1.サラブレットに生まれて ――2015年3月5日
――ハーグに入ってから、ダブルアクセルの調子が悪かった。
アクセルは6種類あるフィギュアスケートのジャンプのうち、唯一前向きで踏み切るジャンプだ。6種類の中で最も難しいジャンプで、男女問わずショート、フリーともに飛ばなくてはいけないジャンプだ。規定に入っているジャンプだけど、苦手にする選手も少なからず存在する。
6種類全部のジャンプの調子がいいのは確かに稀だろう。だが、最も得意なジャンプの調子が悪い、というのは、ちょっと気分が悪い。
かわりに違うジャンプを試してみる。まず、連続のスリーターンでくるくる回りながら、左足のエッジで踏み切る。三回転ループを着氷した後に、すぐに次のジャンプに。バッククロスでスピードをつけて、後ろ向きに滑っていく。左足のアウトエッジに体重をかけて、右足のトゥをついてテイクオフ――。
――3回きっちり回って、着氷。その後の流れもよく、着氷した地点から綺麗な線が描かれていた。
連続スリーターンステップからの3回転ループ、単独の3回転ルッツはきれいに決まった。アクセルまでとは言わずとも、ループは大得意。そして女子選手の多くが苦手とするルッツも、苦手な部類のジャンプじゃないのだ。
「ルッツの調子は悪くないんだけどなぁ……」
つい、頭を掻いてしまう。
さっきからアクセルは、スピードがありすぎると逆にステップアウトしてしまい、スピードを殺して滑ると勢いが足りなくて転倒してしまう。
リンクサイドからコーチ――父だが、練習中はそう呼ぶように言われている――が手まねきする。
「どうしたんだ?」
さすがに父も困惑の顔が隠せないらしい。まぁ、ここ数年、アクセルでの失敗は自分でも驚くほど少ない。
だが現地入りしてから、5回に1回、決まればいい方だ。
怪我はしてないし、体重……も、今朝計ったら変わってなかった。体調も悪くないし、朝食べ過ぎてもいない。時差ボケだって抜けてきたのに。
「いや、なんか変なんだけど、原因が分からなくて」
父が言うには、全体的に見てアクセルだけ軸が45度ほど傾いているらしい。……ここまで傾いている時に、あんまり飛びすぎない方がいいかもしれない。今は本番じゃないし。
ちらちらと他に練習している選手を見る。カナダ代表。ハンガリー代表。アメリカ代表。同じく日本代表で親友の安川杏奈に交じって、優勝候補筆頭のフランス代表マリーアンヌ・ディデュエールの姿がある。
指先まで行き届いた神経に、ジュニアとは思えない優雅な滑り。一歩一歩に大きさと迫力がある。胸元まで伸びた金髪は、邪魔にならないように後ろでひっつめている。鋭くとがった鼻梁に、大き目な瞳をすこしだけ隠す二重瞼。赤くて小さい口。160を超える長身が動いているさまは、スケート靴を履いたフランス人形が躍っているかのように見える。
水を飲んでいる私の横を、マリーアンヌが豪速で通り過ぎた。左足でステップを踏み、直接ダブルアクセルを飛ぶ。さらに着氷した足でそのままツイヅルを行い、両足のエッジを傾けてイーグルで短い円を描く。着氷前、着氷後のトランジッション(技と技のつなぎ)にも隙がない。
なんかもう、凄いなぁしか思わない。
「はいはい自分に集中する。ジャンプは置いといてショートのステップやってみろ」
父にたしなめられる。わかってはいるんだけど。つい、マリーアンヌの滑りを目で追ってしまっていた。リンクサイドから離れて練習を再開する。
ショートで今回私が選んだものは、女子ではあまり使う選手はいない。表現に関しては保守的な女子シングルの中でも、結構異色なものかもしれない。ノーミスで滑っても、ジャッジの評価でバラつきがあった。私の滑りが甘いっていうのが一番の原因だろうけど、それを克服するためには一個一個の技の完成度を上げていくしかない。
アクセルの事は引っかかるけど、まだ女子の始まりまで時間がある。それまでに調整していこう。
*
母親の星崎涼子――旧姓本町涼子は、アイスダンスの元全日本チャンピオンだった。娘のひいき目を差し引いても母はきれいな人で、容姿だけではなく姿勢の良さやちょっと滑った時の仕草なんかが元トップアイスダンサーだった名残を感じる。
そして父親の星崎総一郎は、2回の五輪出場経験のあるフィギュアスケーターだ。初出場のカルガリー五輪では15位。二回目のアルベールビル五輪では、一桁の順位に入ったようだ。
何がしかの理由があって二人が結婚し(娘の私に理由は絶対に話してくれないが)、生まれたのが私だ。
現役を引退して、二人はショースケートの世界に入ったが、結婚と出産を期にショーを引退。以来、新横浜駅に近いアイスパレス横浜でコーチ活動を始めた。
で、仕事中、幼児の私を家に一人で置いておくわけにもいかず、ここで適当に遊んでなさいとアイスリンクに連れてきたわけだ。
そんなわけで私は、私がいつごろから氷の上に乗っていたかは覚えてない。多分、三つぐらいだっただろう。父に習っている年上のお兄さんお姉さんの滑りをぼんやりと眺めていたのは覚えている。氷の上が怖いと思ったことはないし、スケートで遊ぶのはとっても楽しかった。
ただ。
オリンピアンの父は趣味の範囲はともかく、娘である私に競技としてのフィギュアスケートをやらせようとはまったく思ってはいなかったそうだ。元アイスダンサーの母親も同様で、理由はそれぞれ違った。母は「生活の中心がスケートになってしまうから」で、父は「自分の現役時代は嵐の様だったから」だそうだ。二つの理由は、スケートで苦しい思いをさせるのが忍びない、という結論に結びついていた。スケートとは別の青春を歩ませたいとも思っていたのかもしれない。
そんな両親の思いとは裏腹に、あるきっかけから私はスケートを始めた。……やらせるつもりはなかった割には、いざ言ってみるとそれほど強固に反対されなかったのが不思議だったが。
数年が経ち、ノービスの大会に出るようになった頃、初めてマスメディアから取材を受けた。
取材と言っても、三問質問されただけだった。ノービスBの試合の後で、今日の結果、演技の内容はどうだったか、今後の目標は何か……という、簡単で形式的な質問。いい演技ができた後のインタビューだったので、結構浮かれて答えた。
今日の結果は嬉しい。演技内容はよかった。勝負じゃなくてただ自分が気持ちよく滑ることが目標です――これは今でも変わってない。今も昔も勝負に対する欲はあんまりない。自分は自分で呑気に滑って、それでうまくなっていけばいい。結果に関しては二の次に考えていた。
――フィギュア界、期待のサラブレット現る――
次の日の夕方テレビをつけると、そんなテロップと共にインタビューを答える私の姿が映っていた。質問の答えは全部放送された。次世代を担うスケーター特集、と銘打ったもので私のほかにも一緒にノービスの大会に出た子も出ていたけど、半分以上私が写っていた。
サラブレットって私は馬か。
期待されているかどうかはわからないが、サラブレットという言葉に腹を抱えて笑いまくった。他人事のようにげらげらと。
その単語の重さ、真の意味を知るのはそれからまもなくのことだ。
*
今大会、ペアとアイスダンスの日本からの派遣はない。日本からは、男女シングルのみ。前回大会の結果から日本代表は女子が2枠、男子が3枠だ。今日はペアのショートとダンスのショート。今は、男子ショートの滑走順の抽選を行っている。
……そういえば去年はてっちゃんが一人で男子の枠を広げたんだったっけ。本人的には不本意な出来だったらしいが、彼の順位により日本男子は結果的に出場枠「3」を手に入れたわけだ。
同じリンクで練習する1つ年上の幼馴染のことだ。鮎川哲也。……私を氷上に誘った張本人は、昨シーズンの結果にも関わらずジュニアに残留せざるをえなかった。年齢制限、という越えられない壁によって。てっちゃんは結構ポジティブに考えていたみたいだけど、外野から見れば残念だなぁと思わないこともない。
練習を終わらせて、時間が余っていたら男子のショートも見るかな、と考えながらリンクから上がると、入れ違いのように、青を基調にした選手が氷上に上がろうとしていた。「2」枠あるスウェーデン女子の、一人。互いに顔を確認して――同時に弾んだ声を上げた。
「ミヤビ!」
「レベッカ、久しぶり!」
「去年のジュニアGPシリーズ以来ね」
スウェーデン代表の、レベッカ・ジョンソン。二つ年上のよき友人で、彼女も優勝候補だ。シニアとジュニアの掛け持ちのシーズンを送っている。GPシリーズはジュニア、シニアの国内選手権の表彰台に上がった後、年明けのヨーロッパ選手権に出場。6位という成績を残し――世界ジュニアに出場。掛け持ちで目まぐるしく大会に出場するのは、ヨーロッパの選手では多いことだ。黒味がかかったシックな茶髪に、卵形の輪郭。穏やかな瞳と愛嬌を感じさせる顔立ちは、生粋のスウェーデン人ながら日本人に親近感を持たせる作りになっている。
ついでに言うと彼女は、母国語だけではなく英語と日本語が達者だ。英語は普通に学校教育の中に取り入れられているし、日本語は……母親が日本語学校の教師で、週に一回は日本語だけで話す日があると言っていた。その環境からかどうかはわからないが、本人も日本文化――サブカルといったほうがいいのかもしれない――に精通していた。……それが非常によくあらわれているのは、今季のエキシビションナンバーだ。何せ、簡単なあいさつを抜かせば彼女が私に言った初めての言葉は、「日本人は皆、ヒロミ・ゴウのファンだって本当?」だったし。
そんなわけで今も私たちが話しているのは日本語だ。私は英語が苦手なので、一緒にいる時は彼女に通訳してもらったりしていた。
……持つべきものは、英語が話せる外国人の友なのかもしれない。
「アンナも来ているのよね? どう?」
「一緒に滑ってたんだけど、先に帰っちゃった」
「そっか、残念。会いたかったんだけどね」
頷くレベッカを見ながら、彼女に言わなかったことを考える。
どうも杏奈は、ちらちらと見る限り体調を崩しているようで、練習中もちょっとつらそうな表情を作っているのが見えていた。元々白い顔だけど、白いんじゃなくて青ざめて見えたのは目の錯覚じゃないだろう。
何事もなければいいけど。……て、人の心配している場合じゃないか。私だってアクセルがどうにもこうにも決まらないままだし。人のことより、まず自分のことからどうにかしないと。
「じゃあ、ワタシは練習があるから、これで。お互いに頑張ろう」
「うん。じゃあね」
穏やかに別れを告げて、リンクから離れた。
明日の午前から、ペアのショート。
それはつまりジュニアに上がって以来、初めての舞台の幕開けを意味していた。
ジュニアの中での最大の大会――これからシニアで戦っていくための登竜門が、始まる。
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