第5話 明智光秀の正体


 光秀は、なぜこんな状況で落ち着いていられるのか。物事にたやすく動じない性格なのだろうが……。


「ここは極楽ではなさそうだな」と、彼は呟いた。

「戦国時代ですから」

「なるほど。では、そなたも、別の体にいるというわけだな」

「そうです」


 どんよりと曇った空から、ぱらぱらと雨が落ちてきて、欄干らんかんを濡らしている。


「巫女と呼ばれているのは、なぜだ」

「この時代を知っているにすぎないのですが。歴史を学んできました」

「ほお、オナゴが、その手の学問をするような世界があるというのか」


 この男はいったい誰なのだ。

 話し方や動作から、あきらかに高貴な人物だったのは間違いない。


「あなたは誰なのですか」

「余か。死んだ人間だ」

「死んだ?」

「そうだ。余の命はもういくばくもなかった。病に伏せっていての。雷雲が光ったのを見た瞬間に意識を失った。目覚めると、なぜか、この男の体にいた」

「驚きませんでしたか?」


 彼はなんの反応も示さなかった。泰然とした態度っていうの? 我かんせずと言えばいいのだろうか。どこか他人事で私は呆れて彼の顔をのぞきこんでいた。


「それでどうなさったのです。光秀の体で目覚めたときは」

「周囲を見る、だ。状況はすぐにわからなかったが」

「パニックにはならないで」

「パニックとは」

「驚き慌てふためくことです」

「余は、そのような教育を受けてはおらん」

「では、明智光秀が、どういう人物かご存知なんですね」

「それは、わかっておる。これから3年後に起きることもな」

「ええ、あと3年ほどで」


 そうだ、もし、この男が元の世界に戻れないなら、光秀としての使命を全うするしかない。逆にいえば、この男が光秀にならなければ、あるいは、『本能寺の変』が起きなかった可能性はあるのだろうか?


 ふと、奇妙な考えが浮かび、私はぶんぶんと頭をふった。


「我らのような者が他にもおるのか」

「ええ、もう一人、私のしゅうとめがいっしょです」

「ほお、それは厄介な状況だな。アメとやら」

「厄介どころか、厄災であります」


 光秀は静かに笑った。


「あなたは、いったい誰なんですか」

「余か…、ん、第3代将軍、徳川家光じゃ」


 その答えを聞いて、さすがの私も仰天した。

 思わず背後に下がった。あまりに驚いて言葉がなかった。


 あ、あの家光。


 徳川家康の孫の……。慶安4年(1651年)に47歳で家光は薨御こうぎょしている。あの…、


 あの海音寺潮五郎氏が書いた。

 『徳川家康は全てを自分で決めた』

 『その息子である秀忠は半分を自分で、後の半分は家臣に任せた』

 『そして、その孫・家光は家臣に全てを任せた』


 って、あの人任せの家光。


「い、家光…」

「呼び捨てとは、また、心地よい」


 イヤミか。きっとイヤミだろう。


「すみません」

「余を知っておるのか」

「そりゃ、もう、有名ですから」

「ほお…、そなたはどこからきたのだ」

「私の時代は家光さまから考えると、ほぼ、400年後になります」


 彼は何も言わなかった。ただ、少し肩の力が抜け、それから、視線をこちらに移すと、しばらくしてこう言った。


「それほどはるか先の時代なら、ここは随分と変わっておろうな」

「はい」

「いい時代か」

「平和です。人々は飢えることもなく、みな家に住み、そして、たいていの物は手に入ります。旅も自由です」

「よい世界のようだな」

「ほとんどの人はそれが贅沢ぜいたくだなどと思っていません。普通に手に入れることができるからです」

「そなたもか」

「ここに来て、清潔な水を飲むことに苦労しました。井戸からはじまる重労働で水を組み上げるだけで腰が痛くなってくるし、運ぶのはさらに大変。それも冬は凍るように冷たくて触れると手が痛いし、夏は生ぬるくて飲むとぞっとします」

「ほお、そなたの時代では、そういうことはないと申すか」

「そうです。水は部屋のなかで、こうなんて言うか、ちょっとひねるものがあって、それを回すと、ジャーって簡単に出て来ます。夏に冷えた水を簡単に飲めるし、冬はあったかい水で洗い物ができます」

「想像ができん。どうせなら、そっちの世界に生まれ代わりたかったぞ」

「ふふふ。驚かれることはもっと多いですよ。空も飛べます」

「空か」

「はい。空も飛べるし、夜が昼間のように明るい。ロウソクの数十倍に明るいあかりがあるのです」


 話しながら、私はくつろいでいた。この男の態度にはどこか人の気持ちを緩ませる力があるようだ。


「あっ」

「なんだ」

「今は、天正7年」

「それがどうした」


 私は思わず吹き出した。


春日かすがつぼねです」


 春日の局とは家光の乳母で、徳川幕府の大奥で権勢をふるった女。家光にとっては実の母よりも大切な女だったはずだ。考えてみると徳川家光は両親からは阻害されてきた。だから、母だけでなく実の父とも関係がよくない、それゆえにか独眼竜政宗と呼ばれる伊達政宗を父と呼び大切にした。


「春日がどうしたというのだ」

「もうすぐじゃないですか? 秋になると生まれるはず。まだ、今は母親のお腹のなかでしょうが」


 光秀いや家光は、大声で笑った。


「あの春日が、赤ん坊。いや、それだけは想像できぬ」

「でも、間違いないです。わりと近くで、黒井城近くで生まれるはず。会いたいですか?」

「ははは…、それは面白い、いじめてやりたいわ」


 明智光秀の知的な美しい顔で、徳川家光はおおらかに笑った。


(つづく)

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