7.明日の話はしたくない ――2015年3月7日 その3
女子ショートは意外な結果で終わった。
杏奈が終わった後も、バックヤードのテレビで最後の選手まで確認した。
最終グループの選手が目立ったミスなく滑るたびに私の順位が下がっていく。レベッカをはじめとして、中国の選手、アメリカの選手、ロシアの選手……。
その現状は、自分の滑りに不満はなくても切なくはあった。でも結局は、それを経験として自分を成長させる材料にしていけばいい。
そうてっちゃんと話し込んでいたら。
「ハイ……」
背後からディズニー的な可愛らしいハイトーンが響く。……うげ。そういえば、こいつもアメリカ選手だった。私の後に滑った選手じゃないけど。
アメリカのジョアンナ・クローン。一目見ただけで……気分が一気にしぼんでいくのが分かった。
茶色が入った金髪。色白の長い手足。容姿はというと、マリリン・モンローを健康的なアメリカンガールにした感じと言えば分りやすいか。男女問わず誰とも仲のいいシングルスケーター。……なのだが、私は何故かこの女が苦手だ。ほとんど言葉が通じないにも関わらず。
ショートは私の一つ上の、7位だったはず。本来の力が出せたなら、杏奈やマリーアンヌに次ぐ順位に入っていただろう。何かミスったのかもしれない。本当にこの競技は水物だと思う。
彼女は、他の人間と同じように私を気さくな微笑みでもって見ているつもりなのだろう。だが、私は肌で感じるのだ。彼女が、私を見る時たまに、険のある表情を見せるのを。……だから苦手なんだよ。
てっちゃんはブロークンだがそれなりに英語が話せる。かたやネイティブ、かたや日本語鈍りの会話が続く。何と話しているかは解せない部分があるが、スケートに関する部分だけは何となく分かる。……成程、ルッツで転倒したらしいと噂されたアメリカ選手ってのは、彼女のことだったのか。
てっちゃんが、杏奈やレベッカや、他の誰と話そうが何とも思わない。だけど、ジョアンナだけは別だ。何となく面白くないのだ。この二人が話し込むのを、何となく見たくないのだ。この女は、多分、何かある。てっちゃんに対して。そして私に対しても。前者は好意的な感情で、後者は反対のものだ。敵意、とも言っていい。
別にてっちゃんが誰と付き合おうがかまわないけど……。
……大会中に私は何を考えているんだか。
が、私としてもこれ以上気分が悪くなるのもいやなので、てっちゃんとジョアンナから離れることにした。ジョアンナは私が離れるや、私がいる時には決して見せない輝かんばかりの笑顔をてっちゃんに見せた。……ような気がした。
……てっちゃんのバカ。
何となく釈然としない、いや、完璧にぶすくれた心境でホテルの廊下を歩いていたら、何故か視界が暗くなった。
「だーれだ!」
……耳元に明るい声。私の眼を塞いでいるのは、その声の主だ。
私にこんなことをするのは、この大会には二人ほどしか来ていない。一人はレベッカ。もう一人は……
「声で分かるよ、杏奈」
「あたりー! お互いにお疲れ様!」
振り向くと、公式記者会見を終えた安川杏奈が、私の真後ろで満面の笑顔を浮かべていた。腰まで長い黒髪に、黒目がちの瞳。長い手足に、年の割に大きい身長は滑っているだけで見栄えがしてくる。これからもう少し伸びるかもしれない。でも私が一番好きなのは、声だ。
杏奈の声は不思議だ。明るいのに深くて、鋭角的じゃない。凄く落ち着きがあるのだ。……ジョアンナの登場で濁った心の澱が、杏奈の声一つであっという間にきれいになっていった。
「ショート見てたよ。……凄かった。おめでとう」
何も考えもなく、口からするっと出てきた。……お世辞じゃない。それだけ凄いことを、杏奈はやったのだ。
満足げな顔を見せる。
「腹痛は大丈夫?」
「うん。水がちょっと合わなかっただけだから」
ショート前までの不安要素も払拭出来たみたいだった。……そういえば前話してたっけ。杏奈は、海外に行くと最初は体調崩すことが多いって。
元々癖のないトウジャンプやコンビネーションが得意だったけど、まさかセカンドをループで、それもショートで持ってくるとは思わなかった。全日本の時はトウループだったから、3カ月内中でめっちゃ練習したのだろうけれど。
……それだけ悔しかったのかもしれない。今までずっと、中央のマリーアンヌの隣に立っていたのが。
同じレベルのノーミスとノーミスが争えば、あとはジャッジの采配と運しか待つものがない。これで杏奈は、名実共に優勝候補だ。勿論余計なプレッシャーを与えたくないから、口には出さない。私まで過度な期待をしてはだめだ。
全ては明日次第。私の演技が明日どうなるか、杏奈が今どんな心境でいるかは全く分からない。
だけど……
「オランダって言ったらチーズ食べたいんだけど、明日のフリーが終わったら食べてみない?」
「え、絶対そんな時間ないよ。第一、店に行くにも言葉が通じないじゃん」
「大丈夫よ。いざとなったらレベッカも一緒に連れて行きましょう。私この間雑誌で見たんだけど、ミッフィーちゃんの形をしたゴーダチーズを売ってる店がこの近くにあるらしくって。気になってるの」
杏奈の突然の一言から、廊下で談笑を始める。レベッカを連れていく気か。大体チーズって……。そりゃあオランダはミッフィーちゃんとチーズの国だろう。が……
もしかしたら杏奈は、プレッシャーを感じないように、演技のことを考えないように、わざとはしゃいでいるのかもしれないけれど。
杏奈の拠点は名古屋。私は横浜。大会や合宿以外で顔を合わせる機会は、ないと言えばない。
今だけはあんまり考えずに、私も、すこしは杏奈と久しぶりに楽しく話したい。
この一つ年上の友人とは、スケートを――競技としてスケートを始めた一年目、毎年長野で行われる合宿で知り合った。当時から私と杏奈は違うタイプのスケーターだったけど、私は杏奈の所作の美しさに憧れ、杏奈は私のジャンプの大きさに魅力を感じたらしい。……互いに違うからこそ、仲良くなれたのかもしれない。
スケート以外の共通の話題と言えば。レベッカとは日本のサブカルだったが、杏奈とはご飯とJ‐POPだ。あんまりプログラムとしては使えないけれど、私も杏奈もアジカンのファンだった。
その他にも色々、普段会えない分を埋めるように会話を続けた。メールは頻繁に送り合ってはいるけど、直接会うのとでは会話のペースが違う。
日常の事。学校の事。授業の事。最近聞いている音楽や見ているドラマの事。コメダ珈琲が練習しているリンクの近くに出来た事。友達と赤レンガ倉庫の近くで遊んでいたら、屋外リンクで引退した某有名スケーターがCMの撮影をしていた事。
そんな私たちの横に――
「……あ」
一瞬、緊張が走る。
人のかたちをした雪の結晶が通り過ぎて行ったからだ。
――アンドレイ・ヴォルコフ。
心なし、私たちの周りの温度が下がったような。勿論、それが錯覚だとは分かっている。しかし、そのような錯覚を抱かせてしまうような説得力がヴォルコフにはある。間近で見ると本当に雪みたいに白くて綺麗だ。
「……これから練習、なのかしら……」
同じホテルに滞在していたらしい彼が向かった先にあるのは、エレベーター。ここは二階で、上の階には用はないだろう。下の階に行くしかない。
昨日のショートを思い出させる。杏奈は男子ショートの時会場にはいなかったが、夜寝る前にオランダのユーロスポーツをたまたまつけたら、ヴォルコフの演技を見てしまったという。
スピードの落ちない、曲想にあったスケーティングにステップシークエンス。
流れのある完璧な着氷のジャンプ。
男子では珍しい、柔軟性のあるY字スピン。
……一人だけ別世界にいるかのような演技。
一目見ただけで、限りなく連想させる透明さ。それは何か、人間が存在する現世ではなくなにか別の世界なのかもしれない。
――明日のフリーで、ショート以上にそれを如何なく見せてしまうかもしれない。
「ねえ雅。私ちょっと、聞きたくない噂を聞いてしまったのだけど」
「何?」
「さっき公式記者会見あったじゃない。それが終わった後、戻ろうとしたら聞こえてきたのよ。……彼が跳ぶらしいって」
「跳ぶ? 何を?」
いやな話だ。女子の会見の後に、男子の、それもたった一人の選手の噂話をしているなんて。
跳ぶとは何を意味しているのか。
杏奈がわざわざ濁した理由。
すでにヴォルコフが、ジュニアでは難しいトリプルアクセルを難なく飛べている事実。
総合すると一つの結論にしか行き着かない。
すなわち――
「……まさか」
杏奈が頷いた。
……これは間違っても、絶対にてっちゃんに知らせちゃいけない話だ。
あり得ない。まさか、今の彼がそんな事が出来るとでも? しかし昨日のショートを見る限り、難なく飛んでしまいそうな予感もする。
もしそうなったとしたらこの大会で彼に勝てる選手はいない。……いないと思いたくない。いや、ただの噂であってほしい。そうじゃなかったら……。
「雅」
杏奈の手が私の手を握る。真っ黒な綺麗な瞳が、私を真正面からとらえていた。
「あなたが哲也君を凄く心配しているのは分かるけど、今は考えちゃ駄目」
さっきの明るい声から一転した、真剣なもの。
「私達は、私達に出来ることをしないと」
自分に言い聞かせるように、杏奈は言葉を重ねる。……後悔した。一瞬よぎった私の心を杏奈によまれてしまったことを。そして杏奈に、余計な気遣いをさせてしまったことを。
杏奈だって考えてしまうのだ。今だけは考えたくはないと感じても、終わるまでその順位や演技がちらついてしまう。その過程で得られる結果さえも頭によぎることがあるのだろう。
ヴォルコフを見るだけで、否応なく感じさせられた。私も、杏奈も。
「わかった」
……結局、大会中は緊張やプレッシャーからは逃れられない。
たとえ一時の微妙な心境があったとしても。
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