3.揺籃の季節を超えて ――2015年3月6日 その1【後編)
一呼吸を置いて、始まりの和音が叩きつけられる。フォルテッシモのピアノの音は、それだけでリンク全体を支配した。
その瞬間。彼がまとっていた、ぼんやりとした薄霧が消えたのがはっきりとわかった。
立ち上がりからステップとターンの連続。力強くスケーティングに合わせてバッククロスに。
冒頭は3回転+3回転のコンビネーション。フリップとトウループで――と思いきや、
――ファーストジャンプで着氷した足から、そのまま踏み切る。セカンドのジャンプは、三回転ループだった。回転も十分に足りていた。
6種類あるジャンプの性質上、コンビネーションジャンプのセカンドにつけられるジャンプは、トウループかループのみだ。選手自身の得手不得手もあるだろうが、ジャンプの難易度はトウループよりもループの方が高いとされている。
セカンドに付ける3回転ループは、トウループのそれよりも難易度ははるかに高い。男子ではほとんどやる選手はいない。のっけから凄い始まりだ。
ジュニアではシニアと違い、ショートのステップからの単独3回転ジャンプは規定がある。そして毎シーズンごとに指定されるジャンプは異なっていた。今季指定された単独の3回転ジャンプは、ルッツだった。
アクセルを除けば、ルッツの次に難しいジャンプはフリップ。……この時点で、失敗しない限り、4回転の使用が許されないジュニアでの最高難度のジャンプが約束された。始まりの様子からみても、失敗はしないのではないか、という予感も。
その予感は数秒後に当たることになる。
深いエッジに乗って――前向きに駆け上がる。
風を切るような踏切。
回転が速い。空中で3回半しっかり回ったのちに、切れ味のある鋭い着氷。フリーレッグが高く上がり、空間を切り裂いた。
トリプルアクセルの着氷前も着氷後も、スピードが落ちなかった。そしてカウンターの三連続からジャンプの体勢にうつる。ステップから直接飛ぶのは――既定の三回転ルッツ。
左足のアウトエッジに体重が乗り、右足を突いて飛び上がる。トゥ突いた際に、氷の欠片がブレードと共に舞い上がる。
ここまでで約一分。全てのジャンプが前半だったが……十分だろう。
ジャンプ、そしてスケーティング自体は非常に荒々しい。だが、キレと迫力、そして力強いスピード感は充分。何よりも、その荒れたスケーティングは曲想とマッチして独特の魅力になっていた。
スピンを二つこなしたあと、ステップシークエンスへ。
――ターンやステップの数はそこまで多くない。エッジの切り替えの早さと簡単なターンでの高速移動で曲想を描いている。レベルを狙った、というのではないだろう。上半身の振り付けも最小限にとどまっている。このステップだと、よくてレベル2か。それに加点がついて、レベル3の基礎点ぐらいといったところだろうか。
あるいはステップのレベルや加点を気にせずとも、ほかで点が稼げると思ってのことかもしれない。
ドラマティックで力強い主旋律を添えるのは、激しく駆け抜けていくパッセージ。激情と悲しみ。音の跳躍や音階――フットワークであらわされているのは比類なき激情と怒り。そして祖国を蹂躙された悲しみ。レベル判定さえ気にならないほどによく出来たステップで、見せ場の一つにもなっていた。
若かりし頃のショパンが、祖国ポーランドの戦争を知った際に悲しみと怒りの中で書いた曲。――革命のエチュード。
――おそらくその感情を表現しているのだろう。たまに、どうしようもなく悲しげな表情が見える。
正直、ジュニアの選手にやらせる曲じゃない、と思う。そして、大人しく……というか、ぼんやりした彼には似つかわしくないプログラムかもしれない。だがその難しいプログラムを、もちうる本来の個性とは真逆の楽曲を、彼はよく表現していた。
きめ細かい高速フットワークでリンクの端から端まで移動した後、中央に帰還する。そしてラストの要素はコンビネーションスピンへ。
トラベリングキャメルからスピンの入り。左足でキャメルスピンを回った後、軸足を右にチェンジ。これで十分に回った後、腰を落としてシットスピンの体勢に。太ももに額をぴったりとつけている。膝と背中が柔らかい証拠だ。スピンの回転が速くなる。速度が上がると同時にシットの体勢から立ち上がる。水平に保ったままだった右足を、左手でつかみ――
――最後のフレーズを、身体をひねったY字スピンで紡いでいった。
……楽曲と共にぴたっと演技を終わらせたヴォルコフの顔に、興奮も充実感も現れていなかった。白い顔が赤く蒸気している以外はやはり表情らしきものはない。四方からの惜しみない賞賛の拍手に礼を送ると、真っ直ぐに出口へと足を滑らせていく。
戻ってきたヴォルコフを、アレーナ・チャイコフスカヤコーチが熱い抱擁で迎える。……本人は今の演技に何も思ってもいないかもしれないが、それだけの、いや、それ以上の演技をしただろうと思う。
キス&クライ(リンク脇に設置された、点数が出るまで選手とコーチが待つ場所)に座り、太めの女性コーチに頭を撫でられたところで、ようやくヴォルコフは口元をゆるませた。
「……凄いわね」
隣に座るレベッカが、熱を持った声でつぶやく。……凡庸なひと言だが、そうとしか表現ができないだろう。
私だって、似たようなことしか言えなかったはず。
映像で見た去年の彼の演技を思い出す。
去年のヴォルコフは、半分眠っているかのような演技だった。徹底して無表情だったし、淡々と作業しているように技をこなしていた。ぼんやりして、とらえどころがなくて、だけど技術だけはシニアで通用するような。……少なくとも、表現という面は未熟だったのだ。
その面影が、今日の演技からは垣間見ることが出来なかった。あれほどの激情と迫力を出せるとは、この場で見られるとは思っていなかった。
得点が表示された。技術点もさることながら、驚くのは演技構成点だろう。……7点台がズラリと並ぶ中、演技構成点の5つの項目のうち「interpretation(音楽の解釈)」の項目は、は8点台になった。
ジュニアでは破格の点数。しかし、誰が不満を言うだろうか。
2位以下に20点以上つける点差でトップに躍り出た。このぐらいの点が出ると思ったのか、彼は表情を変える事なくキス&クライを立った。
おさなさの残るその顔だけは、去年と共通したところだった。ただ滑るだけでシルバーメダルを獲得したころと全く同じ。
今日でこれだったら、明日はどうなっているんだろう。
*
ヴォルコフの次滑走だったカナダのアーサー・コランスキー。金髪碧眼で、いかにも二枚目といった感じの美青年だ。
彼も表彰台候補だったが、痛いミスを犯してしまった。既定の技の「単独の3回転ルッツ」を、一回転にしてしまったのだ。専門用語ではポップ、俗的にはパンクともいう。3つしかジャンプが要素にない分、それぞれのジャンプにかかる比重はフリーとは比べ物にならない。
だが、それ以外は完璧だった。ヴォルコフとの点は10点以上開いたものの、第5グループ終了の時点で3位につけた。特にイーグルから直接入るトリプルアクセルと、後半の3回転+3回転のコンボは十分な加点をもらえるだろう。
映画『ロミオとジュリエット』のメインテーマを、十分なスピード感と共に滑りきった。その分、ルッツのミスだけがもったいない。
そのコランスキーをわずかに上回ったのが、第5グループ最終滑走のドイツの選手だった。
ドイツのミハエル・シューバッハ。ジュニアGPシリーズは二戦とも表彰台には昇ってはいないため、GPシリーズの上位6人が出場するファイナルには勿論出場できていない。シリーズでの最高順位は5位だったはず。全てのジャンプを難なく降りて、クリーンな滑りで終えた。
僅差だったのはシューバッハの演技構成点が伸び悩んだからだろう。新参者の選手には、ノーミスで滑っても演技構成点が辛く出る傾向がある。だが、ノーマークな選手だっただけに、会場からは驚嘆と祝福の拍手が送られていた。
最終グループを残して、順位はロシアのヴォルコフ、ドイツのシューバッハ、カナダのコランスキーという結果になった。
次のグループの6分間練習を告げるアナウンスが入り、6人の選手がリンクに降りた。アメリカの二人の選手、スウェーデン、イタリア、ロシアの選手に続いて、最後にてっちゃんがリンクイン。
実は一つの懸念があった。本人には確認してはいないし、言ったら否定するかもしれないから聞いてはいないけど。どうも……。
「ミヤビ?」
「ん?」
「何か心配ごとでもあるの?」
「な、何にもないよ。しいて言えば、私のジャンプの調子が悪いだけで……」
レベッカに顔を覗き込まれる。眉間にしわでも寄っていたみたいだ。
……今の一言は失言だった。いかな友人でも、氷上に出ればライバルなのに。
相変わらずアクセルの調子は悪い。というか、飛べば飛ぶほど悪くなっていっている気がしている。男子を見て勉強、よりも、うまくいかない練習の気分転換の意味も持っていたのかもしれない。確かに気分転換にはなったけど、これから滑ろうとしている一人の人間にたいしての心配がだんだんと膨らんでいくのも事実だ。
流しているてっちゃんの姿を目で追っていくと、左足で滑っている時間の方が長い。
……右足は大丈夫なんだろうか。
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