2.肉まんとビデオテープ ――2006年3月18日 【前編】

 本州に初めてやってきたとき雅に一番驚かれたことは、小学校の体育の授業でスケートがある、ということだ。釧路は元々スケートが盛んで、俺も幾人かの友人とスケート少年団に入っていた。小学校の授業以前に、普通に滑ることが出来た。そしてそんな人間は結構珍しくもない。


 だが、フィギュアとなると話は別だ。


 北海道はスケート王国、と評されることがあるが、それはあくまでスピードスケートでの話だ。北見、帯広、釧路、中標津などでスケート少年団があるが、フィギュアのクラスやクラブはスピードほど盛んではなかった。地域によって違いはあるだろうが、北海道で盛んなのはスピードスケートのロングトラック競技と(ショートトラックは北海道ではメジャーではない)、それからアイスホッケーだ。

 つまり、北海道でフィギュアをやっている人間は少数派だ。


 ――その少数の人間になるには、いくつかのきっかけが必要だった。


 *


 溶けかけた雪でべしゃべしゃになった道を、何台かの車が走っていった。純白色のものが泥で汚されていくのを見ると複雑な気分になる。勿論、慣れてはいたし白いまま残しておくことは不可能だと知ってはいた。


 もう10分も、待ちぼうけを食らっていた。


 丁度、俺がバス停に着いた時に無常にも発車していった。その時点で、次のバスは20分後。ベンチに座って、近くのコンビニで買った昆布のおやつをもしゃもしゃと食していた。

 空の上から、タンチョウの泣き声が耳に入ってくる。最近、空を優雅にめぐる白と黒の姿が多くなったものだとぼんやりと考えた。


 澄み切ったクリアな空に、甲高いクリアな泣き声。風の鳴き声が重なる。久しぶりの青空にふさわしい、清々しい音を聞いていた。こういう、大気や生物から自然発生される音を聞くのは好きだ。切り取った風景と音があるだけで、この瞬間は完璧な空間だという錯覚を覚える。タンチョウの鳴き声。雪景色。大地を潤す雨の一粒。鈍色の分厚い雲から漏れる太陽の光。若葉が光合成を起こして、自らの表面を濡らす。一日だけ咲き誇る月下美人の白さ。蛋白質を含んだ土のにおい。


限りなく透明な川の流れ。


 美しいものだけに囲まれて過ごすのは窮屈だ。それでも人間は、単純で純粋なものを愛してやまないのだ。


「あー、タンチョウがいるねぇ……」


 そんな思考は、横から遮られた。

 勿論これは俺の声ではない。しまりのない、だめな大人の声だった。少しだけ不愉快になる。


「ねえ、君」


 そんなしまりのないだめな声をもつ大人は、隣にいる俺に話を掛けてきた。バス停には、俺と、その声の主しかいない。声の主は俺と同じぐらいにバス停について、同じく次のバスを待っていた。発車したバスを見た瞬間に「あー、行っちゃったー」と呑気に呟いていた。


 目鼻立ちは整っていて、輪郭は骨ばっている。真っ黒な髪はすっきりと切りそろえられている。真冬と違って暖かくなってきたとはいえ、茶色のコートはあんまり防寒機能がなさそうだった。背が高くて、恐らく20代の前半。

 ……まさか話しかけられるとは思ってなかった。


「それ、ちょっと分けてくれない?」

 それ、と指したものは、俺が持った昆布のおやつだ。


 ……何で見ず知らずの人間に食ってるものを分けなきゃならないんだ。幼稚園で小学校でも先生たちは同じことを言っていたぞ。「知らない人に話しかけられても、無視しなさい。ついていっちゃ駄目」と。

 俺はいま、新手の技にひっかかっているのだろうか。「おやつあげるから来ない?」とかでもなく、子供を攫う手段として「その食いものちょっと頂戴」は……これまで7年という短い人生でも、聞いたことがない。


「腹減って死にそうなんだ」


 情けない声だった。顔も青白いし、本当に腹が減っているだけかもしれない。が……。それぐらいで警戒心を解くわけがない。


「そんな事言うやつは簡単には死なないよ」

「……腹減りまくってる俺の心情を察してはくれないのかい?」

「俺、まだガキだから、そんな高等技術持ってないし。だったらコンビニまで行けばいいじゃんか」

「面倒だからいやだ」


 ……しまった。話に乗ってしまった。これからは話を掛けられても無視を決め込むぞ、と思いながらコンビニの袋を開けた。昆布のおやつの他に、大好物の肉まんを買っておいたのだ。

 まだほんのり温かい。がちがちに冷えた指先を肉まんで温めていたら、横から手が伸びた。


「あー!」

 叫ぶのが一歩遅かった。

肉まんは俺の手から消えて、男の手へと渡っていた。


「うん。うまい。俺、あんまんより肉まんのほうが好きなんだよね。ありがと」

「子供のもん勝手にとるなよ! せっかく残しておいたのに!」

「何。君がおとなしく昆布を分けてくれなかったのが悪いんだよー。あー助かった」


 男が、人のものを実にうまそうに咀嚼する。あっという間になくなった。子供のもの、というよりも、見ず知らずの他人の物、と言った方が正しいが……なんてだめな大人なんだ。いい大人が子供のものを横取りするなんて。100円は子供にとって大金なのに!

 むっときたので、すぐさま立ち上がって歩き出す。


「バスはもうすぐ来るよー?」


 それまでの時間をあんたと一緒にいたくないんだよ、という言葉を必死で飲み下す。バスで5分、歩けば15分の距離を面倒がるんじゃなかった。泥だらけの雪を蹴飛ばしながら、速足でバス停から離れた。

 10メートルぐらい歩いただろうか。


「ねぇ! ちょっと君!」


 後方から、張り上げた声。さっきの男の声。なんだようるさいな。話しかけんなよ。


「ねぇ。大事なもの忘れてるよ!」


 そこではた、と気が付いた。耳あて。マフラー。長靴。リュックは背中にしょってるし。他にないものは……一つしかない。

 後ろを振り向く。座っていたベンチに置いてあったのは三角の形をした黒いバックで……つまりそれは俺のスケート靴!

 あわてて戻って手にする。よかった。無事だった。


「駄目だよー。スケーターなんだったらスケート靴を忘れたりしちゃ」


 少しだけ目をむいた。俺はスケートやっている、なんて目の前の怪しい男に言った覚えはない。


「何で、スケーターだってわかるんだよ」

「そりゃ、君の持っているそれは俺にとっちゃ商売道具だからね。見ればわかるさ」


 商売道具、というのはよくわからなかったが、とりあえずは同じくスケーターであるらしいのはわかった。

 少しばかり、警戒心を解いた。……肉まんの恨みは消えてはいないが。

 そうこう話しているうちにバスが来た。小銭入れを準備している間に、男が先にバスのチケットを買っていた。


「釧路クリスタルセンター前まで二人分。あ、一人は子供料金ね」

 運転手は何も言わずに、チケットを二枚男に渡していた。

「ほい」

『釧路クリスタルセンター前 子供料金110円』と書かれたチケットを、男から手渡される。……これはつまり。

「肉まんの礼だよ」


 そういう事らしい。これを、そのままもらってもいいものかと思ったが、それ以上に他意はないようなので、素直に受け取った。

 だが、もう一点分からないことがあった。


「何で俺の行き先がわかったんだよ」

「だって、この辺りはあれしかリンクはないし。そんなもんもって行く場所はひとつだけでしょ。旅は道連れ。さあ一緒に行こうじゃないか」


 旅じゃないし、とぶつぶつ言いながらバスに乗った。

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