8 .苦い勝利  ――2014年3月10日


 2013‐2014シーズン。


 全日本ジュニア優勝、全日本選手権6位。国際大会のジュニアGPファイナルでは2位。

 これらの実績を引っ提げて出場した2014年世界ジュニア。場所はエストニアの首都、タリン。

表彰台はファイナルで優勝したアメリカのジェイミー・アーランドソンと、3位カナダのアーサー・コランスキーと争うことになるだろうと予想されていた。……少なくとも北米と日本のメディアでは。


 この大会でのロシアの男子枠は「2」。一人はジュニアGPで顔を合わせたアレクサンドル・グリンカ。17歳で、次シーズンからシニアに上がる予定。ロシア人らしい深いエッジのスケーティングと豪快なジャンプが持ち味の選手。技術は相当なものだが、あがり症なのか本番に弱く、過去3回出場した世界ジュニアでの最高位は7位だった。


 もう一人は全くの無名の選手だった。聞いたこともなければ姿も見たことがない。エントリーで分かったのは年齢。大会最年少だということだけ。


 誰が出場しようが関係ない。その時に出来る、最高の演技をするだけだ。

 大会が始まった時点ではその無名の選手について、何も考えもしなかったのだ。



 *



 147.28.

 ――会場がざわついている。歓喜の拍手もあるが、それ以上に戸惑いの方が強い。周囲に困惑と驚愕を与えた張本人は、太めの女性コーチと共にキス&クライに、演技が終わった直後だというのに眠そうな顔で座っている。彼のショートは6位だった。


 電光掲示板に表示されている点数が無名のジュニア選手に与えられているとは信じがたい。しかしながら、点数に値するだけの演技をしたのもまた信じがたい事実だった。


 隣に座るのはアレーナ・チャイコフスカヤ。弟子と違ってとても満足げな表情を浮かべている。幾人かの世界王者、もしくは五輪王者を育ててきた名コーチ。指導者として30年以上のキャリアがあり、あらゆる選手の、あらゆる才能を見出し、育て上げ、世界に送り出してきた。彼の出場は、噂によるとチャイコフスカヤコーチの熱烈な推薦があったらしいが、真偽のほどはわからない。


 彼の次滑走が俺だった。だから、演技の大半を見てしまっていた。

 運の悪いことに。


 彼のショートの演技は、俺の滑走の後だったので控室で確認した。ひとつは大きなミス、一つは小さいミスを犯した彼だったが、確かに才能は感じられた。その隣に座るのが名コーチなのはいささか違和感を覚えた。だが。

 ……首を縦に振るほかない。あらゆる才能を見慣れたチャイコフスカヤコーチにして、彼はそこまで惚れ込む素材だったのだろうと。


 公式練習の時も、6分練習の時にも滑ったリンク。20分前に滑った時は何もなかった。ただ、いつも通りの練習を続けただけだった。普通に滑ることを考えただけ。


 いざ演技の為に氷上に立つと。今を取り巻く現状の数々が襲ってきた。


 ショート1位で、一番上のメダルが狙える位置に来ている事。このままミスなく演技出来れば、他者がどんな演技をしようと表彰台は固いだろうと。


 ――先ほど滑ったアンドレイ・ヴォルコフの演技が頭をかすめる。


 鏡があるスケートリンクは少ない。大会を行う会場にはないだろう。もしこの場に鏡があれば、唇が青ざめた自分の顔を確認することが出来るだろう。勿論、寒さだけが原因ではない。


「この状態で明日緊張するなっていう方が無理だから。でも、緊張しきった状態でも練習のように体が動くかもしれない。考えすぎないようにね」


 これが先生からショート終わった直後に頂いたアドバイスだ。

 考えすぎない。いつも通り。


 先生の声とアナウンスが被った。近くてぼやけた言葉と、会場全体に響くコール。心臓が早鐘を打っている。深呼吸を必要以上に繰り返す。先生の言っていることは全く聞き取れないが、アナウンスの声まで輪郭を失ったように聞こえる。それだけ視界が狭窄きょうさくしていた。


 ……珍しく緊張している。

 考えすぎない。いつも通り。

 そう心の中で唱えれば唱えるほど、心臓はおさまることを知らないらしかった。



 *



 端的に言えば。

 先生の言う通り、緊張していた割に最初の方はよく滑れていた。トリプルアクセルからのコンビネーションを難なく降りた。3回転+3回転も若干着氷に詰まったが、ミスらしいミスではない。


 問題は後半だった。


 演技後半のトリプルアクセルと3回転ルッツで転倒。ルッツはロングエッジ判定を受けたうえでの減点だった。ルッツジャンプはずっと苦手で、ショートのジャンプ構成には入れなかった。このシーズンの単独ジャンプの規定はループだったから。


  ……後半のトリプルアクセルの時。跳ぶ前に一瞬、何かが途切れ――


 気が付いたら臀部が氷の上に乗っていた。

 かすめたのは欲か。それとも前滑走の選手の、完璧なジャンプか。どっちでもいい。失敗したのは変わらないのだから。


 ただでさえ後半は足に乳酸がたまる上に、転倒は体力を奪う。後半の2分間精彩を欠いてしまったことは否めない。ステップでも大いに点数をこぼしてしまった。前半が悪くなかったとはいえ、印象は良くないだろう。


 ショートでは完璧に終えた俺に対し、コンビネーションが3+2になりトリプルアクセルがアンダーローテション判定(基礎点の7割の点数が与えられる)されたヴォルコフ。ショートの段階で、彼と俺との間は10点以上差が開いていた。


 キス&クライから立った後、モニターで最終滑走のグリンカまでの演技を確認した。俺は最終組2番滑走。残り4人選手が残っていたが、誰もヴォルコフのフリーを超えることが出来ない。


 ショートプログラム1位、フリースケーティングは3位。

 合わせて、銀メダルを獲得したヴォルコフとの合計得点での差は、0.17。


 ……僅か1点にも満たない差で、アンドレイ・ヴォルコフの追撃をかわした。


 表彰台の左側に立ったヴォルコフの背丈は、俺から見てもかなり小さくて細い。こんな小さい選手に、4分滑りきる体力があるとは信じがたい。

 そんな選手に、4分間、誰もが負けたのだ。




 日本では数年ぶりに現れた世界ジュニアのチャンピオンで、次世代のエース候補とか報道されていたらしい。数件の取材を受けたが、その辺りはテレビを見ていないからよくわからない。新聞には淡々とした結果しか書かれていなかったし、こういう浮かれた報道をするのは大体テレビ局という相場が決まっている。


 しかし。

 世界の見解は違っていた。


 俺は毎年現れる世界ジュニアのチャンピオンでしかない。そしてワールドジュニアタイトルをとっても、シニアに昇格したあと駆け上がれないまま引退してしまう選手だって決して少なくない。潰れる可能性も否定できない。所詮はその程度だ。


 彼は――アンドレイ・ヴォルコフは。


 まだ眠っているような演技だった。だが、その才能の迸りは隠しきれない。確かな基礎力。女子選手顔負けの柔軟性。機械のように正確で、小柄な体からは想像がつかない程高くジャンプ。


 確かに機械的で味気なく、技を淡々とこなしているだけだったかもしれない。だが、ぼんやりと氷上に立つだけで、銀盤以外のものを連想させない程の説得力が、余りあるほど補っていた。――滑るだけで表現力、と言わしめてしまう何かによって。


 北米、特にアメリカでは才能のある選手が毎年山のように現れては、その中から選ばれた選手が世界ジュニアの上位をかっさらっていく。まさか、今までろくに大会に出たことのない選手に負けるとは思ってもいなかったのだろう。


 フィギュアに明確な国境がなくなってきたにせよ、未だに北米とロシアの関係は良好とはいえない。大会後の北米スポーツメディアは苦い顔、もしくは反感を彼に持っていた筈だ。アメリカのコメンテーターはヴォルコフのショート、サン=サーンスの『白鳥』に対し「女子選手が混ざっているかと思った」と皮肉を連発し(これは彼のショートでのコンビネーションが3+2になったことも影響しているだろう)、フリーでのラヴェルの『ボレロ』を見て「非常に薄っぺらく表面的なものしか描いていない」とこき下ろした。たしかにジュニア選手には極めて難しい曲ではあるが……あの演技を目の当たりにしてこんなことがはっきりと言えるのかと、皮肉ではなく感心してしまった。


 だがその根底には、得体の知れない彼への恐れがあった。その恐れ――演技に対する称賛を書いたロサンゼルスのトリビューン紙は「しばらくの間『ボレロ』を滑る選手はいないだろう」「そう遠くない将来、アンドレイ・ヴォルコフが世界の頂に上がるだろう。」と纏めていた。


 あの大会は誰が優勝しようが関係ない。ヴォルコフがフリープログラムを滑り出した瞬間から、彼が主役の大会になったのだ。

 アンドレイ・ヴォルコフ。

 底のない怪物は自らの名前を、目にしたあらゆる人間に刻みつけた。



 帰国後も苦い顔で練習した俺に、先生はこう言った。


「昔だったら3位以下に落ちてたね。でも、それが今のルールのいいところだよ」


 確かにフリーで2回転倒しようが自分の演技に納得しなかろうが、勝ちは勝ちだろう。フリーがダメでもショートが良かった。それで2回転倒で優勝したことを周りから責められ、なじられても、知ったことではない。それが今のルール。ひとつひとつのエレメンツが数値化されるところの利点だ。前までの採点法では、こうはいかなかっただろう。


 ショートでアドバンテージを取れたことも、両方の点数が合わさり、僅かの差で上に行けたのも一つの強さの証明だ。

 だから、よく見ればなにも問題ない。

 それには理解できる。実際そういうものだから。


 だが、全く嬉しくなかった。


 ……順位や点数の問題ではなく、あんなものを見せつけられて、喜べというのが無理な話だ。


 彼への苛立ちか。緊張に打ち勝てず、フリーでふがいない演技をしてしまった自分への苛立ちか。

 ――才能の差か。もしくは、半分寝ている彼に対する本能的な恐れか。

 恐らく全て当てはまり、全て違っている。


 もうこんな苦い勝利はしない。そのためには次に見えた時は、必ず完璧な演技で上に立つ。

 そう決意して以来、首にかけた金メダルは引き出しにしまってある。


 世界には震撼を、俺には苦いものを残した眠れる獅子は――

 そのまま1年間姿を消した。



 *



 ――状況は去年と真逆。


 睡眠は若干足りてないものの、緊張はなかった。ただ背水の陣という現実がこれからの演技に対する心を駆り立てる。右足も何とか落ち着いている。

 もっとも緊張していないからといって、いい演技が出来るとも限らない。……去年の苦い金メダルで学んだことの一つだ。まして今回は怪我まで付いているのだ。

 第三グループ、最終滑走の選手の点が表示され――

『Skater's in final group. Please start to warm-up.』

 先ずは英語で。その次にオランダ語でのアナウンス。

 一番初めにジェイミーが、次にドイツのシューバッハがリンクに降りた。そして最後に俺が左足から氷に足をつける。ブレード越しに、固く冷たい感触。最後に滑る頃には違ってくるのだろう。



 ……男子シングルフリー、最終グループが始まろうとしていた。

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