6.欲と勝負への拘り ――2015年3月7日 その2【前編】
今大会の男子シングルは、日程上フリーまでが一日空くことになる。テーピングをして公式の鎮痛剤を打ったところで、何とか痛みは静まってくれた。
現在、俺が一番持っている最高難度のジャンプは、トリプルアクセル。今シーズンはジャンプの矯正に念を置いていたから、クワド(四回転)には手を付けていない。
問題はルッツジャンプを抜くか否か。
ルッツジャンプは3回転の中で一番基礎点が高い。演技構成から抜くのは惜しい。……が、大事を取っておいた方がいいのだろう。
結局はほかの要素で追いつくしかない。SPでレベルの取りこぼしのあったステップとスピン。それから、最大の得点源であるトリプルアクセルを加点のつく綺麗なものを目指す。それに、これ以上の怪我を増やさないことだ。
ジャンプが3つ、それも飛び直しが許されないショートと比べて、フリーは得意だ。課題はルッツとレベルの取りこぼし。
周りからは、消極的だと言われそうだが、挑戦が許されない状態にこの手は、きわめて有効だ。……順位さえ、点数さえ、そして周りの選手さえ気にしなければ。
――だが、これだけだとあの天才に追いつくための決定力に欠ける。
「あんまり深く考えちゃ駄目だって。一年間滑ってきたプログラムをもう少し信じなよ」
今は練習用リンクで滑っている。会場では女子のショートをやっている筈だ。滑りながら策を練っていたら、先生からはプログラムの完成度を上げるようにと提言された。腕の動かし方、ジャッジの前で氷をガリガリ削らないこと、頭を上下に動かさないこと等。ひとつひとつの振り付けの意味を考え、丁寧に昇華させていくこと。これらに気を付けていけば、直接的ではないが、技術面だけではなく表現面で十分に点が稼げる。
先生の言う通り、底上げの可能性があるのは演技構成点の方だろう。振り付けを行ったのは六月。体にもなじんで、ジャッジから結構な高評価を頂いている。
……右足に負担を掛けずに。かつ、点をそこまで落とさずに完成度を上げる。
だが。ひとつだけ恐れるものがある。それはアンドレイ・ヴォルコフのフリープログラムだ。
フリーの4分間を滑りきる体力には問題はないだろう。去年最年少で出場していたが、最後までスピードが落ちなかったのだから。恐れるのは、彼が何の、どういったプログラムを持ち、どういう表現でもって滑りきり、それがどう評価されるか。何せ、今季最終戦にして初めて見えるプログラムなのだ。
普通プログラムは、試合を重ねてその都度競技を行っての感触やジャッジの評価を確かめながら完成度を上げていくものだ。
気弱に考えるのは好きではない。……あのヴォルコフのショートの点数を見てから、暗い予感がしてならないのだ。
自分の前の演技は基本的に見ない。だが、直前の選手が滑走している時、次滑走者はリンクサイドに控えている。必然的に、少しでも氷上のその様子が見えてしまう。
未熟さの露呈ではない。何かとてつもない完成度を持った、恐ろしいものを隠し持っている。そんな予感が消えなかった。
――フリーは最終組、最終滑走。
その直前の五番滑走が、ショート第一位、アンドレイ・ヴォルコフだった。
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