9.群浪と牧神 ――2015年3月8日 その1【後編】
喉につかえた飴玉を、それをみた全員がそのまま飲み込んだ。勿論、私や杏奈も。
歓声ではなく困惑。去年彼の点数が出たときの、観客からの反応だ。それと全く同じ反応が起こされている。
……たった一つの技――四回転トウループの完璧な成功によって。
牧神の目覚めを象徴するフルートに、湖水のささやきのようなハープが絡みつく。本人は四回転を飛んでも、喜びも何も示さなかった。離氷から着氷までが実にスムーズ。ただ普通に滑り、細かいつなぎの技を組み込みながら次の要素へと向かっていく。難易度の高いジャンプを跳べば、演技中でも何かしら喜びを表したりするのに。
だが、その普通の反応が、さっき飛んだ四回転をその曲の中に溶け込ませた。
曲はCクロード・ドビュッシー、『牧神の午後への前奏曲』――
四回転トウに続いて、単独のトリプルアクセル、ルッツからダブルループを2回続ける3回転+2回転+2回転のコンビネーションとジャンプが続いていく。
フリーでは前半2分にジャンプを五つ固め、そこからはスケーティングで魅せていくというプログラム構成だろう。全てのジャンプを軽々ととんだ。
そこに昨日の力強さはない。ふわりと、蝶が花から花へと移動するような感じだ。弦楽器、ホルン、クラリネットの微弱な重なりが、うたたねをした牧神の周囲の木々たちの歌をあらわしている。
ショートの荒々しいスピードと打って違う。ゆったりとして余裕のある、深いエッジのスケーティングで進んでいく。それでも決して遅いわけではない。つたないわけではない。水面に木々から思いがけず滑り落ちた木の葉が、音を立てずに静かに進んでいくのに似ている。
そう、今日のヴォルコフのスケートは全く音がしないのだ。
……知識として知っているだけだけど。
上半身は人間。しかし下半身は山羊のギリシャの神が、水辺で水ニの(ン)精フを誘惑する世界を、ドビュッシーが音楽で表現しようとした曲だ。
元々はオケの曲で、それを100年前の伝説的バレエダンサー、ロシアのヴァーツラフ・ニジンスキーが振り付けをした。それが、幻想的かつ官能的、かつ衝撃的なものだったらしい。今の基準で見れば、R‐18指定されてもおかしくもないとか。
私はバレエの『牧神の午後』を見たことがないので、その振り付けがどんなものかは分からない。だがヴォルコフのフリーには、腕の使い方、身体の動き等、所々バレエの振り付けであろう所作が見て取れる。
彼の長所に、身体の使い方の柔らかさが挙げられる。特に肩から背中にかけてが柔らかく、さらにどんなポーズをとっても――どんな姿勢で滑っていても頭がぶれない。……直接的な点にはならないけれど、スケーターなら誰もが欲しがる要素だ。
テーマやメロディーラインがはっきりした曲の方がジュニア・シニアを問わずフィギュアでは扱われやすい。
だから、この牧神の午後のような曲は、シニアのトップクラスの選手でもごく限られた選手でしか表現することは出来ないだろう。
ジュニアの選手には荷が重すぎる曲だ。抽象的で、旋律さえ幻惑のままとけてしまいそうな、淡い色彩。
――いつの間にか客席から、得体のしれないものをじっと見ているような緊迫感が消えていた。その代り、嚥下させた飴玉の甘い余韻が体中に満ち満ちていく。
彼の一挙一同から目が離せない。
ちらりと目の端に写った杏奈の顔は、熱っぽいものに変わっていた。
彼が牧神ならば、誘惑される水の精はジャッジを含めた観客といったところだろうか。
徐々に、調和していた和声が揺れ――和声と共に滑りの色彩も揺れ始める。細かい音色。牧神は確か、笛を使って水の精を誘惑するんだっけ。
後半2分の始まりは二つのスピンから始まった。
一つ目は高く宙を舞うデスドロップから。最初は体を平行にしたキャメル。そしてシットのポジションで。足替えでさらにシットスピン。そこから立ち上がって上半身を大きく反らし――
右足を頭上より高く上げ、そのフリーレッグを両手で難なくつかむ。たっぷりとビールマンポジションで10回以上回った。
女子でも優れた柔軟性のある選手の専売特許のようなスピンだが、今は最高難度のレベルを獲得するために取り入れている選手が多い。通常スピンのポジション変化の際は回転速度が落ちてしまうものだ。が……彼のビールマンスピンは、シットポジションからの変化だというのに回転速度が全く落ちない。……中途半端な女子選手よりよっぽど綺麗なビールマンだ。
二つ目のスピンをゆっくりと解いて次のジャンプに向かう。
主旋律に弦楽が加わり、のびやかに、或いは切実に牧神が歌い上げる。バックスケーティングで、男子では技術要素に入らないディープエッジを使ったアラベスクスパイラルでリンクを半周する。つなぎの部分だが、ひとつの見せ場になっている。
スパイラルを終わらせた彼がクロスカットの姿勢で滑る。漕ぐ時間の少ない彼だが、難易度の高いジャンプの前には長めの助走が入る。さっきの四回転みたいに。
足を組み替えて、前向きに。
2発目のトリプルアクセルはコンビネーション。――にしなければならない。そのセカンドに付けるジャンプは――
背中が凍った。
「げっ!」
思わず口から洩れる。
――そのセカンドに付けるジャンプは勿論、三回転――ループ。着氷した足をそのまま滑らせて鋭く飛び上がる。
トリプルアクセルからのセカンドループなんて、四回転と同等か、もしかするとそれ以上にインパクトのある技だ。希少価値は四回転以上。ショート同様、難なく綺麗に決めてみせた。
シニア男子では四回転は必須要素。世界選手権に出場する選手なら、ショートから組み込んで当たり前の時代なのだ。
セカンド三回転トウに比べてループの難易度ははるかに高いが、男子のフリーではコンビネーションのセカンドに付ける三回転ループにそれほどうまみはない。三回転トウの基礎点は4.1。対して三回転ループは5.3。1.2点差だが、セカンド三回転ループを習得するより三回転トウをきっちり飛んで加点をもらう方が現実的だ。難しいだけではなく、これが、三回転ループをコンビネーションのセカンドに跳ぶ選手は殆どいない所以だった。
だけど……。
回転不足判定にする余白もないほどの完璧な着氷。これは2点以上の加点がもらえるかもしれない。
――何でここまでやる必要があるんだよ!
そんな言葉が、喉元から出かかって消えた。
アンティークシンバルとフルートが官能的な響きを聴かせる中、単独の三回転フリップを飛び、サーペンタインラインステップで進んでいく。今のルールではステップの形状は問わないが、リンクいっぱい使ってステップしないと評価されない。その中で、多彩なターンとステップを組み合わせなければならない。
その一歩一歩が、水の精に対する愛のささやきになり、さらなる夢の世界へといざなっていく。
甘くも強い、生命力を感じさせるステップ。
「綺麗……」
誰にも聞こえない声で、杏奈がしかしはっきりと呟いた。
リンク全体にSの字を描くサーペンタインラインを、とどめのツイヅルで終わらせて、直接三回転トウループ。から、シークエンスでダブルアクセル。
もはや不安要素などどこにもない。中央に戻ったヴォルコフはゆっくりと手を、指先を伸ばし、掴んだはずの何かがするりと指先から滑り落ちて――バックエントランスからのスピンの入りで、大きく手を広げる。
足替えのキャメルスピンの後、幾何学文様を描くスタンドスピンの終わりと共に音がゆっくりと消えていく。――僅かな響きの余韻を残して。
そして……牧神は再び眠りにつく。
逃げ去った水の精と戯れることを夢見て……。
爆発するような歓声。
演技を終えて大きく息をついた彼は、四方の観客に丁寧に礼をする。その仕草が、さらなる声を呼び起こした。
ぼんやりと私は思った。
牧神は水の精を誘惑するが、水の精は牧神の腕からするりと逃げ去っていってしまう。「牧神の午後による前奏曲」は、そんな詩からインスピレーションを受けた曲だ。
だが今の彼のプログラムは。
牧神が水の精を誘惑し――逃がしてしまうのではなく、その心を掴んで離さない、いつまでも惹かれてやまない余韻を残すものだったのではないだろうか。
*
……さすがに四回転、そしてサーペンタインラインでのステップは体力を半端なく奪うらしく、終わった直後は大分息が上がっていた。それでもノーミスで終えたのは充分驚愕に値する。あんな細くて小さい体の、どこにそんな体力があるというのか。
キス&クライに座ろうとするヴォルコフを、チャイコフスカヤコーチがショート以上に満足した顔で教え子を迎える。恐らくこの牧神の午後の、振付師。
元々チャイコフスカヤの振り付けは、芸術性だけではなく高い技術力を持たなければまともに滑りきることも出来ないと言われている。選手が振付師を選ぶのではなく、振付師が選手を選ぶのだ。
誰もが点数を待ち望んでいる。一体ジャッジは、どんな点を彼に与えるのかと。期待と高揚でいっぱいになっている。
視界の端に、ウォームアップの為に氷上に降りたてっちゃんの姿が入る。……あんな演技の後に、恐らく出るであろう驚愕的な点が出た中で、残されたただ一人の選手が滑るのだ。そして……ほとんどの人間が確信しているかもしれない。彼が取るメダルの色を。
昨日。確かに私は、ノーミスのマリーアンヌの後に滑った。全ての要素を完璧にこなし、シニアの風格さえもまとい始めた彼女の後に。……そんな中、今思ってもよく滑れたと思う。
だが今見たこれは。
四回転どころじゃない。四回転を飛んだことだけが驚愕なんじゃない。
ステップの時、私は一瞬だけヴォルコフの顔を見た。演技をする彼と観客席の私は、そこまで近くはない。そしてモニターで見たわけではない。滑った時の、何も通さない本当の彼の顔だ。
遠くからだけどはっきりと認識できた。夢の世界に誘う狂気の微笑を。何か――誰かかもしれない――を求めながら、それが手に入れられない切なさを身に纏った表情を。
――それは、孤独を知る、至高の存在にのみ出来る顔だった。
今見たこれは、神か化け物か。
……自分の事でもないのに、心の底からその点が怖かった。
あんな演技の後に滑る選手が出来ることは、何も残されていないのだと思いたくないのだ。
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