5.戦闘開始 ――2015年3月7日 その1


男子ショート終了後。ホテルが逆方向だというレベッカと別れたのち、堤先生と会う機会があったので、そこで少しばかり足の事を話してしまった。堤先生も6分練習でおかしいとは思っていたけど、どう説得したものかと迷っていたのだとか。


アスリートで負けず嫌い、というのは当たり前の事だと思う。たとえフィギュアが自身との戦いだとしても、同じ大会に出る誰よりも高いところにいたい、と思うのは選手として普通のことだ。ただてっちゃんの場合、その負けん気の強さが、人一倍どころか数倍強いところがある。悪いことではないけれど、時としてそれは勝負の邪魔になることがある。


まぁ、てっちゃんに関しては堤先生に任せるに尽きる。堤先生ほど、あの頑固なところのある幼馴染を理解している人間は、いないだろうから。

一晩経って、一方の私の方はというと。


 他人を心配している場合じゃない。かなり苛ついていた。

 朝の公式練習で、ダブルアクセルを5回トライして、5回失敗。全部転倒。


……飛べば飛ぶほど悪くなっていくという現状が、ここまでストレスがたまるものだとは思っていなかった。


「あーーーー!!」


 すぐ横を滑っていたカナダの選手が、私の奇声に驚いてジャンプをパンクさせた。彼女には悪いことをしたが、そんな事考えてはいられない。


 一昨日の時点では、スピードがありすぎるとステップアウトで、スピードを殺すとジャンプの飛距離が足りなくて転倒してしまう。


 だが今日は、スピードをつけると回転し過ぎて転倒しまうのだ。そしていつもの様に飛ぼうとすると……高さが足りなくなって回転が足りなくなり、俗に言う「グリ降り」で着氷してしまう。

 回転が足りずに無理やり着氷しようとして起こる現象で、勿論減点される。

着氷した際、回転が足りていれば着氷したところから、流れるような綺麗なトレースが描かれる。グリ降りの場合は、氷上に無理やり着氷した無様な後がハッキリと残ってしまう。


 原因が何か分からない。確かに昨日は、男子観戦のために練習を早く切り上げた。だが、昨日の練習不足が原因ではないだろうと思っている。……寧ろ、より多く飛んでいたら、今よりも悪くなっていたかもしれない。


体重。増えても減ってもいない。身長。変わってない。この辺りは何度も確かめた。アクセルの次に難しいルッツの調子。悪くない。ていうか、今までにないほどにいい。

 そう、全体のジャンプの調子自体は悪くないのだ。今の練習では、コンビネーションも3回転+3回転が決められた。それも、ショートでは関係のないルッツ+トウループの高難度のものが。


ただ、アクセルだけが決まらない。降りられない。綺麗に回りきらない。


 調子が悪いのがフリップやサルコウだったら、ここまで苛つかなかっただろう。ショートのジャンプ構成上使わないものだから。だが、アクセルは男女シングル共通のショートでの必須要素。必ず飛ばなくてはならない。このジャンプをもしパンクさせてでもしまったら、点数にも大きく響く。


「今は決まらなくても、本番で決まるかもしれない。慌てるな」


 確かに、いざ本番になって滑れば練習でずっと失敗続きのジャンプがすとんと飛べてしまう、ということは、結構よくある。


 だが。不安で不安でたまらない。私よりもずっと経験のある父の言葉も、気休めにしか聞こえてこない。……それはストレスや苛立ち以上に強く感じていることだ。

 会場では今、ペアのフリーが行われている。三時間後にはショートが始まるのに……。


 ぐるぐると流しながら一緒に練習している他の選手の様子を見る。杏奈もレベッカもいる。……杏奈は、昨日まで腹痛を出していたとは思えない程いい滑りを見せている。

 焦る。このままショートで失敗したら……という不安が募っていく。滑っても、他のジャンプが成功しても、その焦りと不安は拭えないでいた。





 不安要素を残したまま会場入りする。機嫌が悪いからか、化粧のノリもよくない気がする。6分練習中にもアクセルにトライしてみたが……まぁどういう結果になったかは、推して知るべし。


スカート衣装が多い中、緑色を基調とした私の衣装はかなり異彩を放っていた。


父は、何も言わなくなった。何か言ってくれた方が気がまぎれるかもしれないが、集中力を高めるためにも、会話はごく最小限でいい。何せ今回の滑走順は……。いけない。考えすぎるな、私。

ウォームアップ中にも、嫌な噂もいい噂も、あの選手の調子がどうこう、という声も聞こえてくる。……実はさっき、「星崎さん調子悪いっぽい」と日本人記者同士が話していたのを聞いてしまった。余計な話をしないで欲しいが、完全にシャットダウンできないのも事実だ。


演技を終えた選手が満足げに、もしくは思いつめた表情でプレスルームに去っていったりする。

噂という点では。第二グループで滑った表彰台候補のアメリカの選手が、ルッツジャンプで転倒したらしい。こういうのも案外、あとの選手のプレッシャーになったりする。


私は第四グループの五番滑走。ちなみに同じグループの、私の後が杏奈。そして私の前の滑走が優勝の大本命、フランスのマリーアンヌだ。

調子狂ったままなのに嫌な二人に挟まれちまった。これが今の私の、偽らざる本音だ。

「滑走順や選手に左右されているようじゃ実力と言えない」と、どこかのスポーツライターが書いていた。スケートは個人競技だ。誰かの演技を見ようと、それによってマイナスの要素がもたらされようと、結局は自分へと帰結していく。ミスろうと転倒しようと点が出なくても、誰かのせいじゃない。自分から出たものなのだ。


 だが、考えてもみてほしい。

 浅井真由という選手がいた。去年引退したその選手は、今から5年前の冬季五輪で銀メダルを取った当時のスーパースターだ。その選手がパーフェクトな演技して、会場が盛り上がって、こんな高得点でるの? っていうぐらいいい点が出た後、誰が滑りたいと思うだろうか。どんな罰ゲームだ、としか思いようがない。


 そうしてミスったりするのは、別に珍しい話じゃない。


 今のマリーアンヌは当時のスーパースターほどじゃないけど。前に滑ってほしい選手じゃないことには変わりはない。


 ――マリーアンヌの点数が出る。ベラルーシの選手に5点以上差をつけて、暫定トップ。彼女のショートプログラムに対しては……今は感想は控えておこう。仕方がないとはいえ、見るんじゃなかった。

 完璧な演技。出される高得点。狂った調子のジャンプ。高鳴る心拍数。迫ってくる演技時間。荒れた心臓を、呼吸を繰り返すことでなだめる。


「ゆっくり。いつも通りに滑りなさい。ジャンプは気にし過ぎるな。」


 名前を告げるアナウンスと、父の声が被る。


「不調の時こそ、ロビンは実力を発揮するものだよ」


 父が、目の据わった私を諭してくる。父の眼は、どこまでも穏やかだった。

 不調の時こそ。

 その言葉で気が付く。

 さっきから私は、アクセルの事しか考えていなかったのだ。

 ショートの要素は7つ。ショートでの失敗は許されない。だけど、アクセルだって要素の1つでしかないし、他が全部駄目なわけじゃない。他を丁寧に滑れば、取り返しはつくかもしれない。

 全てがグダグダになるほどじゃない。ひとつのことですべてを駄目にしたら、それこそ目も当てられない。

 ……少し、心が穏やかになった。


「行ってくる」


 父と拳を合わせて、少し笑って中央へと向かった。




……勇ましい弦楽器の音。弓をつがえるポーズから始まって、バッククロスに。……スピードをつけすぎないように、注意を払う。


 最初のジャンプ。カウンターの三連続から、左足のエッジをアウトにしっかり乗せてトリプルルッツ。

 高く、飛び上がる。それから三回回りきって――

 着氷する右足が、氷に吸い込まれていく。


 私のジャンプはてっちゃんから「女子選手では珍しい、ジャンプから降りてくる」と評されている。他の女子選手がどうなのかは知らないが、私は飛び上がって、きちんと回ってから着氷する。


 先ずは高く飛ぶ。

 ルッツやアクセルでこれが決まった時ほど、気持ちいい時はない。


 とりあえず最初の難関は成功。……危ない危ない。この程度で安心しちゃいけない。2分50秒の演技は始まったばっかりなんだから。

 弓の天才。正義の義賊。緑色の英雄。――演じるのは、ロビン・フッド。さあ、次のジャンプはコンビネーションだ。


…… 今の私に、演技前に少しは落ち着いたとはいえ余裕なんか全くない。初めての大舞台での、初めてのショートプログラム。初めて目にした目玉が飛び出るような点に、始めて聞く関係者同士の噂話し、そして初めての、アクセルジャンプの不調。

スピードを飛ばし過ぎて、いくつかつなぎのステップを抜かしてしまった。スケート自体が、少し急いだというか、エッジが上ずってしまった感じがある。滑っている私がしっかりとわかっているのだから、ジャッジはこういった滑りの幼さは見落とさないだろう。父にはいつもより丁寧に、と念を押されたが。……こういうところにも、もろもろの影響は出てしまうのか。心は、完全に晴れていないみたいだ。


だけど、始めて尽くしで、狂った調子の中でも、いつものように高く跳ぶことは出来る筈だ。

リンクの真ん中――ジャッジ席の目の前で両足を滑らせて――スピードを殺さないまま、トリプルサルコウ。


……その着氷で、思わず右の拳を強く握る。回り切り、氷を捉えた右足が、いけると確信している。そのまま左足のトウを突いて再び飛び上がる。

――3回転+3回転、成功!


「やった!」

しまった。つい、口から声が漏れてしまった。でもまあいいや。どうせ誰にも聞こえてないだろうし。音楽と、ありがたい観客からの歓声でかき消されているだろう。


そのぐらい、思わず声が出てしまうぐらい、私のテンションは上ってしまったのだ。


 コンボのセカンドにつける3回転は、あるのとないのではプログラムの説得力が違う。

今ではジュニアでも、ショートからの3回転+3回転は当たり前。でもアンドロイドでもない限り、失敗のリスクだって大きいのだ。安全策ととってセカンドを2回転にする選手の方が実は多かったりする。

そんなリスキーなものを、しかもジャッジの目の前で決められたのだ。――嬉しくないわけがない。


不安はある。失敗や転倒は怖い。次のジャンプで失敗してしまうかもしれない。ステップで転倒してしまうかもしれない。スピンの入りでぐらついてしまうかもしれない。


だけど今、私が演じているのは。


弓の天才。正義の義賊。緑色の英雄――無敵のロビン・フッドだ。このぐらいの不調、なんてことない!

二つのスピンをしっかり回り、リンクの右端まで行く。そこで私は大きく声を上げた。同時に音楽が、さらにスケールの大きいものに変わっていく。――ここからが本当の、戦闘開始だ!


高速でステップを踏み、最後のジャンプへと真っ直ぐに進んでいった。簡単なターン、エッジの深さよりスピード感を重視して作った。ヴォルコフのSPの迫力とは違うけど、このステップは速く駆け抜けてこそ、ロビン・フッドの強さを表現できるのではないか。私のイメージではロビンは、奔放でとにかく強い。そして、馬のような速さを持っている。そんな感じだ。


さあ、問題はこの次だ。

左足ステップから、身体を前向きにして――このまま飛んで――!


 *


 ――2分50秒はあっという間だった。


「うん。悪くはなかった」


 まばらな拍手を受けながら、キス&クライに引き上げた私が言った最初の言葉だ。

 いい演技が出来たと言い切れはしない。ところどころ固いところが出てしまった。考えないようにしても、どうしても演技は慎重になってしまう。完璧にいつも通り、とはいかなかった。


 その中でも、冒頭のルッツジャンプと、サルコウとトウループでの三回転+三回転のコンビネーションが決まったのが大きい。


 やっぱり問題はアクセルだった。転倒はしなかったものの、氷にはじかれてステップアウト。……本番で決まるかもしれないと思ったが、うまくいかないものだ。


 氷上では、緊張した面持ちで杏奈がコーチと向き合っている。黒一色の地味な衣装。

 得点が出る。杏奈と最終グループを残して、暫定4位。……これからレベッカをはじめとして強豪選手が揃っているが、まぁ悪くはないんじゃないかな。


 一瞬、氷上の杏奈と目があった。自分の演技が悪くないところで、杏奈の演技を見てからバックステージに引き上げよう。

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