60×30
神山雪
シーズン1 2015年世界ジュニアフィギュアスケート選手権
序. 2016年2月25日――から1年前
――2016年2月下旬。
暦の上では立春をとうに過ぎているが、本格的な春到来にはまだまだ遠い。二月に入ってからも、横浜では珍しく二回も雪が降り積もった。
特に今夜はよく冷える。今月三度目の積雪も予測されている。本当はこんな夜中に出歩きたくない。
寒い、というのもあるが、何となく、古傷に障る気がしているからだ。
星崎先生からメールが入ったのは、今から三十分前だ。家に娘がいない。どこに行ったか知っていますか。もし心当たりがあったら、教えてほしいという旨の文章だった。
どこも何も、あいつが行く所は一つしかない。俺は星崎コーチに手早くメールを送り、その場所へと急いだ。万か一、本当にいなかった場合のためだ。
アイスパレス横浜。
JRの新横浜駅から、南口を出て徒歩15分。関東では珍しい通年営業のスケートリンク。午後11時半を過ぎていたが、電気はついていた。鍵は、予想通り空いていた。
明るく照らされた60×30メートルの銀盤には目的の人物がいた。155センチにも満たない小柄な少女が、氷の上を猛スピードで滑っている。滑らかなエッジ音。今季、特に強化してきたスケーティングはスピードだけではなく深みまで出てきている。白いTシャツに、黒のスウェットパンツ姿。指先が冷えないように、練習の時は手袋をつけている。
エッジ音に耳を傾ける。一年前はそういえば、もっとざらついた音だった。黒板の上につめを立てて思いっきり引っ張ったような感じの。深く切り込んだ滑りのものではなかった。はじめの頃を知っている身としては、こんな音が出せるようになるとはと驚くばかりだ。
ステップの確認をしていたらしい。その後、リンク中央に戻ってきて、ステップからキャメルスピンに入る。上半身を水平に保ったまま十分な回転を行い、そこから弓なりに上体をそらせる。フリーレッグ――上げている方の足のブレードを掴む。綺麗なリング状になり、回転速度が上がった。普通のキャメルポジションの時より、速度だけではなく回転時間が長いのも特徴だ。
速度を緩めないまま回転を解く。通常より長く回っていたことにより、三半規管が悲鳴を上げているのだろう。しばらく膝に手を当てたまま呼吸を整えていた。俺だって、あそこまで速いドーナツスピンなんてできない。スピンは、雅の特技の一つだった。
星崎雅。
88年カルガリー五輪と92年アルベールビル五輪の二大会の五輪で、フィギュアスケートの男子シングル日本代表だった星崎総一郎の一人娘。父親に指導を仰ぎ、ジュニアカテゴリーで活躍する女子シングルスケーター。俺にとっては同じリンクで練習する仲間で、幼馴染。
顔を上げた雅が俺の姿を確認する。破顔してリンクサイドの俺のもとにやってきた。一五という年に相応するおさなさの残った顔。大きい瞳が活発そうに吊り上っているのが、特徴と言えば特徴だ。その目つきと顔の輪郭は、ビデオで残っている現役時代の星崎総一郎の、きりっとした美貌とかぶっていた。やや童顔なのは、恐らく元アイスダンサーの妻の要素だろう。
「てっちゃん。どうしたの? こんな時間に」
どの口でこんな時間に、なんて言ってるんだ。それはこっちの台詞だ。
「星崎先生から頼まれたんだ。……何でこんな時間に滑ってんだよ」
「なんか落ち着かなくって。滑ってた方が安心できるんだ」
「……もうやめとけ。明日は飛行機の中だろ」
「何。迎えに来てくれたの? ありがと」
「感謝しているなら、さっさと帰ることを考えてくれ」
一応はメダル候補だろ、とも付け足しておく。
「そう言われると、かなり緊張するんだけど」
苦々しくいう。
明後日から、雅が代表選出された世界ジュニアフィギュアスケート選手権が始まる。例年より少し早い開催だ。場所は、イタリアのトリノ。そこはかつて、日本人初の、フィギュアスケートにおける五輪女王が誕生した場所だ。
雅のほかの日本代表は二人。三人出場するうち、色はともかくとして日本人の一つのメダルは固いというのが事前の予想だった。
それにはそれなりの理由もある。
先ず、去年大会で優勝したフランス代表のマリーアンヌ・ディデュエール、四位だったスウェーデン代表のレベッカ・ジョンソンは、年齢は十九歳以下だがシニアに完全移行したため出場しない。この二人はシニア移行の今シーズン、ヨーロッパ選手権で、18歳のディデュエールが優勝、17歳のジョンソンが3位とめざましい成績を残している。
六位だったベラルーシ代表のエフゲーニャ・リピンスカヤは怪我により欠場。
二位だったアメリカ代表のジョアンナ・クローンは、今年の全米選手権二位の結果を経て、ジュニアではなくシニアの世界選手権への代表が決まった。
今年の強敵は、アメリカ代表の初出場メーガン・マーフィ、前回大会七位の中国の李蘇芳、同じく八位ロシアのニコル・スミルノワだろう。
その中で、着実に実力をつけた日本勢、特に去年大会三位の安川杏奈と五位の星崎雅のどちらかが表彰台に上がるだろう、というのが大半のスポーツライターの意見だった。
今思えば、ジュニアとはいえ去年の女子シングルはかなりレベルの高い戦いだった。ひとつ失敗すればそれだけで落とされる、そんなスリルに満ちていた。勿論、今年のジュニアのレベルが低い、とは言わない。だが、一種の熱さを持った戦いだったと思う。特に雅にとっては、特別な意味の持つ大会になったのだ。
そして、去年の男子シングルも。
女子では、これからの数年間一つの時代を築いていくであろう少女たちの饗宴。
男子では女子と同じ理由と――一人の天才の、完璧な覚醒。
その男子の戦いに、俺も加わった。あの大会ほど、誰かに負けたくない、このまま終わらせたくないと思った大会はない。
負けたくないと思った、金髪で年下のロシアの氷の化身。
覚醒した天才児、アンドレイ・ヴォルコフ。
今季、俺は彼とは一戦も当たっていない。シニアGPシリーズは二戦ともエントリーがかぶらなかったし、俺は一戦欠場したため、彼が優勝したファイナルには出場できなかった。全日本選手権や、ヨーロッパ以外が集まる四大陸選手権はそもそも彼には関係がない。
次に当たるとしたら今季の最終戦、フランスの首都パリで開催される世界選手権。
進化し続ける天才を、俺は脅かすことが出来るのだろうか。
「てっちゃんてっちゃん」
そんなことを考えていたら、雅の声が俺を現実に引き戻した。
「……何だよ」
「目つき、いつもと違ったよ。どうせ今、彼の事考えてたんでしょ?」
その時のてっちゃんはわかりやすいよ、と付け足した。……確かに、あの天才の事を考え始めると、どうしても思考が底に沈んでしまう。自覚していることではある。だが、それを誰かに見破られたくはなかった。
彼の事を考えると、自分の未熟さを強く感じてしまう。だがそれ以上に感じるのは――
……まぁ、これからの大会について考えすぎても仕方のないことだ。練習を重ねて、自分の出来るベストを尽くす。それだけの話だ。
それにしても、雅ときたら呑気なものだ。落ち着かないとはいえ試合前にこんな時間まで滑るっていうのは、常人の神経じゃないような気がしている。氷に対する図太さがというものが、あの天才と通じているような気がするのだ。
嫉妬すべきなのか、あきれるべきなのか。実際の所よくわからない。俺はさっきの雅の言葉には乗らず、苦い笑いを返した。
「そろそろ本当に上がれ。製氷もしないといけないんだろうが」
「あ、そうだった。じゃああと一本、ジャンプ飛んだら引き上げるよ」
そういって、リンクサイドから離れる。フォアで滑ってから、バッククロスでスピードをつける。通常のジャンプとは助走のスピードが違う。それだけで、何のジャンプに入るかはっきりわかった。
――思いが一年前に引き戻される。
雅だけではなく、俺にとっても去年の世界ジュニアは特別だ。
雅にとっては未知の領域へ一歩踏み入れた瞬間のため。
俺にとっては苦くも――何者かになりきれたあの四分間の、貴重な経験があるからだ。
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