第2話 物憂げで美しい明智光秀


 ふすまがするすると開くと……


 口元にヒゲをたくわえた渋い中年男が立っていた。


 誰、この人?

 光秀じゃない。それは、わかる。だって、前回に意識が入れ替わったとき、1度だけ光秀を見ているんだ。


「斎藤さま」と、九兵衛が平伏した。

「そのオナゴか、そなたの申していた巫女みことやらは」

「ハハア」


 斎藤と呼ばれた男は、きっと、言おうと思った、うん、わかるよ。

おもてをあげよ」って、私に威張った口調で言いたかったと思う。


 でも、私、言われるまえにおもてをあげちゃってて、そして、思いっきり無作法に目が合った。


 それで、奴、ん? って表情を一瞬浮かべた。


 二日酔いがまだ残ってるし、偏頭痛が治ってないし。

 機嫌が悪いんだ。だから、もうそっちの都合で呼び出したんだから、いいでしょって気分だった。


 ところで、斎藤?

 斎藤で思い浮かべる偉そうな男といえば、斎藤利三。


 このおじさん、たぶん、彼だ。45歳前後って雰囲気だし口ヒゲはやしたりしてるから。

 明智秀満と同じ筆頭家老で、明智の家臣内では1、2を争う重鎮じゅうちんにちがいない。


 ちな、もう一人の筆頭家老である明智秀満は光秀にとっては従兄弟いとこにあたる。


 まあ、そういうことは別にして。


「入れ」と、斎藤は言った。

「は!」


 九兵衛、なんだか礼儀正しい。

 前回の入れ替わりから6年が過ぎている。奴も随分といろいろ勉強して大人になったということか。完璧な礼儀作法を身につけているんだよ。


 お母さん、嬉しい! なんて、息子の成長を見た母の気分になっていた。この時代じゃ、私のほうが年下だけど。


 で、やつね。あの戦場で槍ふりまわしてる九兵衛がだよ、なんと正座して両手を八の字につけ、その場で一礼すると、膝でにじり寄って広間内に入ったんだよ。

 そして、体を反転させて、すごく丁寧にふすまを右手で寄せ、そして、左手で閉じた。


 もう完璧な礼儀作法。


 ま、私を廊下ろうかに置きざりにしてなければ、満点だった。


 まだまだだな、若造。


 私といえば、まだ、体調はよくないし、このまま去ってもよかった。

 でも、いっしょに残された近侍の者が困った顔をしていたから、少し同情しちゃったんだ。


 いや、あなたが悪いんじゃない。

 だいたいが、こういう儀礼的な世界と九兵衛なんて、もう、そもそも無理なんだから、それを大きな体をした子どもみたいに無理すっから。


 九兵衛、慌てて襖を開けて、照れ隠しに「はよ、入らんか」と言った。


 ふふん。昨夜、かってに私たちを残して、テンと隠れるなんてするからさ。

 ざまぁ、であります。


 私は、にっと笑って広間に入った。


 その広間は薄暗かった。曇天にも関わらず障子が全て閉じられていたからだ。


 正面に三段高くタタミが置かれ、その場所に脇息きょうそくにもたれた男がいた。


 白い着物をきて、肩に羽織った着物は贅沢な品物で。


 この男こそ間違いなく明智光秀だとわかった。


 前回、光秀を見たことがある。

 天正元年(1573年)のことだ。

 戦場から帰ったばかりの光秀は馬に乗り疲れた顔をしていた。

 なんだか、とても疲れた顔をしていたが、しかし、その態度は自信に溢れ、血気があった。


 しかし、今、脇息にもたれた男は、なんていうんだろうか。

 確かに、あの男なんだが、少し違う。

 その理由がなんなのかわからない。


 なんて表現したら良いのだろうか。


 うん、あの、これ知ってる?


 明智光秀の子どもたち、細川ガラシャ夫人も別の子も美しいことで有名なんだ。当時、日本に来ていた宣教師フロイスは、

『非常に優雅で美しく、ヨーロッパの王族を思わせる』という言葉を残している。


 だから、光秀もいい男だったんだけど。


 で、私ね、妙な言葉が思い浮かんだ。


 ……アンニュイ。


 戦国時代に最も似つかわしくない言葉、アンニュイというフランス語。日本語で言えば、物憂ものういとか、うれいを含んだとか、そんな意味なんだけど。


 この時代に、アンニュイほど似つかわしくない言葉はないと思う。

 まして、怒涛どとうの男、明智光秀だ。


 大病して最愛の妻を失ったが故に変わってしまったのか。しかし、史実によれば、彼は、この後もすばらしい活躍を見せる。織田家中で、それはもう目立つを通り越した奇跡なんだ。


 戦場で勝つ。それだけなら、織田家にも多くの人材はいる。


 のちの天下人羽柴秀吉を筆頭に、人のよいおじさん的でガサツな柴田勝家、古くからの重臣で一言多い佐久間信盛じいちゃんなどなど、いずれも文化的教養のない男たちばかりである。


 しかし、光秀は違った。彼は皇族の饗応きょうおうつまり接待やら礼儀作法に精通していたようだ。前半生が謎の男にしては、あまりに上流の礼儀作法に詳しいというか。知的な男でもあった。


 これは光秀の不思議の一つである。

 信長に仕えるまえ、朝倉家にいたことは証明されているのだが。


 どちらかと言えば下の階級で、そんな彼がこうした礼儀作法に通じていることが不思議だと思うわけだ。


 そして、今、脇息に肘をつき私を見つめる視線はアンニュイそのもの。家臣たちが慌てている事情が、少し読めたような気がした。


 アンニュイなんて贅沢ぜいたくは平和時にしか使いものにならない。

 この時代で、物憂ものういなんて言葉を吐いてたら、翌日は死体になっている。


「殿、古川九兵衛が参りました」と、斎藤利三が言った。


 殿と呼ばれた男は、ふっとため息をついた。


「誰ぞ」

「古川九兵衛にございます」

「苦しゅうない。面をあげよ」

「は!」


 九兵衛は様子が違うのか困った表情を浮かべていた。

 二人はなどという他人行儀な関係ではない。戦場でともに戦ってきた同士である。その殿であり仲間から「誰ぞ」って、そんな言葉を聞いて、九兵衛にしては珍しくとまどっているように見えた。


(つづく)

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