3.揺籃の季節を超えて  ――2015年3月6日 その1 【前編】




 迷った挙句、男子ショートの最後から2番目のグループから見学することにした。スピード感やジャンプの飛び方なんか、勉強になることが多いし。だから私は、練習用リンクでの練習を早めに切り上げて、スウェーデン代表選手を応援に行くというレベッカと一緒に会場に向かった。



 ジュニアの試合ということもあり、客席の埋まり具合は三分の一程度だ。ジャッジ側に席に着くと、第6グループの6分間練習がすでに始まっていた。



 電光掲示板に表示された順位を見ると、てっちゃん以外の日本代表の演技は終了していた。見ると、全日本ジュニア2位の小林晶が現在2位、同じく3位の加藤ミツルが8位につけている。残り12人を入れても、二人のショート通過は約束された。



 ラスト2グループに今回の有力選手が集まっている。第6グループでは、去年大会4位のアーサー・コランスキーが2番滑走。最終グループでは全米ジュニア優勝のジェイミー・アーランドソンが1番滑走、3番滑走に去年大会優勝の鮎川哲也、最終滑走に去年大会8位でイタリアのシモーネ・マルガリオがいる。



 そして去年の銀メダリスト、ロシアのアンドレイ・ヴォルコフが第6グループの第1滑走だった。彼の登場から、トップ争いが本格的に始まるだろう。



 アンドレイ・ヴォルコフ。


 10年どころか、50年に1人の天才と言われるロシアの天才児。



 去年大会、初出場、そして最年少にして銀メダリストに輝いた。なお、彼は今年のジュニアGPシリーズには参加しなかったので(ジュニアにもGPシリーズは存在する、同様にシリーズのトップ6人が出場するファイナルもしかり)、今季は世界ジュニアのみの出場となる。



 スケート以外の彼の情報はほとんど出回ってない。だが、誰もが知っている事実と、誰もが感じている認識が2つある。


 地方のスケート状態を視察していた現在のコーチに才能を見出されて始めた、という事実。


 そして彼は、近い将来男子シングルの頂点に立つであろう、という認識。



 去年の世界ジュニアは僅差でてっちゃんに及ばなかったものの、13歳でのメダルは、男子では史上でも珍しいのではなかろうか。


 6分練習中、まだ体格のできていない選手も多い男子の中で、ひときわ細い人影が首を回しながら流している。それがアンドレイ・ヴォルコフだ。年も……私と同じ、14歳。



 身長は160センチほどだが、頭が小さくて、手足は同身長の人間よりは大分長い。顎のあたりまで切りそろえられた金髪のボブカットに、氷と雪の結晶を編みこませて繊細に作らせたかのような白皙たる美貌。



 ……私の容姿は第三者から見てかなり整っているものらしいが、彼の隣に立たせてみれば平凡そのものとしか取れなくなってしまうだろう。競おうとも思ったことないけど。何故かフィギュアをやっている人物は、美少女美少年が多い気がしている。てっちゃんしかり、マリーアンヌしかり、杏奈しかり、レベッカしかり……。


 だがヴォルコフは美貌だけではなく、どことなく浮世離れした雰囲気をまとわせていた。雪の霧、氷の膜、柔らかいガラスのヴェールというような、現実にはありえないものを外側に張らせたかのようなイメージを例外なく持たせている。



 ――要するに、ひとめ目見ただけで限りなく透明な世界が連想されるのだ。



 光沢のあるゆったりとした白いワイシャツに黒のボトム。シンプルなようでいて高級感のある衣装だ。袖や襟元にさりげなくフリルがあしらわれているが、氷の彫像のようなヴォルコフに妙に似合っている。


 6分練習が終わり、ヴォルコフ以外他の選手がリンクから出ていく。注目選手たちのショートプログラムが始まろうとしていた。





 フィギュアスケートは、二つのプログラム――ショートプログラムとフリープログラムの合計点で競う競技だ。ショート、フリーともに、それぞれ純粋な技の技術を採点する技術点と、芸術性を10点満点で採点する演技構成点の二つで構成されている。


 ショートプログラムの時間は4カテゴリすべてで2分50秒までと決められている。


 男女シングルでは3つのジャンプ(3回転からのコンビネーションジャンプ、ステップからの単独3回転ルッツ、2回転もしくは3回転のアクセルジャンプ)、3つのスピン(足替えのスピン、フライングスピン、スピンコンビネーション)、1つのステップという、決められた七つの要素を規定時間内に実施する。


 さらにフリースケーティングと違うところは、コンビネーションジャンプの飛び直しが許されないことだろう。単独ジャンプが指定されているジュニアでは特にそうだ。それから、3回転からのコンビネーションが、2回転になってしまった場合もジャッジからマイナス評価が下される。


 つまり、技術に関してのジャッジがフリーと比べて厳しいのがショートプログラムだ。また、ショートで二人の選手が同点になった場合、技術点が高い方が上の順位になる。


 昨年と今年では、彼にかかる期待値は違うだろう。昨年は年齢もあるから、5位内に入れば上出来すぎるぐらいの上出来、蓋を開ければ予想外の銀メダル。


しかし今年は。やはり最年少と言えど、堂々とした優勝候補だ。


 ……いかな天才とはいえ、やりづらいのではないだろうか。


 名前がアナウンスされる。リンクサイドにいる中年の女性コーチが一言告げると、頷いて無表情のまま中央へとゆっくりと向かっていった。コーチは、アレーナ・チャイコフスカヤという著名なロシア人。幾人かの世界チャンピオン、もしくは五輪チャンピオンを生み出したことで有名だ。


 歓声が沸く。表示された掲示板によると、曲はショパンの「革命のエチュード」。


 はじめて見るプログラムなだけに、注目度が高い。


 優勝候補――2連覇がかかるてっちゃんの、最大のライバルになるだろう選手の演技が始まる。

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