瑠璃の書の司は碧の王子の番

魚形 青/角川ルビー文庫

王子の好きな物語



 ナイティスは書架に本を戻す手をふと止めて、図書館の入り口の方に目をやった。王立大学の授業が終わり、学生たちが大学からすぐ近くの王宮図書館にやってくる時間だった。いつものように、供の騎士を連れた第三王子のシグレスが入ってくるのが見えた。

 ちょうど西日が背後から差し込み、後光のように彼の長い金色の髪を輝かせた。ナイティスはまるで天の使つかいのような、その姿のまばゆさに目を細めた。

 図書館に毎日のように現れるシグレスは、高貴な生まれの上、容姿は端麗で明晰な頭脳の持ち主であるという、天が何物も与えた少年だった。優れた腕の彫刻家が作ったように整った顔立ちを見つめるたびに、ナイティスの心は賛嘆の思いでいっぱいになる。

 ナイティスは初めはその冷たいほど整った美しさに近寄りがたく思っていたが、王子という身分にもかかわらず、シグレスは気さくに話しかけてくるのだった。それはうれしいことであったが、ナイティスには戸惑いも多かった。シグレスはナイティスをからかっているような言動をとるのだ。

 ――なぜシグレス様は私にあのような言葉をおかけになるのだろう。私が困った顔をするのを面白く思われている? 本当は言葉を返さない方がよいのだろうか。

 それでも、からかわれるとナイティスは、王子に遠慮しなければと思いながらも反論してしまう。

 ナイティスは図書館での勤務を終えた後、シグレスに誘われて図書館の中庭に面した回廊に座った。初めてシグレスと一緒に座って話をした日は、心臓がせわしなく鳴って何を話したか覚えていない。

 今はそこまで緊張することなく、アレト教のきょう問答もんどうの話ができる。アレト教の教理についての知識ならナイティスは専門のことであり、シグレスもからかってはこない。しかし教理について対話した後、今読んでいる本について話しているとき、シグレスは面白そうにあおい目を輝かせた。

「お前はやっぱり恋物語ばかり読んでおるのだな」

 シグレスの言葉に、ナイティスは唇をとがらせるようにして急いで反論した。

「恋物語だけではありません。私が物語が好きなのです」

「しかし今までお前に薦めてもらった本は、だいたい恋物語だったぞ」

「物語の中に恋の場面や恋歌が入っているだけです」

 確かにナイティスは戦の物語より恋の物語が好きで、手にとることが多い。しかし年下の美しく聡明な王子に、そればかり読んでいるように言われるのは悔しい。教義や学問より恋物語に夢中な僧侶という印象は与えたくなかった。

「俺が好きな本には、そんなに恋の場面は入っていないぞ」

「シグレス様のお読みになる本は物語より、実学の書が多いではありませんか」

 今までシグレスに薦めてもらった本のほとんどは、科学や経済についての実学書だった。ふたりは本好きというところでは一致していたが、実は関心があるところは違っている。ナイティスはそのことに気がついていた。

 シグレスが薦めてくる本は、知的で面白い学びの本がほとんどで、ナイティスの心を揺さぶるような物語ではない。

「実学に興味はないのか」

「私は床につく前に物語の本を読むのが好きなのです。シグレス様こそ物語にはご関心がないのでしょうか」

「俺だって物語の本くらい知っている」 

「ではシグレス様、本草学や算術など実学書ではなく、物語の本を私にお薦めください」

 シグレスの目がきらめいた。

「歴史書も結構です。シグレス様がお好きな物語を読みたいのです」

「……俺の好きな物語だな」

 目を輝かせたシグレスの笑みはどこか思わせぶりだったが、ナイティスは深くは考えなかった。シグレスは図書館の中に入っていき、一冊の本を手にして戻ってきた。

「これが面白い」

 シグレスに渡された本を、ナイティスは読んだことはなかった。図書館によくある、古びた暗い茶色の革装幀の本だった。分類記号は確かに物語になっている。

「『マキガ山夜話』でございますか」

「読んだことはあるか?」

「いえ、ありません」

「面白いぞ。読みだすと眠れなくなるほど面白い」

「どんなお話なのですか?」

「いくつかの短編が入っているが、一番初めの話は、お前の好きそうな姫と騎士が出てくる」

 シグレスもナイティスの好みを理解して薦めてくれているらしい。シグレスが薦める物語を読むことは、彼の心のうちを知ることになるかもしれない。ナイティスの胸はどきどきと鳴り始めた。

「ありがとうございます。今宵はこの本を読ませていただきます」

 嬉しそうな顔のシグレスに、ナイティスは頭を下げて礼を言った。

 ――これがシグレス様がお好きな物語なのだ。

 ナイティスはシグレスに渡された本を胸に抱きしめるように、僧院へ戻った。


 ナイティスは自分の質素な僧坊で眠る前のひととき、シグレスから借りた本を取り出した。シグレスが自分に薦めてくれた本だ。図書館で大切にされてきた古い本からは、しんと静かな時間が香りのように立ち上ってくる気がする。大事そうに膝の上に載せ、そっと指で古い革表紙に刻印された標題をなぞった。

 ――なぜシグレス様はいつも私に親しく話しかけてくださるのだろう。

 シグレスが来る時間をいつのまにか自分が心待ちにしていることに、ナイティス自身も気がついていた。そしてシグレスが、自分が図書館の仕事を終えるのを待ってくれていることにも。

 彼と言葉を交わせるひとときは、金色の夕暮れの光のようにナイティスの中できらめく大切な時間だった。

 だが、自分はヒラス派僧侶なのだ。ナイティスがシグレスと座って話しているのを見た、図書館の同輩のカダイ派僧侶に「身分をわきまえろ」と言われたこともある。王子と気持ちが通いあっていると思うなど、不届き者と言われても仕方がない。ナイティスは首を横に振り、沈みこむ気持ちを変えようと本を開いた。

 「マキガ山夜話」は淡々とした語り口の本だった。古雅な味わいの文章が実に美しい。シグレスは物語についても趣味が良いのだと、ナイティスは見直した。

 第一夜の話では、道に迷った騎士が山の中の古い城にたどり着く。そこで思いもかけぬ美しい姫と出会い、一目で恋に落ちる。

 ナイティスはふと本から目を上げた。一目で恋に落ちる――初めて王宮図書館でシグレスと出会った日のことが思い浮かんだ。見たこともないほど気品に満ちた美しい少年に出会い、大いなるものに打たれたような驚きがあった。しかしナイティスは急いで首を横に振った。

 ――あれは恋というものではない。私はあまりに美しい人を見て驚いただけなのだ。

 シグレスを見て心が躍るのも、会えない日に気持ちが塞ぎ込むのも、それはただ美を愛でる思いなのであって、それは恋とは呼ばないはず……ナイティスは自分の考えに蓋をするように、本の続きに目をやった。

 城の者たちから姫の伴侶になるよう懇願され、騎士は城の主となることを了承する。姫と愛を交わし結婚の約束をした騎士は麓の村へ降りると、誰もそんな城のことは知らないと言う。不思議に思って騎士はもう一度城を捜しに行く。そのとき一人の僧侶と道で出会い、死霊にとりつかれていると言われる――。

 ナイティスはそこまで読んで驚きに息をのみ、慌てて本を閉じた。

 ――これはもしかして、怖い話では? 

 確かにシグレスは騎士や姫が出てくるとは言ったが、恋物語とは言わなかった。いたずらっぽい笑みを浮かべたシグレスが目に浮かび、ナイティスはきゅっと唇を結んだ。

 ――シグレス様はまた私をおからかいになっているのだ。

 この後、きっと死霊の恐ろしい姿になった姫が出てきて……どうなるのだろう? ナイティスは恐ろしくて本を開きたくないと思う反面、物語の続きが気になって仕方がない。しかし最後まで読んだら、怖くて眠れなくなるかもしれない。明るい時間に読んだ方がいいだろうと思った。

 ナイティスはいったん本を閉じ、寝台に横たわって目をつぶった。だが、続きが気になって眠れない。そのうちに、夜半よわの祈りの時間が来てしまった。夜半の祈りから戻った後も、物語がどうなるか気になり、とうとう我慢ができず明かりを灯し、再び本を開いた。

 騎士が城を探しだし入っていくと、そこは誰もいない廃墟だった。すでに滅びて久しい様子に騎士は愕然とし、打ちのめされたように自分の居城へ戻る。すると夜半を過ぎて、自分の部屋の外へ近づいてくる怪しい物音がする。ひたり、ひたり……。妻にしてくださるお約束は……? という、か細い怪しい声がする……。

 ナイティスははっと手を止め、ごくりとつばを飲み込んだ。気がついたら息を止めて読んでいたが、ひとり僧坊にいるのが恐ろしくなった。これ以上読んでは恐ろしいことになる……と思うのにページをめくる手が止まらず、目も文字から離せずにたどってしまう。

 翌朝、無惨な亡骸となって騎士が発見される。その首にはひとりの女の骸骨がしっかりと腕を絡ませていた――。ナイティスは息をのみ、ぞっと総毛立つ思いで、本を閉ざした。

 案の定、眠れない。ひとり横たわっていると、部屋の外から、ひたりひたり、ひそやかな足音が近づいてくるような気がした。

亡骸がずるずると外れかけた骨を引きずりながら歩んでくる――ぞくりとした一瞬、灯芯が途切れ、明かりがふっと消えた。ナイティスは押し殺した悲鳴を上げた。漆黒しっこくの闇の中から、おぞましい形をした何者かが近づいてくるような気がした。

 急いで明かりをつけても、どきどきと騒いだ胸はおさまらず、とても眠れそうになかった。   

 ――いやだ、こんな恐ろしい物語を薦めるなんて、シグレス様はひどい。私が怖がるのを面白がっていらっしゃるのだ。

 ナイティスの中にシグレスを恨めしく思う気持ちと腹立ちと落胆があった。シグレスが貸してくれた本を手にしたときの高揚を思うと、落胆が一番大きかったかもしれない。

 ――明日、シグレス様の顔を見たくない。見たら何を言ってしまうか分からない。こんな、こんなひどいからかい方をして。

 明けの祈りの時間まで、ナイティスは寝台の上でまんじりともできなかった。




 シグレスはどこかいそいそとした様子で図書館へ向かった。浮き立った彼の様子に供をする白騎士クランが気づいて、「何かよいことでもおありなのでしょうか」と尋ねてきた。シグレスはいや、別にとクランには言葉を濁したが、ナイティスの顔を見るのが楽しみでならなかった。

「マキガ山夜話」はソディアの怪談集として有名な本だった。シグレスも幼いときに読んで怖くて眠れなくなり、クランを呼んで、その夜は添い寝してもらったものだった。ナイティスが本の内容を知らない様子だったので、つい薦めてしまった。

 物語を読んでから眠るという習慣のナイティスは、寝る前にあの本を読んでどう思っただろうか。いつももの静かな年上のあの人の心を揺さぶってみたい、シグレスはただそれだけ思って、ナイティスに本を薦めたのだ。

 シグレスは図書館の貸し出し机に立った。シグレスを見るといつも丁寧に頭を下げるナイティスが、一礼したものの目を合わせず、ふいと顔を背けた。その目が赤く充血しているように見えた。

 想像以上に冷たい反応に、シグレスは自分はやりすぎたのだろうかと内心焦った。しかしそれを表に見せずに快活に声をかけた。

「あの本は面白かっただろう」

 ナイティスはそっぽを向いたまま、シグレスと視線を合わせようとしない。そんなナイティスは、真剣にアレト教の話をしているときと違って、ずいぶん年下の少年を相手にしているかのように思えた。

 シグレスの胸の奥で何かがふつふつと沸き立っている。可愛い、とシグレスは心の中で呟いた。初めて見るこの人の怒り顔は、実に可愛い。

「また俺のお薦めを貸してやろう」

「もう結構です」

 ナイティスはようやく口を開いた。しかしシグレスを見ようとしない。

「今度は面白いぞ」

「私はシグレス様とは本の趣味が合わないようでございます」

 きゅっと唇を引き結ぶと、白い頬がふっくらして見える。その表情をじっとシグレスが見つめているのに気づいたのか、つんと反対方向に顔をそむけた。そんなしぐさもシグレスにはたまらなく可愛く見えるが、それを言うと、この年上の僧侶はなんと反応するだろうか。

 いつも穏やかなナイティスだが、今日ばかりはシグレスに憤りを隠せないようだ。よほど昨夜は怖かったのだろうと、シグレスは思った。

 ナイティスが頑として自分の方を見ないのは嫌だ。自分と目を合わせないナイティスと、どうしても視線を合わせたくて、シグレスはナイティスが顔をそむけた方向へ回り込んでみた。

「そんなに怖かったのか?」

 瑠璃るり色のまなしがきっと睨むようにシグレスを捉えた。

「怖い本をお薦めされるときは、そうおっしゃってください!」

 ようやくナイティスが自分を見たので、シグレスは心の中でほっとした。だが、それを見せないように、相変わらずからかいを含んだ口調で言った。

「中身が分かったら面白くないだろう」

「それでもあんな怖い話……あれは私への嫌がらせでいらっしゃるのでは」

「嫌がらせなどするものか」

「でも、からかっていらっしゃるのでしょう?」

 いまだにふくれ顔のナイティスの、どこかあどけなさを湛えた表情を、シグレスは目に焼き付けようとじっと見つめていた。

「お前は面白いからな」

「やっぱり」

 ナイティスは小さくため息をついた。

「僧侶をおからかいになるものではありません。そんなお暇があったら勉学にお励みください」

「勉学には飽きたのだ。それに卒業までに必要なことはもう学び終えた」

「それなら、ほかの書の司とお話しください。みなもシグレス様に書を薦めてほしいようです」

 話していくうちに、ナイティスはようやくふだんの平静な表情を取り戻しつつあった。落ち着いた様子になると、シグレスには再び手の届かぬ人になってしまうように思える。

 厳格な戒律を守るヒラス派の僧、年齢も上、自分には王子という身分があり、いまだ成年すら迎えていない……一気にそれらを飛び越えるすべはないものか、シグレスはひそかに歯がみした。自分はいまだ、こんなときに気の利いた言葉を返すことすらできない子どもなのだ。

「俺はお前と話したいのだ」

 思わず唇からこぼれたのは、心のままの正直な一言だった。ナイティスがはっとこちらを見る。シグレスはじっとその目を見つめた。波立つ心を映し出すかのように瞳が揺らぎ、ナイティスは落ち着かなげにうつむいて、本を片づけ始めた。

 ――俺はいつもこの人をおどおどした子鹿のようにさせてしまう。

 歩み寄ろうとしても怯えさせるだけで、いまだにナイティスの心に近づけていない。自分の想いを伝えることができていない。

 少し近づくだけですぐ後ずさる野の小さな獣のような人を、自分の腕に抱きしめる日は来るのだろうか。迷う心を自分で奮い立たせるために、シグレスは朗らかな声で言った。

「明日はもっと面白い本を持ってきてやろう」

 とたんにナイティスがきっと顔を上げた。きらりと瑠璃の閃光(せんこう)の走る眼差しを受けて、シグレスの心は再び弾んだ。ナイティスはそんな彼の心中には全く気がつかない様子で、唇をとがらせた。

「シグレス様のお薦めはもう結構です!」

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