2.肉まんとビデオテープ ――2006年3月18日 【後編】
これも後から知った話だが。
堤昌親―先生は、世界選手権出場経験のある90年代後半から00年代前半代表する日本の男子シングルのスケート選手だった。釧路出身で、ロングトラックからフィギュアに転向した少数派の一人だった。もっとも釧路にいたのは小学校5年生までだったようだ。環境を求めて岩手の小学校に転校し、中学卒業とともにデトロイトに留学した。
あの時釧路クリスタルパレスに来たのは、久しぶりに故郷のリンクで滑りたかったから、とも言っていた。
故郷に帰ってきたのは、育ったリンクからの要請があったのが理由だった。新しくフィギュアスケートクラブを作るからそこのコーチにならないか、というものだ。
日本は今現在、そして2006年当時も、フィギュアスケートという競技が一般にも浸透しつつあった。堤先生と出会ったその当時は丁度トリノ五輪の時期で、日本人初の五輪女王が出たことにより、日本中がフィギュアスケートで沸いた時期だった。
そこで新しい生徒が増えるかもしれない、というリンク経営側の狙いがあったと推測するのは、考えすぎではないだろう。
……まだ釧路のリンクが残っていた頃の話だった。俺が初めて滑った氷は、今はない。建物が半壊されて、外壁が剥がされていた。むき出しになったアイスリンクが外に現れていたのが最後に見た姿だ。氷は、既に溶けて、釧路のシンボルでもあるタンチョウが何羽も何羽もその氷の上で羽を休めていた。
あの日構成された色はどこまでも単純で、無力で、そして純粋なものだ。リンクの取り壊しが決まり、建物としての役目を終えたコンクリートの灰色。それでも銀盤は建物の後に壊すらしく、だから外界で絶対零度を保てなくなり、透明で弱弱しい姿をさらけ出していた。その、溶解した水のなかに、白黒のタンチョウがやってくる。ひとしきり休むか、或いは戯れたタンチョウは、雲一つない澄み切った空の向こうに泣き声を上げて飛び去っていく。不思議なものだ。タンチョウは、夏には滅多に見えることは出来ないのに。
ホームリンクが閉鎖されたのは今から五年前。経営難だったらしい。維持費も十分に賄えなかった、というのは堤先生から聞いた話だ。釧路にあるスケート場は一つだけではないが、クラブが移動することなく、そのままリンクとともになくなった。
それ以来、俺は神奈川県横浜市に練習拠点を置いている。
*
ウォームアップ中はヘッドホンをつけて音楽を聴いている選手が多い。俺もその例にもれず、iPodに入れた曲を流しながら黙々とアップを続けていた。
右足首を回す。試合には支障の出ない程度には治っている。……筈だ。
否応なしに心拍数が上がっていっている。音ははっきりと聞こえない筈なのに、どうしても意識してしまう。この、緊張と高揚がないまぜになったような感覚が、好きなのか嫌いなのか。ただ、失敗のやり直しがきかないショートは、個人的には苦手だ。
最終グループ、第3滑走。
それがショートプログラムでの滑走順になった。
今は第五グループが始まるところだろう。……ヘッドホンをつけていても、音が完全に遮断できるはずがない。
――歓声が湧き上がる。気にするな、という方が無理な話ではないだろうか。必要以上に神経質になっている自分がいた。
2015年。
初めて氷に乗ったのは、3歳。その時はスピードスケートだった。
――スケートを始めて12年。フィギュアに転向したのは9年前。
未だかつてない強敵が、立ち塞がろうとしていた。
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