第9話 本能寺の変当日:家光秀との別れ


 街灯が整い、深夜でも車が走る現代の感覚で戦国時代を捉えると、うっかりすることがある。想像するのは困難だが、これほど重要な要素もない。


 本能寺の変、当日……。


 夜が明け始めた頃、新月だった。

 前夜は大雨だったが、この時間は止んでいた。ただ、道はぬかるみ、行進が遅れた。


 泥を跳ねながら山道を隊列は進んでいく。


 平地に着くと、田畑から蛙の鳴き声も聞こえてくる。


 テレビも街灯も車もない時代に、1万余の軍勢が、いかに静かに行軍したとしても、その騒音が聞こえないわけがない。


 日が沈めば眠り、明ければ起きる時代の話なんだ。

 それでも、信長の寝込みを襲えるのか、私は疑問ばかりだった。


 扇風機も、まして快適なエアコンもない時代、暑苦しく寝苦しい夜であったにちがいない。


 雨は降っていない。

 静けさが支配している。


 田畑が広がり茅葺屋根の平屋が点在するなかを、隊列は進む。

 遠く大文字山や比叡山が地平線を遮るように聳(そび)えていた。


 そして、現代人よりも野生的で、聴覚が研ぎ澄まされていたであろう戦国時代の武将を思い浮かべたとき……。


 1万3000の軍勢の足音に気づき、信長は逃げることができなかったのだろうか?


 合理的な性格の信長。宿泊所としていた本能寺には、100人の味方しかいない。現状を考えれば、すかさず逃亡する道を選ぶはずだ。


 愛宕山から京都に入る前、亀山城から来た軍勢と合流。保津狭あたりで、家光秀が右手をあげて隊列を止めた。東へ進めば京都、西に進めば亀山城。


「アメとオババ、ここで別れじゃ」

「家光秀」

「ここから先はどうなるか知っておろう」

「戻れ!」

「しかし」


 彼は、ふっと笑った。


「それに知っておろうが。3000人ほど兵を連れて、斎藤利三が先に本能寺に向かっておる。囲みが終わったら伝令がくるはずだ。総勢で本能寺を攻めては、信長に逃げられるからな」

「そうだったのか。誰の案です」

「そりゃ、アメよ。言わぬがよかろう。私は京都周辺を囲んで、信長殿の逃げ場を封じる」


 これから死にゆくものの諦観をもって、家光秀は静かに微笑んだ。


「アメ、ひとつ頼みがある」

「なんでしょうか」

「おジジ殿。神君を必ず守ってくれ」

「家光秀、死ぬのがわかっていて。こう、私が言うのも変だけど、ひどく辛いのだけど」

「二度目じゃ。それほどのこともなかろう」と言って、彼は懐から印籠いんろうを取り出した。

「これを渡しておく。神君には伝えてある。これを持つものが現れたら、その指示に従って欲しいと。若い神君は素直で冷静じゃな」


 そこには徳川家の家紋『三つ葉葵』が刻印してあった。


「では、さらばじゃ」

「家光秀、もう会えないのか」

「昨夜は楽しかったのう、アメよ」


 オババが左頬をゆがめてほほえんだ。


「さらばだ。おとこよ」と、オババが言った。


 私たちは、あぜ道に下がった。


「もの共、出立!」


 家光秀の声が、早朝のしじまを破って朗々と響き、いつまでも耳に残った。


(つづく)


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