第12話 明智光秀、最大の窮地
「テンか」と、オババ言った。
テン? そういえば、似てる。
絹織りの
そうだ、確かに、この女はテンかもしれない。
なぜ、ここに館の主のように座っている。そして、なぜ左腕がない。
「テンさまは」と、トミの声が背後から幽霊のように聞こえた。「九兵衛殿の奥方やから」
え? え?
いや、それない! ないでしょ!
いくら、あれから6年過ぎたからって、あのテンが九兵衛の嫁なんて、想像の上をいってる。それに、ヨシはどうなった。テンに殺されたのか。
6年前に出会ったとき、テンは生まれながらのサイコパスだと私は感じた。
幼い頃から小動物を殺し、村八分にされて親を殺害して逃げ、そして、トミに助けられた女だ。
父親は
だから、その美しい顔からは想像できないほど強い。
そのテンが九兵衛の妻?
ないないない……。
だいたい、テンがそんなことを望むとも思えなかった。
彼女はいつも一人で物陰に潜んでいた。人とのコミュニケーションなど鼻からしそうにない。まして、恋など想像外だ。
「よう、おいでくださいました」
テンは低い声でそう告げると顔を上げた。相変わらずの無表情。薄暗いなか白く美しい顔が浮かび、オババと顔を見合わせる間に音もなく消えていた。
ああ、これは確かにテンだ。
「なにがあった」
「驚いたかえ?」
「驚いた」
あの自覚のないモテ男の九兵衛がテンを妻にするなんて、私が車をレーサー並に運転できるってほど、ありえないことだって思う。
「まあ、上がれ。酒も用意するから、長い話なんや」
私たちは炉端に案内された。
「話は明日にしよか? 寝床も用意してあるんやで」
いやいやいや。
ぜったい、どんなに疲れていても眠れない。全く眠れないって思う。なんなら徹夜してでも聞きたい。オババも同じ気持ちなのだろう、トミを促した。
「相変わらずやな。アメは変わっておらん。が、わてらは変わった。いろいろあったんや」
前に戦国時代に転移してから、こちらでは6年が過ぎていた。しかし、現代の私にとって、その時間は3ヶ月も満たないんだ。
だから、鮮烈に1573年のことを覚えているし、忘れてもいない。
「どや、飲みなはれ。酒のつまみも用意させるに」
「ありがとう。それで?」
炉端の炭がパチパチと音を立てている。打ち明け話を聞くには良い明るさで、私たちは静かに耳を傾けた。
「あれは、三つ前の冬の正月過ぎのことやった。明智軍はな、黒井城の城攻めをしておったんや……
トミは静かに話しはじめた。
🏔 🏔 🏔
天正4年冬。
赤井直正が籠城する黒井城を囲み、誰もが完全な勝ちを意識していた。
そこに油断が生じていた。
味方と信じた同盟国の当主・波多野秀治が裏切ったのだ。
これに明智軍は混乱のきわみに達した。まったく想定してなかった。
この裏切りが最初からの戦略であったとすれば、敗走する先にワナが待ち構えることは容易に想像できる。
敵に背後を取られ逃げるとなると、軍隊は弱い。
「安田、古川! しんがりを務めよ」
古川九兵衛が率いる隊はしんがりを命じられた。それは逃げる軍の最後尾を守ることだ。死んで功をあげよと言われたに等しい。
九兵衛が、ぐっと奥歯を噛みしめるのをトミは感じた。
彼は長槍を持つと、「は!」と、命に従った。
「ものども、行くぞ!」と、腹から声を出した。
九兵衛の目がトミとテンを捉える。
「お前たちは、先に逃げよ!」
「ですが、九兵衛殿」
「ここはよい。行け!」
トミは一瞬、迷った。
「トミ」と、テンが冷たく言った。「まぎれる」
「わかった」
テンを先にトミは逃げた。背後から九兵衛の怒号が聞こえる。その声に、生き延びてくれと祈るしかなかった。
トミは彼が好きだった。
直属上司という以上の愛着がある。その彼を見捨てて、ふたりは逃げる兵にまぎれた。
明智軍はまたたく間に兵の数が減った。
敗走する軍隊とは、そういうものだ。数万人の兵が、1日で数千人に減ることはざらだった。
背後から討たれるという理由もあるが、それ以上に足軽でもない雑兵は忠誠心が薄い。負ける軍と知れば逃げるのだ。
戦国時代の見えざる掟は大将を討たれると負けということだ。彼を守る侍大将クラスから足軽までは侍だが、その下は傭兵として雇われた兵役が義務の庶民や農民。いわば雑兵だ。
彼らは戦いごとに集められる。負け戦では率先して戦闘から外れていく。
そんな兵に混じって、テンとトミは山を下る坂道を逃げた。
と、ふいに、前方が進まなくなった。
「どうしたえ!」
肩で息をするトミとはちがい、「おそらく」と、静かにテンが分析した。
「待ち伏せだ」
「待ち伏せ?」
「ああ」
「明智の殿はどうなるんや」
「死ぬ」
テンは美しい顔を歪めもせず、ただ、事実を事実として話す。
「まずい。九兵衛殿は明智殿に
テンは答えない。
「ここで、明智殿が死ぬようなことがあれば…。ああ、この場にアメがいてくれたらなぁ。どうすればいいか教えてくれるんやが」
テンは答えない。
「戻ろう」
「戻ってどうする」
「九兵衛殿は待ち伏せを知らん。この場にいても、ほら、みろ、雑兵どもが逃げていくだけや」
森の中にわけ入って逃げる雑兵のあとを追った。整然と走ってきた兵は歯が抜けるように減っていく。
「テン。死ぬなら九兵衛殿と一緒や」
決断するが早いか、途中から逃げる雑兵から離れ、来た方向へ戻る道を選んだ。
(つづく)
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