最大多数の最大健康

あろん

最大多数の最大健康

 カーテン越しの暗さが、まだ夜であることを物語っていた。

 溶けかけのアイスみたいに、脳みそが形を失いつつあるように感じる。眠りたいという欲求が溢れてくるが、不思議と脳の芯は冷えきっていて、眠気がまったく起こらない。

 眠りたいのに眠れない。もどかしさばかりが募り、うんざりして私は起き上がった。

 きっと原因は時差ボケだろう。枕元のサイドテーブルに手を伸ばし、ブレスレット型のウェアラブル端末を手首に装着する。生体認証が行われて端末が起動する。

 端末が映し出したホログラフィック・ディスプレイを操作し、お目当てのソフトウェアを起動させる。新たなウィンドウが立ち、現在の私の生体データが詳細に表示された。

 データの一覧を見ていくと、やはり体内時計に乱れが生じてしまっていた。科学技術の進歩は時間距離を短くしたが、残念ながら時差という絶対的時間は変えられず、個々人で体内修正する必要がある。

 私は端末を操作し、脳幹に埋め込まれたNRチップに働きかける。いつも通りの二十四時就寝、六時起床の設定だ。設定し終えるとプログラムを実行し、自律神経系を調節させる。

 体内時計のリセットが済み、自然な眠気に襲われる。私はウェアラブル端末を外して欠伸をひとつすると、そのまま深い眠りについた。


   ***


 精神障害に対する治療法はかつて、長期療養や薬物投与、カウンセリングが一般的だった。長い時間をかけて原因をひとつひとつ明らかにしていき、またさらに長い時間をかけて治療を施していく。あてもなく砂漠を彷徨うような苦しみに苛まれ、たとえゴールに辿り着いたとしてもそこが終わりではない。もしかするとここは砂上の楼閣かもしれず、ゴールだと思った場所は脆く崩れ去り、ふたたび砂漠に投げ出されるかもしれない。そんな再発の恐怖と今度は戦わなければいけなかった。


 折れた骨を正しい形にあわせて接ぐように、血圧やBMIなどがある数値域に収まれば健康であると認められるように、精神衛生メンタルヘルスも健康であることが分かるようになればいいのに――誰かがそう嘆くのを聞き入れたかのように、NR(ニューロン・レギュレーション)チップは現れた。


 初期のNRチップは脳幹に埋め込むことで中枢神経系を監視モニターできるという道具だった。医療分野でのみ使われていたが、世界的なIT企業が目をつけ、感覚操作に応用できるのではないかと多額の研究資金を投じた。そしてその結果、NRチップは神経系への直接干渉が行えるようになり、単なるツールからハードウェアに進化を遂げた。


 完全な感覚操作を可能にするとうたわれ、NRチップは満を持して市場に投入された。だが体内に機械を埋め込むことに反感を抱く人々は少なくなかった。飲酒や喫煙は平気で行うくせに、このような場合にだけは身体の心配を口にする輩は多い。しかし利用者の感動の声が方々から上がり、また生体基盤バイオベースであることなど安全面が説明されると、徐々にNRチップの利便性・安全性は認知され、みるみるうちに利用者は拡大した。


 NRチップは完全感覚操作などの技術革新を確かに起こした。だが本当の革新は、これからだった。

 多くの人々が使用したおかげで、精神的に健康な人々の生体データが集められ、精神衛生と神経系の関係が統計的に明らかにされた。これにより精神障害を負う人々の神経系を、健康的な精神衛生を持つ人々の神経系に合うようにNRチップを用いて調節することで、精神衛生を改善するという新たな治療法が確立された。


 現在では精神と肉体両方の健康状態を常時監視可能となり、さらにその他多くのテクノロジーと結び付けられると、NRチップは生活するうえで必須のものとなった。

 そして精神衛生を健康に保つための神経系調節も、ごく日常的なものとなっていた。


   ***


 六時が近づき、NRチップが神経系に干渉してホルモンバランスを調節する。ゆっくりと覚醒を促され、予定通りに自然と目が覚めた。

 ウェアラブル端末を手に寝室を後にしてリビングに入ると、入室を感知して自動で電気が点き、カーテンが開き、テレビが映った。

 アナウンサーがニュースを読み上げる。

「昨日、識上ドラッグ使用者による死傷事故がふたたび起こりました。これで識上ドラッグが関わる事故は今月五度目となります。政府は対策に関して未だ検討中という――」

 朝から気の滅入る話題だ。

 識上ドラッグとは、違法ドラッグの作用をNRチップによって神経系で擬似的に再現するものだ。なにが楽しくてわざわざそんなことをするかは理解できないが、健康な世界に反発したがる輩が少なくともいるらしい。おかげで私の仕事は増える一方だ。

 装着した端末が警告音を発した。私の精神衛生の悪化を感じ取ったらしい。最近はこういうことが日に何度もある。

 私は特に確認もせず端末を操作した。これで私の精神衛生は、統計的に割り出された健康な精神衛生の範疇に調節される。

 朝食を済ませ、仕事に行く身支度を終え、靴を履こうとしたとき、不意に身体がふらついた。

 疲れているのか……?

 しかしNRチップは生体データから身体的健康を保証していた。ではこれは――

 そのとき、ふたたび端末が警告音を鳴らした。確認するとストレスが基準値以上の数値を示している。いま感じた不安が原因のようだ。

 私は端末を操作して安心感を高め、不安感をなくすように設定した。気分が良くなっていく。そんな気持ちにさせられた。

 健康を取り戻すと、ようやく家を出て、仕事に向かう。私はまた「私」の上げる悲鳴に気づかない。いつも警告音が掻き消してしまう。

 こうして「私」はゆっくりとすり潰されていく。けれど何も気に病むことなんてない。気持ちなんてNRチップさえあればどうにでもなるのだ。

 私はまた端末を操作して、不安感を消したように、たわいなく消し去るだろう。

 たとえそれが、「私」自身であったとしても。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

最大多数の最大健康 あろん @kk7874

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ