップスピードに。
リンクを半周する長めの助走。フォアに向いた瞬間、理解した。アクセルのそれとは違うことを。
今から跳ぶ。そして彼は、そのジャンプを当たり前に飛べるのだ。
右足のスリーターンから後ろに向き直り――
氷の屑が、飛び上がったヴォルコフの周りを舞った。
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